~血戦 battle against adversity10~
レイヴがすうっと足を開き、掲げた細剣の鍔に額を擦りつけるように頭を傾いだ。剣を支えている両の腕が細かく震え始め、夜空に向けられた切っ先から黒い靄がゆらゆらと立ち昇っていく。
ほどなくして、レイヴの四方に先ほどの数を上回る黒刃が一斉に出現し、それらが一所に寄り集まり始めた。身構えるシュイの目前で黒い刃が重なり、融合し、液体のように流動して一つの動物を形作ってゆく。全身から滴る汗が、次に繰り出す攻撃がフェイクやフェイントといった類のものではないと告げていた。
瘴気を纏った不定形の馬がその目に青色の炎を灯すと、前足を振り上げながら虎の威嚇にも似た嘶きを放った。レイヴが口を真一文字に結んだまま腰をやや落とし、剣を両手で構える。左上段からの刺突の構え。掛け値なしの全力攻撃であることを空気が伝えてくる。
一撃に全てを込める選択をしたことから相手に余力は残されていないようだったが、シュイの消耗とて決して軽くはなかった。体全体から流れ出る汗が傷口に滲み、ぴりぴりとした痺れと気だるさを感じる。鎌を持つ右腕に裂傷が三箇所、術を放つ左手にも二箇所走っている。要所要所で大鎌を盾代わりにしていたため首や頭といった体の中心部にこそ傷はなかったが、黒衣はもう繕うほどもできないくらいずたずたにされている。
大鎌も<響き渡りし神代の弔鐘>の刃によって切り刻まれ、大分刃毀れしていた。柄に指の腹を滑らせれば切れ目の入っている場所がはっきりとわかり、大量の金属粉が指に付着する。床に目をやれば爪先ほどの黒い金属の破片がそこら中に散らばっていた。使い手の命を守ってくれた相棒に感謝しつつ、シュイは下唇を軽く噛み、失血で濁りつつあった思考をはっきりさせた。
時間を稼げば勝てる可能性が高まることは理解していた。シュイの放つ魔弾は物体に接触してから数秒で消失するが、レイヴの黒刃はその性質と操作性の良さが災いし、壁などに当たっても失われない。刃を展開している時間だけそれを維持する魔力が必要であることから、既に魔力は枯れかけていると考えてよい。だからこそ残された力を振り絞り、一撃に全てを委ねる選択を取ったとも考えられる。
それを踏まえた上で、シュイはその勝負に臨む決意を固めていた。際どい戦いで気分が高揚していることも影響していたのか、くだらぬ小細工でこの勝負にケチをつけたくないという思いがあった。全く不思議なことだったが、自分の命が失われるかも知れないこの状況で、後で後悔したくないという気持ちが先行したのだ。
逆手で空を掻きながら、先ほどレイヴに魔弾を命中させた時の感覚を一心不乱になぞる。真剣勝負の緊迫感の中において、練習の時を上回る速射を成功させた瞬間を今一度再現するべく、体幹から爪先までの動き、そして体を流れる魔力の両量正確にイメージする。
今までよりも遥かに短い時間で、具現化された魔力の五線譜に光の粒子が吸着。弾丸に変化してシュイの手元に残る。脇を引き締め、左手を引いたシュイを見て、レイヴが微かに笑う。反して、瘴気で象られた馬が不機嫌そうに蹄を踏み鳴らした。
「――さて、いきますよ」
そうとレイヴが告げた瞬間、双方の手が合わせ鏡のように動いた。
射出時にその衝撃が上腕にまで達し、左肩が外れて強烈な痛みに襲われた。それだけに手応えは十分だ。捻り込むように突きを繰り出したことで、速度に回転が加わった五つの光弾が瘴気の馬と衝突。白と黒の魔力の奔流が衝撃波の環を生み、レイヴの灰青髪を後方へと流す。と、同時にシュイの黒衣のフードを留めていたクリップが弾け飛んだ。
――馬鹿な、この一撃で互角!?
全身全霊を出しつくした至高の一撃。五つの弾丸と黒い馬は互いに一歩も引かず競り合っていた。光と闇の蔦が絡み合って形成された力場が二人を閉じ込める。決着がつくまで逃げることを許さぬというように。
床の塗料がみるみるうちに溶けていき、蒸発して煙と化す。衝突地点の地面が大きく陥没し、地面が揺れる。エネルギーの押し合いは熾烈を極め、ホールの中心から離れている壁にまで亀裂を入れていった。渦に巻き込まれた瓦礫が吹き抜けから外へ、次々に飛ばされていく。
二人が固唾を呑んでその結末を見守る中、時が止まったかのように感じられていた硬直状態にも亀裂が入った。シュイは瘴気の馬が先ほどよりも姿が大きくなっていることに気づいた。背筋に悪寒が通り抜けると共に、馬と押し合っていた五つの魔弾のうち一つが爆ぜ、光の塵となって消失する。
――な、なんでだ。これでも駄目なのかよ。
全てを込めたはずの一撃が、しかしじりじりと押されていた。動揺する間にもう一つの魔弾が霧散。鍋に入っていた水が一瞬にして蒸発するような音が鳴った。
明らかな劣勢に不本意にも身が竦む。瘴気の馬がこちらへと少しずつ近づいてくる。不意に、高揚感が恐怖心に塗り替えられた。こんなぎりぎりの勝負をどうやって楽しんでいたのか、どうして楽しんでいたのかも思い出せなくなった。ぐにゃりと視界が歪み、合わせて思考が歪んだ。
――絶対に戻るって約束したのに。
シュイは、生まれて初めて心から死ぬことを怖れていた。死がもたらされる結果として、アミナやピエールら、仲間たちの信頼を裏切ることが怖かった。死んだ後の光景が明瞭に浮かび、そのことがますます混乱に拍車をかけた。エミドと一戦交えた時にはおのれを、先を省みないで立ち向かうことができていたのに、と。
真剣勝負で全力を出し切った。ただ、相手がその上をいっただけだ。そうやって単純に割り切れればよかったが、この土壇場になって臆病さを覗かせた自分の無様さに苛立ちが募る。まさか、この一年で自分は弱くなってしまったのか。湧き出たそんな思いに必死に抗おうとする。
そんなシュイの葛藤を知ってか知らずか、レイヴが厳かに告げる。
「……素晴らしい、闘いでした。ですが、これまでですね」
その落ち着いた声音が耳に触れ、シュイが前進してくる馬を見て、目を瞑ろうとした。
その途端、シュイとあと十歩ほどの距離にまで迫っていた瘴気の馬が、三つ目の魔弾と共に呆気なく消失した。か細い断末魔のような、風穴に響くような音が場に響き渡り、シュイが釣られて顔を上げた。
――な、え?
驚きで声が出なかった。魔力が尽きたのか、それとも時間制限によるものか、レイヴの<響き渡りし神代の弔鐘>によって生じた靄が急速に身を縮めていき、細剣の刀身が黒から元の紅へと戻りつつあった。
大きな馬体に押し込まれていた残り二つの光弾が俄然勢いを取り戻す。今度はレイヴの目にも、シュイの放った魔弾の軌道がはっきりと見えた。体から逸れていた弾道が直前で屈折し、修正されたのがわかった。
咄嗟に細剣を横にして魔弾を受け止めたのは流石だったが、凄まじい衝撃が武器を支える手を襲い、柄を掴み続けることを許さなかった。中指と薬指が関節と逆に折れ曲がり、その隙間から剣が零れる。辛うじて踏ん張っていた足が地面から押し剥がされた。弾かれた細剣が遠ざかり、武器が術者の手元から離れたことで付与魔法が完全に解除される。
勝負は決していた。レイヴの胸の中央にシュイの魔弾が着弾。更にはこめかみをも弾かれ、脳が左右に揺らされた。遠のきかけた意識の中で背に床の感触を感じ、レイヴは掠れた声で闘いの終結を宣言する。
「……鬼を屠った一撃すら、凌がれるとは。私の……いえ、あなたの勝ちです」
最後に負けを口にしなかったのはせめてもの抵抗か。レイヴは胸と指先の痛みに顔をしかめながらも言葉を続けた。
「……冥土の土産に聞いておきたい。その魔法は、なんという名ですか」
一方のシュイは、状況を整理するのがやっとのようだった。瘴気の馬が床に刻印した蹄の跡を半ば放心状態で見つめていた。
――勝ち……俺が勝った、のか?
我に返るまでにはしばしの時間を要した。必死に頭の中を整理しようとしたが中々うまくいかなかった。
「あ……え、あぁ……まだ決まっては、いない。人前で披露したのも、今回が初めてだ」
間が空いて、たどたどしく言葉が発された。息も絶え絶えの様子のシュイに、レイヴがほんの一瞬、満足そうに鼻を鳴らす。
「ふっ、ならば私が初めて、あなたの切り札の餌食となったわけですか。光栄です、というべきですかねぇ」
「……速決するならば、スカージュ。……ラピディティ・スカージュっといったところか」
「……<刻穿ちし閃>か、悪くない」
シュイは先天的に強力な攻撃魔法を扱う才に恵まれていない。<結合>については稀有な才を有している一方で、外界の魔力を<吸収>、自分の体内に取り込むのを苦手としているためだ。
それでも修練に時間を費やせば中堅クラスか、上の下くらいの魔法は習得できただろうが、一流と呼ばれる魔法使いたちとは比べるべくもない。覚えるならば適正のある干渉魔法と付与魔法を伸ばすべきだ。そうニルファナに助言を受け、初級の魔法以外にはこれといった中遠距離攻撃を有していなかった。
これまでの戦い、シュイは瞬発力を頼りに敵との間合いを詰め、応用の利く付与魔法を鎌に施して切り抜けてきた。敵が少数であればそれでも問題なかった。しかしながら、大多数の敵を相手に接近戦を挑むのは相当なリスクがあり、大勢の兵に守られ、遠方から攻撃を仕掛けてくる弓手や魔法使いには反撃もままならない。傭兵のランクが上がるにつれて困難な任務に従事するようになってから、シュイはもう一段階上の強さを身につける必要性を感じていた。
自分の長所を活かすならば付与魔法と干渉魔法を応用し、攻撃魔法に代わる戦法を見出す必要がある。それを如何に実現するか、シュイは特訓を開始した。まずやってみたのは、滅祈歌の使用時にやったように付与魔法を遠くに飛ばせないかということだった。実際に試してみてできないこともなかったのだが、直ぐに魔力が尽きてしまうことがわかった。
ならば、と今度は基礎魔法と干渉魔法の組み合わせで威力の底上げができないかを試してみた。様々な攻撃魔法に思いつく限りの干渉魔法を上乗せし、毎日のように検証を行った。
その結果、<補足せし魔弾>という魔法の効果に注目した。これは術者の視野と相手の魔力に感応して対象を追尾する魔力弾を放つものだ。<集束する雷>や<燃え盛る火炎>などと並び称される基礎の魔法でもあり、熟練の魔法使いが使用したとてそれほどの破壊力は望めない。とどめを差すよりは牽制して相手の隙を作るのに使われることが多いが、威力の割に制御が難しく、追尾した魔弾が接触するまで存在維持に術者の魔力を食う。使いようがないわけではないが欠点が多く、覚えたところであまり見向きされる魔法ではない。難易度が同程度で他にいくらでも強力にして広範囲に被害をもたらす魔法があるため、みんなそちらの習得に移行する、というわけだ。使用が困難な魔法を使えるというのは魔法使いのステータスのひとつなのだが、これに関してはその範疇から外れている。
そんな残念な魔法、<補足せし魔弾>をどうにか実戦レベルにするべく、シュイは他の魔法を組み合わせ、新魔法の開発に乗り出した。
真っ先に解決すべきは持続時間に比例して威力の減衰が著しいことだった。折角集められた魔力が風圧で少しずつ四散してしまうのだ。シュイは拡散を防ぐために通常拳大ほどの球体を豆粒大にまで圧縮し、風の抵抗を受けにくい楕円形に形状変化させ、更には表面に硬化を施した。それをスムーズに行えるようになるまで、実に半年余りを費やした。
元々強化魔法は効果を出すまでに時間がかかるものが多く、基礎魔法に応用するにはすこぶる効率が悪い。実際、習得を開始した当初は強化魔法から魔弾を射出するまでに20秒ほどの時間を要していた。だが、そこは祈歌による作用の高速化によってある程度改善された。後は反復を繰り返すことによって思考を省略化し、少しずつ発動時間を縮めていった。
残る問題は発射台となるための筋力と瞬発力だった。腕だけに強化魔法を施すと射出の勢いが強過ぎて抑えが利かず、足元が泳いでまともに狙いを定められなかった。その欠点を克服するため、足を強く踏み込む直前に<韻踏み越えし歩を以って>を使用し、その勢いのままに突きを繰り出し、最高速に達した瞬間に<韻踏み越えし歩を以って>を解除。同時に魔弾を<解放>。言うは易く、行うのは洒落にならないほど難しい。厳密に過ぎる魔力のコントロールが必要とされるが、全ての歯車が噛み合った時のコストパフォーマンスには目を瞠るものがある。
<補足せし魔弾>を格上げした<刻穿ちし閃>。移動中にも使えるのが最大の利点であり、かつ誘導性もわずかに保たれている。このわずかに、というのがポイントだ。目標に対して一直線に突き進むように見えるが、敵が照準から外れると速度を落とさずに軌道を変え、屈折する。追尾というには程遠いが、角度で表すと最大で30°の軌道修正がなされる。最高速度に達した時にはその角度も半分以下にまで落ち込むものの、威力は格段に跳ね上がる。
シュイはこれまでの戦いにおいてこの特性が、敵が強者であればあるほどに有効であることを理解していた。熟練の戦士は回避行動を取る際に無駄な動きを極力少なくする。もっといえば紙一重の動きで避けようと体が勝手に反応する。その方が反撃行動に移りやすいためだ。
だが、この攻撃は超高速でありながら軌道が変化するため、ただでさえ避けることが非常に困難。至近距離であれば逃れる術はない。射程は大人の歩幅に換算しておおよそ五十歩から六十歩ほどといったところで決して短くはない。上級攻撃魔法と比べて派手さはないが使われる敵にとってはいやらしい攻撃である。
だが、その完成はレイヴ・グラガンとの闘いなくしては成し得なかった。練習時にどうやっても拭いきれなかった無駄が、この一戦を通じて削ぎ落とされるに至った。
「多分生まれて初めて、おのれの全てを余すことなくぶつけられました。もやもやとしていたものが吹っ切れた気がします。感謝しますよ、シュイ・エルクンド」
「……感謝」
「文字通りに受け取らなくても結構です。心残りはありません、さぁ、とどめを」
シュイは胸を大きく上下させているレイヴを見、それから自分が手に持っているボロボロの鎌を見て顔をしかめた。まるで白アリに食われた木の板だ。どう見ても切れ味はよくなさそうだった。修繕しなければとても実戦では使えないだろう。
シュイは諦めたように肩を落とし、そのまま寝そべっているレイヴに向き直った。
「――その前に、知っていることを話してもらう約束だったな」
セーニアのジヴー遠征に関する仔細を聞き終えると、シュイはじゃあ、と言ってその場を立ち去ろうとした。
「ま、待ってください。……それは、我々をこのまま見逃すということですか」
ふらふらになりながらも立ち上がったレイヴは、納得がいかなそうな顔をしていた。命が助かるのにどうして不服そうなのだ、と思わないではなかったが、全く理解できないわけでもない。もしもエミドとの戦いの折に情けをかけられていようものなら、こちらとて複雑な心境になっただろう。
「聞きたいことは聞けたし、もう用はない。あんたさっき俺に礼を言ったけれど、こちらにも似たような気持ちはあるしな」
エミドの時とは違う意味で、この一戦は忘れ難いものだった。満ち足りた時間を与えてくれた敵を今直ぐに始末する気にはなれなかった。直接的な恨みがあるわけでもなし、何より最後に見舞った一撃は明らかにレイヴの一撃が上回っていた。勝った気が全くしないのにとどめを刺すのは何かに負けた気がする。ただし、その正体が何なのかまではわからなかったのだが。
「……はぁ、甘いですねぇ。そこは人生経験の差ということで割り切ればいいものを。闘いが終わったばかりで少し気が高ぶっているだけではないのですか?」
露になった黒髪の男の顔に目を細め、レイヴが腰の両脇を支えながらぐっと背中を伸ばす。
「きっと後悔しますよ? 勝負は最後まで立っていた者が勝ち。そこらの子供でも知っている理屈だと思いますけれど。大体、あなたもここで、その目で見たはずです、ルクセン教の者たちの無残な死体を。そちらの雇い主が我々を生かして返して、果たして納得してくれるのですか」
シュイはだらりと下がった左腕を持ち上げ、脱臼した肩を嵌め直した。
「――ぐっ、つうぅっ。……ふぅ、そちらこそ妙な言い草だな。こちらを心配しているように、あるいは死に急いでいるようにも聞こえる」
「……それこそ誤解です、プライドの問題ですよ。ま、今ならそう悪くない気分で死ねるという点には異論もありませんが」
レイヴはそういうもののシュイとピエールが頼まれたのは侵入者の排除であり、別に殺せと言われたわけではない。侵入者がここから出ていってくれればイヴァンからの依頼は果たされるのだ。
彼の名前を伏せた上でシュイがそう言うと、レイヴがやっとのことで体を起こし、ズボンについた埃を軽く叩き落とす。
「排除って、基本的に殺害の意ではありませんかねぇ……」
「見解の、というよりはギルド内での隠語の相違だな。戦士と戦士が合意の上で行った決闘、当事者以外に異論を挟ませる気はない。そして、いにしえの時代から決闘の敗者は勝者の言うことに従うものだ」
そういうシュイの口調から、しかし貴賤に似た感情は感じ取れなかった。
「……ふむ」
「ものはついでだ、どうせなら一度死んだと思って暗殺稼業から足を洗ったらどうだ」
「――ミスティミストを抜けろ、と?」
「そうは言っていない。けれど、あんたほどの力の持ち主が人を傷つけるためにしか剣を振るわないのは惜しい、というか勿体ないだろ」
「…………は?」
「大体、俺だって本当はそっちを覚えたかったんだよ。<響き渡りし神代の弔鐘>ってやつ。それを使えればわざわざ苦労して<固有魔法>なんか覚えなくても済んだのに。俺がどれだけ頑張っても使えなかった魔法をあんたがいとも容易く使ってるのを見てどんだけ落ち込んだか、そこんところわかってるのか」
「い、いや、そんなことを言われましても」
ぶつくさと文句を零し始めたシュイに、レイヴは困った顔になる。
「大体あんた、家族はいないのか」
「……さてねぇ、今頃はどこで何をしているやら」
束の間、レイヴはモーザを殺した後の数日を昨日のことのように思い出した。彼の屋敷にあった金品を換金し、孤児仲間の住む家に置いて誰にも告げることなく姿を消した時のことを。音信不通になって久しい今も時折、あの時の仲間たちが元気でやっているだろうかと思わないではなかった。突と込み上げてくる懐かしさを溜息にして吐き出す。
「ってことはいるんだよな。そいつらはあんたの死を悲しんでくれないような情の薄い連中なのか」
レイヴは返事をしなかった。否と答は決まっていたが、人情に訴えるのも柄ではなかった。
「その力を他のことに役立てようって気にはならないか」
尚も畳みかけるシュイにレイヴが眉をハの字にした。
「あのですねぇ……人としての禁忌を散々冒してきた私が、今更誰かを救いたいなどと考えると思うのですか? よしんばそうなったとして、私の今までやってきた罪が消えるわけではありません」
「罪、か。悪いことをやってるって自覚はあるんだな。エミド・マスキュラスにはそれすらなかったぜ。それに、そういった考えを持っているかどうかはそこまで重要じゃない。嫌々やるなら尚更、苦痛になるし罰にもなる。そっちの方が贖罪の理にも適っているだろう」
「……む」
「善悪の基準は必ずしも当人が決めるものじゃない。あんたの思惑がどうあれ、その行為によって救われた人が一人でもいるならば、その人にとってあんたの行いは善行に相違ない、違うか?」
「それは……俗にいう偽善ではないですか?」
「くだらない。そんなもの、俺に言わせれば曲りなりにも前に進もうとしている人間を小馬鹿にするための唾棄すべき言葉だ」
得てして人の心は手前勝手なものだ。前に良が付こうが邪が付こうが変わりない。虚栄心や自尊心を満たすために善行をして、結果として誰かが救われるならそれでいいのではないか。シュイはそう考えていた。倫理に添う行為で対価を得ることを偽善と呼ぶならば、この世には偽善しか存在しなくなるだろう。他人に尽くしたいという思いも裏を返せば自己愛なのだから、心の指針に対して善悪を語るのも虚しいだけだ。二つに割り切れるほど人間は単純じゃない。その意味で、やはりエミド・マスキュラスは人間ではなかったのだろう。
「あなたの価値観も相当変わっていますねぇ。ひとつ確認ですが……エグセイユの身柄はどうするんですか?」
拾い上げた刃の曲がった細剣にレイヴの表情が曇ったが、一息入れて強引に鞘に押し込んだ。
「どうするって言われても、別に、としか。確かに俺にとっては害悪以外の何物でもないけれど、レテ村でやつがあの場に駆けつけなければ野盗の代わりに大勢の村人が殺されていたんだろうし、結果に関してだけは責める気もない。むかつくけどな。ピエールが殺されていたとなれば仇を討たなきゃならないだろうが、そうなっていない以上こちらからすることは何もない。むかつくけどな」
――や、やはり根には持っているようですね。
レイヴは乾いた笑いを返す。シュイは予備のクリップでフードを留め直すと、レイヴに背を向けてスタスタと歩き始めた。
「……いいでしょう、今回だけは勝者の顔を立てましょうか。生きているエグセイユに会ったら言伝をお願いします。我々は一旦ギルド本部に撤収する、侵入地点まで自力で戻るように、と。死んでいたら、忘れてくださって結構です」
シュイは振り返らずに右手を軽くかざし、しっかりとした歩調で足早に去っていく。
――まだそんな余力があるとは、やっぱり完敗ですかね。
通路の階段を降り始めたシュイのしゃんとした後ろ姿を見て、レイヴが苦笑いを浮かべた。
一方で、後ろからの呟き声にシュイは、痩せ我慢に決まっているだろう、と唇を歪めた。せめて最後くらいは勝者らしく立ち去りたいとくだらぬ見栄を張っただけのことだ。
シュイはレイヴの視線から逃れると灰色の壁にどっと寄りかかり、懐に忍ばせていた水筒を口につけて乾いた喉を潤すのだった。
――――
「……引き分け、か」
ピエールとエグセイユの戦いの場に戻ったシュイは、痛んだ左肩を抑えながらぽつりと呟いた。と、足を投げ出すようにして倒れていた赤髪と青髪の男二人が肘で何とか体を支え、揃って顔を起こした。
「ばっかやろ、こいつ強えよ。誰だよ、あんなやつちょちょいのちょいだって言ったのは」
「……てめえ、そんなこと言いやがったのか。ぜってぇぎたぎたにしてやる」
エグセイユががくがくと震える腕を何とか伸ばし、上半身だけ起こして傍に落ちていた剣を手繰り寄せる。
「……そこまで言ってねえ。勝手に妙ちくりんな罪状を継ぎ足さないでくれるか。見りゃわかるだろうけれどこっちだってへとへとなんだ、今日はこれ以上体を動かしたくない。――それにしても、随分派手にやり合ったんだな」
シュイが周りを見渡しながら呆れたように言う。壁も天井も、もちろん床も巨大な刀傷だらけであり、辺りには抉られた壁の残骸がそこら中に散らばっている。格子模様など見る影もない。こんな狭い場所でよくもまぁこれだけ暴れられるものだ、と感心してしまうくらいだ。範囲魔法を使おうものなら自分まで巻き添えを食いそうなスペースで、二人は相当に無茶な戦闘を繰り広げたようだった。
「それ、おまえにだけは言われたくねぇ。どうせさっきの地震もおまえかレイヴのどっちかだろ、戦っている最中に滅茶苦茶足場が揺れて水差されまくったんだぞ」
地震など起きていただろうか、とシュイは不思議そうに首を傾げた。必死で戦っていたせいで周りへの影響などほとんど気にかける余裕がなかったのだ。
シュイは膝を立てて座っているピエールに手を差し出し、伸びてきた手を引っ張り上げる。
「っと、ふう、あぶね」
ピエールもシュイに負けじと疲弊しているのか、足取りは歩き始めた幼児のように覚束ない。かといって、シュイにも肩を貸してやるほどの余裕は残っていなかった。
「くそが……てめえが五体満足でここにいるってことは、レイヴの旦那は殺られちまったってことか。はっ、普段から偉そうな口叩いているくせに本当、使えねぇやつ」
「……おまえは人の話をちゃんと聞いているのかよ。どうやったら俺が五体満足に見えるんだ」
黒衣から肌まで引き裂かれ、肩は填めたものの全身傷だらけだ。具体的に言うと、あと数時間も放置しておけば出血多量で死ぬレベルである。
「んなことはどうだっていい。……どうなんだ、答えろコラ」
人に聞く態度じゃないなと思いつつもシュイは応じる。
「本当なら説明する義理もないんだが、侵入地点まで戻るようにって伝言を頼まれている」
「なんだぁそりゃ、てめえ俺を始末する気がないってのか! 俺の存在なんか取るに足らないってのか!」
何故そうなる、と思ったが口にはしない。人の自尊心を徒に刺激してもろくなことにならない。以前なら手拍子で受けていたが、今はそれくらいには賢くなっているのだ。
「んなもんこっちの勝手だろう、おまえだったら死にかけた俺を見て嬉々と剣を振るうんだろうがなぁ」
それを聞いてエグセイユがいきり立った。一言多い点は改善されていないんだよなぁ、とピエールが頭を掻いた。
「……ちっ、生きてるってことかようぜぇ、あんの恥さらしが」
「そう言う割になんでか、嬉しそうだよな」
「誰がだ!」
エグセイユが噛みつくように叫び、剣を構えた。が、その足はがくがく震えていてまともな勝負にならないことは明白だ。ほとほと難儀なやつ、とシュイは首を振った。
「なにもおまえが必死こいて頑張らなくたって、俺たち近いうちに勝手に死ぬかも知れないから放っておいてくれよ。本番はこっからだしな」
エグセイユの瞳が揺れ、ピエールが口を結ぶ。
「……おまえら、本気でセーニア軍と戦りあうつもりか? 傭兵が何人か加わったくらいでジヴーがあの精鋭軍団に勝てると思ってるのか?」
「うるせえな、やってみなきゃ……わかんねぇだろ」
言い返したピエールの歯切れは悪い。必ずしも本心ではないのだろう。単に現実を認めたくないだけだ。強いやつには勝てないという現実を。
「はっ、自信なさそうだな。美意識で動くことが多いやつほど早死にするんだぜ」
シュイがぐっと呻いた。ついさっき死にかけたばかりなだけに、その軽い言葉がやたらと重く聞こえた。レイヴが仕掛けてきた最後のひと勝負に付き合って良かったのか、悪かったのか、未だに明確な答えは出ていなかった。
「――いこうぜ、シュイ。とっとと手当しないとな」
「……あぁ」
覚悟を決めた様子のピエールを見て、シュイはうなずいた。
――そうだったな、ここまできたら、やるしかない。
シュイはエグセイユに一瞥だけくれると、既に歩き出していたピエールの後ろに続いた。