~決意 the will to win5~
エミドの空いてる方の手が冷気を宿し、襟首を掴まれているボクの足に伸びてきた。足が凍傷で腐り落ちるイメージが頭に浮かんで、ボクはみっともなく嗚咽しながら目を瞑った。
でも、次の瞬間、風を切る音が聞こえた。と思ったら、間近で固い物同士がぶつかったような耳障りな音がした。恐る恐る目を開けると、エミドが首の辺りを覆うように障壁を展開していた。あさっての方角を見ると、金色の手斧がシュルシュルと回転しながら宙へと昇っていくのが見えた。それで、飛来してきたそれを防ぐためにやったんだとわかったんだ。
重力に従って落下するはずだった手斧は、不規則に軌道を変化させ、投手と思しき男の元へと戻っていった。傷だらけの身体をおして立っていたのは丸刈りの、銀糸で出来たグローブを両手にはめたアースレイの上級傭兵だった。ボクの窮状を察して助けてくれたんだ。
「婦女子にたいしてなんと惨いことをするか! これ以上の狼藉は許さんぞい!」
「ふむ、今の不規則な軌道からすると磁力使いか。死に急ぎたいのであれば仕方ない、邪魔者を始末してからゆっくりと素体の加工に取りかかるとしよう」
エミドの意識が手斧の人に逸れた瞬間、真逆の方角に倒れていたシャンが、両手で地面を叩きつけるように起き上がった。そのまま前がかり気味に走り出して、傷ついた額から流れ出る血にも構わずにこっちに向かってきた。
肩越しにそれを一瞥したエミドは、ボクをかみ終えた鼻紙でも捨てるように放り投げて、シャンが突き出した両手に対して障壁を展開した。
「あぐっ……うぅ」
強く背中を打ち付けた痛みで、かえってぼやけていた意識がはっきりした。ボクはティートのすぐ傍に横たわっていた。仰向けの状態で首だけ起こすと、シャンの二本のナイフがエミドの障壁に、続けざまに突き付けられていた。
鍔の部分に魔石が埋め込まれているナイフから炎が揺らめき、刀身が一気に白熱してた。でも、障壁はその熱をも遮っていたみたいで、エミドは涼しげな顔で飛びかかってきたシャンを睨みつけてた。
「いきなり刺そうとするなんて、君はあれかね、辻斬りか何かかね。もし貴重な素体が使い物にならなくなったら一体どうやって責任を取るつもりだね」
「誰があんた以外を刺すか! こんの人でなしが、女の子になんて真似をしやがる!」
そうやって、シャンが唾を吐き散らしながらエミドを罵った。どちらかって言えば丁寧な物言いをする方だから、ボクやティートのために、本気で怒ってくれてるんだってわかった。って、シャン、何で照れてるの?
「おやおや、斧の男と同じことを言うのだね。君は利用したり食べたりする生き物をいちいち雌雄区別しているのかね」
口の端を持ち上げたエミドに対して、シャンがナイフを握ったまま手をかざすのが見えた。布の巻かれた柄の裏に握り込まれていたのは白い光を帯びた楕円形の魔石だった。
なんの魔石かを問うことも、気にする素振りすらも見せずに、エミドはシャンに手の平を向けようとした。自分の障壁がありとあらゆる攻撃を防ぐ自信があるかのようにね。
でも、シャンの手の平に収まっていたのは攻撃用の魔石でじゃなかったんだ。
「なにっ!」
この戦いが始まって以来初めて、エミドの動揺した声を聞いた気がした。シャンの手の平が眩いばかりの光を放ち、辺り一帯が真っ白になった。と、思ったら、ボクが誰かの脇に抱えられた。隙をついて、シャンが負傷していたボクとティートを、エミドから遠ざけようとしたんだ。
「ぐ……う、なんともひどいことを。老眼がこれ以上悪化したらどうしてくれるのだね。年寄りをもっといたわりたまえよ」
肩越しに、眩しさに顔をしかめていたエミドが薄らと片目を開けたのがわかった。シャンは的を絞らせないようじぐざぐに走っていたんだけど、エミドは構わずこっちに指先を向けた。
ボクが注意を促そうとしたとき、エミドの斜め後方に積み重なっていた瓦礫が、微かに揺れ動いたような気がした。今度は気のせいじゃなくて、細かな石がパラパラと歪な斜面を転げ落ちていくのが見えた。
次の瞬間、見覚えのない妙齢の男の人が瓦礫を蹴散らして、黒い髪を靡かせながら飛び出してきた。こちらに追撃を加えようとしていたエミドの手がぴたりと止まり、視線と一緒に突っ込んでくる彼の方へと向けられた。
<狂嵐の砲撃>。その言霊が直接口から紡がれることはなかったけど、指先から生じた螺旋状の風はまさしく上位の攻撃魔法だった。大人を丸呑みにするほどの風が地を削って、落ちている瓦礫を巻き込みながら男の人へ向かっていった。
間近に迫る脅威を前にして、その人は前に踏み出す足を止めずに、後ろ手で握っている鎌を力強く握り締めた。どこかで見覚えのある黒い鎌に、ボクは「あれ」って思った。
男の人は勢いを殺さぬまま左右にステップを刻んで、必要最小限の動きで螺旋状の風を避けた。巻き込んでいた瓦礫が頬を撫で、頬に赤い糸を引いた。
「<怒れる霆の渦流>ッ!」
詠唱と同時に上空から青い稲妻が発生して、黒い鎌刃へと引き寄せられた。雷が高速で糸を巻くよう刃に絡んで、その大きさを何倍にも増していくのが見えた。
男の人がそのまま、象の首をも一太刀で落とせそうな鎌を横に薙ぎ払った。未だ視力が完全に回復していなかったはずのエミドは、その攻撃にも迅速に対応してみせた。半月型に象られた雷が展開された魔法障壁と接触し、橙色の火花を間欠泉のように勢いよく吹き上げ始めた。
金属同士を高速で擦りつけ合うような音が長々と尾を引いてた。二人を取り囲むように凄まじい力場が衝撃の輪を生じさせて、ボクたちの髪を何度も風圧で乱した。足元が地響きとともに陥没して、エミドと彼の身体が徐々に沈下していくのが見えた。
形状変化された雷の刃は必殺の威力を持つに疑いなきものだったけど、それでもエミドの身体には届いていないみたいだった。彼の魔法はエミドの障壁を少しずつ切り崩していたけど、その裏から障壁が高速再生されていたんだ。
二言三言なにかを言い合っていたみたいだけど、音がうるさくてよく聞き取れなかった。エミドが手の平を掲げたまま穴から出てきて、後方へと優雅に滑る。それに合わせて、アースレイの人がエミドの背に手斧を投げつけたけど、エミドは新たな障壁を展開してそれを防いだ。
その隙に鎌の彼も穴から飛び出してきて、ボクたちのすぐ近くに着地した。
精悍というよりは、繊細な顔立ちの人だった。傷ついた頬からは血が刷毛で撫でたようになっていて、黒い衣の腕や背中の一部分も赤黒く変色していた。
ボロボロの黒衣と鎌を前にして、ボクを抱えたままのシャンが目を見開いた。
「やっぱり、シュイ、だよね」
「シュ……イ……?」
呟いたシャンとボクを肩越しに一瞥して、彼が微かに表情を崩したのがわかった。思わず瞬きを繰り返しちゃった。「え、この男の子がシュイなの?」って。
ショック、っていうのとは少し違うかも知れないんだけど。正直に言って、ボクはシュイが年下だとは思いもつかなかったんだ。
うん、シャンだってそうだよね。だって、あんなにいつも堂々としているし、細かいことで小姑みたいに文句言うこともあるし。って、こんなこと本人には絶対に言っちゃダメだよ。ボク、シュイには絶対嫌われたくないんだから。
あ、あれ、なに二人ともにやにやしてるの? な、なんなのこの空気。うー、は、話を元に戻すね。
エミドはシュイの<怒れる霆の渦流>でも傷一つつけられなかった。二人が生きていてくれたのはとってもうれしかったけど、事態がそれほど好転したわけでもなかったわけ。
それでも、シュイはなんとか状況を打開しようと頭を働かせ続けてた。戦線に復帰してからは、まだ動ける人たちに怪我人を戦場から遠ざけてくれるよう頼んだりもしてね。
そうやって、考えに考えて、全体を見渡すことができていたからこそ。シュイがシャンと念話でやり取りをしていた時、微細な違和感に気づくことができたんだと思う。
ボクは話を聞くまでそのことに気づかなかったんだけど、念話で怪我人を運び出す算段をつけていたほんの一瞬、エミドの視線が落ち着きなく周囲へ向けられていたらしいの。
怪訝に思ったシュイは念話でカマをかけたんだ。<もうすぐランカーのニルファナ・ハーベルさんが来る、だから安心しろ>って。まぁ、説明してもらってなかったから、ボクは見事にぬか喜びしたんだけどね。
そのやり取りがあってから間もなく、エミドは明らかに勝負を急ぐ素振りを見せ始めた。それでシュイも、確信が持てたみたい。エミドが念話の内容を盗み聞き出来る魔法、<盗聴>の使い手だったってことを。流石のエミドも、シュイたちに加えてランカーまできたら厄介だと考えたんだろうね。そこで初めて、ボクたちは反撃のきっかけを掴んだんだ。
結果的には、そのカマかけのせいで逃亡策の方は後手に回った。エミドは最初にいった悪霊の憑依計画を、こちらの予想よりも用意周到に行っていたみたい。通常、結界や召喚方陣を作るのには魔柱っていう魔法具が必要なんだけど、エミドは部下に命じて地上にはダミーの柱しか置かないようにしていた。つまり、本命の柱は地中に埋められていたってわけ。
まさかエレグス中の土を掘り返すわけにもいかないし、現実的に全てを見つけるのは不可能でしょ。退却すればほぼ確実に、その計画が実行されてしまう段階に達していたんだ。
こちらが逃げられない状況を作り出したエミドは、更なる一手を打った。それが<閉ざされし邪将の牢獄>。
これもシュイの受け売りになっちゃうけど、これは強力な呪いを込めた氷柱によって対象を閉じ込める封呪の一種で、古くは敵領土にある町を丸ごと閉じ込めたり、対竜魔法としても使われた究極の結界魔法なんだ。それで、ボクたちは島の半分ごと、紫水晶みたいな色合いの氷の檻に閉じ込められた。
それは外からの援軍も断ち切られたことを意味していたわけで、いよいよボクたちも、覚悟を決めなきゃいけなくなったんだ。