~血戦 battle against adversity5~
遠くからの剣の交響が空気を揺り動かし、シュイたちに先んじてひとつの戦闘が始まったことを伝えた。シュイはエグセイユよりピエールの方が地力が上だと確信を持っていたわけではなかった。言動こそ腹に据えかねるが、三年前の時点でもエグセイユの力は群を抜いていた。シルフィールを脱退してからもミスティミストでの苛酷な生存競争を勝ち抜いてきたのだし、実力は更に底上げされていると考えるべきだろう。おそらくは自分が戦ったところで楽には勝たせてもらえない相手だ。
そうかといって、準ランカーにまで昇格した傭兵を過度に心配するは礼を欠く行為。シュイにとっても、ピエールは傭兵として、友人として、互いに認め合い、競い合うに足る存在だった。馴れ合いよりは叱咤激励し合うくらいがちょうどいい。死地にまで赴いたのだからこのくらいはやってみせろ。お互い、それくらいの厳しさで応じるべきだろう。
不安を吹き消したシュイはレイヴから五歩ほどの距離を置いて、つかず離れず進む。もしこの場に誰かがいれば、直ぐに違和感に気づいただろう。二人が歩いているにも拘わらず、足音は一人分しか発されていないことに。
シュイはレイヴの足元にちらりと視線を向けた。忍び足とはいうが、ネズミの足音すら聞こえてきそうな沈黙の中で、靴の擦る音すら聞こえないのは異常の一言に尽きる。床を踏みしめる直前に爪先で体重を殺しているのだ。
これは暗殺を生業としている者たちの特徴だ。イヴァン・カストラも足音を殺す歩術に長けている。標的やその護衛たちに気づかれることなく、先手を取って思惑通りに事を運ぶためだ。一度逃がした標的を再びやる機会に恵まれることはそうないし、あったとしても護衛が増えているのは確実。より仕事が困難になる。
後に控える戦いを思うと自然と集中力が高まっていく。対人戦に関しては相手に一日の長がある。何しろ年がら年中きな臭い空気の澱に身を置いているような男だ。対イヴァン・カストラくらいに想定した方がよさそうだった。
警戒感を途切らせることなく勝つための方法を思案する。エミドにやったような方法は懲りている。偶々うまくいったからいいようなものの、後で省みればお粗末極まりない博打。命綱なしの綱渡りで相手を落とそうと取っ組み合うようなものだ。万が一にもそんな阿呆な戦い方をしたとあの二人に知られたら何を言われるかわかったものではない。最悪、滅祈歌の時のように折檻されかねない。
――しまったな、シャンに口止めしておくのを忘れていた。まぁ、アマリスやティートもいるし、仕事が忙しくて昔話どころじゃないだろうから大丈夫だろう。
無論、そこまでせねば勝算が碌々見込めぬ相手であったのだが、まずはそのような方法を取らねばならぬほどに追い詰められた準備不足を恥じるべきだろう。おのれの認識の甘さ。これだけの戦力がいればどうとでもなるだろう、と心のどこかで高を括っていたことを。この世界、常識の殻を突き破った化け物がどこにいるかわからない。エミドとの戦いはシュイの認識を改めさせた。
エミドとの戦闘時、最たる課題は捨て身に持ち込まなければならなかったことに尽きるが、そうなった一番の要因は決定力不足。誰かしら、全方位に展開する障壁のどこかを突き破れるくらいの破壊力を備えていれば、もっと被害を抑えて勝てたはずだった。
シュイ自身、持久力と瞬発力には自負があったものの、攻撃の選択肢に関しては不足を感じていた。<怒れる霆の渦流>や<魔を打ち払いし縛鎖>は強力な魔法であるが、前者は消耗が激しい上に滅祈歌なしでの広範囲攻撃は不可。後者は使い所が限られているし純粋な戦士に効果はない。<韻踏み越えし歩を以って>は消耗こそ少ないが敵との接触時、体への反動、負荷が相当にかかるので短時間しかもたない。
常勝無敗。現実的にはありえぬことだが、少しでもその高みに近づく必要があった。それが使えると敵に知れたところで、対応を許さぬ攻撃を編み出さねばならなかった。
その課題を克服すべく、エミドとの戦いの傷が癒えて退院を迎えたその日から、シュイはひっそりと修行を始めていた。イメージはできていた。干渉魔法<韻踏み越えし歩を以って>を応用し、己の持ち味である魔力の制御能力を存分に活かし、敵に攻撃の隙を与えぬ神速の、自分への負荷を最小限に押さえた攻撃。与えられた条件と制限を検証し、試行錯誤の上に確立した攻撃特化の継続戦闘体型を。
T字路を右折し、目の前に表れた二十段ほどの階段を上ると、本格的な修練場くらいはありそうなスペースに出た。レイヴが前もって言っていたように、そこには数十人からなる遺体が転がっていた。その所在は様々なようで、ローブを身につけている者もいれば赤い鎧に身を包んでいる者もいた。セーニア騎士、ルクセン教徒、そしてミスティミストの傭兵たちが。
血の臭いはあまり感じられない。慣れていたというわけではなく、流れ出た血の表面が白い霜に覆われていた。凍結しかけていたのだ。
ホールには今までと同じように外窓はなかったが、中央部分は地上へと繋がる通風口になっていた。天蓋にはぽっかりと大きな穴が空き、数多の星屑がちらちらと瞬いていた。
空から吹き下ろす砂漠の夜風は衣服を貫き肌に突き刺さる。二人の吐く息が次第に白くなっていった。喉に痺れと清涼さを伴う空気をひとしきり取り込むと、シュイは歩いていくレイヴを前にして立ち止まる。少しして、レイヴがシュイに振り返り、その手を腰の細剣にかけた。自然と肌が泡立つのを感じた。やはり楽には勝たせてくれそうになかった。
「さて、お手並み拝見といきましょうか」
薄く笑うレイヴの表情に嫌味は感じられない。純粋な好奇心か。はたまた強敵との力比べに喜びを見出しているのか。
「ご期待に添えるよう最善を尽くそう」
らしくない言葉を発した自分に戸惑いを覚えるのと同時に、胸が躍っていることに気づいた。苦心の末に編み出した術式が、果たしてエミド以来となる難敵に通用するのか。不安と期待の摩擦熱が血の巡りを速めてゆく。
依頼の最中にこのような感覚に陥ったことはなかった。これは歓びなのか。その疑問がすとんとシュイの心中に落ちた。底についた時には明解となっていた。おのれの心が『そうだ』と告げた。
「ふふ、流石に……独特の雰囲気をお持ちですね」
舞の型のように、滑らかな動きで鎌を掲げたシュイに、レイヴが小さく肩を震わせた。武者震いだ。自分が目の前の男に怖れを抱いているように、レイヴも自分に脅威を感じているのだ。
――怯むな、焦るな。実力差はほとんどない。
ひゅうひゅうと、頭上からの風がシュイの黒衣を、レイヴの青衣を揺らす。ほぼ同時に、自然体の二人がゆっくりと、お互いに向かって歩き出した。一歩、二歩。
――三歩目。レイヴの口元から白い靄が発されなかった。
突と視界から煙のように消えたレイヴに反応し、シュイの足が右方向に踏み出された。二人が武器を構えながらも左右に円軌道をなぞりながら疾走する。
レイヴが剣に添えていない方の手で魔印を紡ぐ。一方で、シュイが口ずさむのは付与詠唱。
恐るべき速度で、剣に添えられていたレイヴの手が天へと向けられた。鞘の中を走り、柳のようにしなった細剣の剣刃に<水禍で杯を満たせ>の水流が絡みつく。
間断なく、レイヴの手が薙ぎ払われる。と同時に、水の鞭が地面すれすれに滑る。その動きをシュイの目が確かに捉える。足首を捉えられる直前に両足を一瞬浮かせて回避。
シュイの足元を通過した水の鞭に、引き戻されたレイヴの手首が新たな動きを与えた。伸び切った水の鞭が一瞬の停止を経て反転。シュイの首元目掛けて跳ね上がる。頭を一つ分下げて側面からの一撃を躱したシュイが低い体勢のまま二歩にしてレイヴとの距離を潰す。肩が上がり、がら空きになっていたレイヴの脇腹に鎌の柄を突き出した。
その時にはレイヴが次の動作に移行していた。シュイの頭の上を通過した水流を切り離し、新たに生じた水流が下方からシュイの鎌に巻き付き、鎖のように絡め取って突きの勢いを殺す。それに動じることなく、シュイは詠唱していた<絡みつくは雷の蛇>を発動。付与魔法で生じた電撃が水流を遡り、レイヴの手元へと迫る。
状況を即断したレイヴが更なる行動に出た。雷が手に届く寸前、おのれの細剣を手放して半回転、シュイとの間合いを詰め、その胸元に右手を伸ばす。
――掌底!
威力を増幅すべく踏み出されたレイヴの左足に体重が伝わる寸前、シュイの右足がその足を内側に刈る。充分な踏み込みを許されずに威力を減衰された掌底打が、それでもシュイの身体を突き上げた。後方へと飛ばされる慣性に逆らわず、シュイがレイヴに伸ばした手を向ける。シュイの腕に力が込められるのを、握られている黒い柄を見止め、レイヴの顔色が変わった。間一髪、首を傾けたレイヴの耳を掠めつつ後ろに回り込んでいた鎌刃が通過。切り裂かれた灰青の髪が何本か、ひらりひらりと風に舞う。
水の鎖が解け、無数の雫となっていた水に混じっていた紅蓮の細剣にレイヴの手がすっと伸びる。柄が握り込まれると同時にシュイが両脚で地面に着地。宙にあった水が一斉に床に降り注いだ。僅かな時間に練り込まれた攻防が双方に鳥肌を立たせる。
「ふぅ、危ないですねぇ。まったく油断も隙もない」
そういう割に動揺も見せぬレイヴに、シュイは打たれた胸を擦りながら応じる。
「いっつぅ、……お互い様だ。あっさり得物を手放すとは、やっぱり体術も一流か」
歩き方からして武器に頼るだけの武芸者でないことはわかっていたが、斬り合いの真っ最中に武器を手放すことなど並大抵の胆力ではできるはずもない。綱渡りのようなやり取りに重い溜息が落ちた。
「あなたこそ、踏み込みの威力を殺した一瞬の判断は称賛に値しますよ。やはり、生半な方法ではやられてくれそうにないですね」
レイヴが細剣のしなりを確認するように、ひゅっひゅと空を切る。
「――では、もうひとつ上の世界へ、いってみましょうか」
レイヴが一度大きく息を吸い、詠唱を始める。
「<蒼き雷を納むるは涅色の胸奥 世に渦巻く汚濁に其の悲憤慷慨を吐き出さん>」
シュイがその詠唱に耳を疑う。レイヴが行使しようとしているのはまさしく<怒れる霆の渦流>の詠唱。解放された魔力により創造された黒雲が一気に空に広がっていき、万雷がレイヴの手元に収束する。蒼雷を纏った紅蓮の細剣が中間色の紫電に覆われた。
レイヴはゆっくりと手首を返し、そのまま剣を引いた。紫電を纏っている剣が一度パチンと大きく音を立て、膨大な量の雷ごと鞘口に呑み込まれた。さしものシュイもありえぬ光景に息を飲む。
「――その鞘は一体」
「魔力を寄せつけぬ金属であつらえた特注品です、あげませんよ」
レイヴが悪戯っぽく片目を瞑りながらも低く腰を落とし、肩を見せつけるように半身になる。居合いの構え。いつでも抜き放てるようにか、だらりと下げられた五指の関節は軽く曲げられている。<怒れる霆の渦流>の雷を駆使した抜剣術。居合だけでも堅い壁に亀裂を入れたくらいだ。直撃すればさぞかし楽に死ねることだろう。
――そのはずなのに。
死を間近に突きつけられているはずなのに、口が勝手に笑みを形作る。乱れ飛ぶ刃に身を晒す、ひりつくようなスリル。全く予測のつかぬ相手の攻撃が、酷く楽しかった。