~思惑 each speculation3~
軍議を終え、主だった者が退席していく中で、折り畳みの椅子に座していた男がくしゃみを噛み殺すような仕草を見せた。その隣で、今まさに立ち去ろうとしていた女騎士が、ちらりと男に流し目を送った。咎めるような色は含んでおらず、ただ単に珍しいこともあるものだな、と気にした風に。
「なんだ、なにか俺の顔についているか」
威厳が内包された低い声が天幕の内側に響いた。いつの間にか残されているのは男と女、それに四人の近衛だけだった。兵を休めるべく張られたテントの中には砂漠の外気を入れぬよう入口が二重に付けられている。
厳めしい顔つきの大男に問われた女は、別に、と首を振り、そのまま目を閉じた。だが男は、女の顔に僅かながら険があるのを見逃さなかった。
「遠征の当初から変わらんな、その気乗りしなそうな顔は。あまりしかめ面をしていては折角の美貌が早く崩れるぞ」
セクハラに聞こえなくもない言葉に、しかし女はなんら反応らしい反応を示さず、腕を組んだままの姿勢で言葉を返す。
「しなそうなのではありません、全く以ってしていません。わざわざ指摘されるまでもなく、よぅく自覚しているつもりですが」
そう言って笑ってみせた。体裁だけでも笑った形を取ろうとしたような、感情の一切こもっていない笑みだった。
野営場所が敵の勢力圏からそう離れていないこともあり、夜であっても鎧を身につけている。金属部分は銀色に光る胸当てと腕当てのみ。その下には赤を基調とした女性用の軍服。身体をぎゅっと引き絞るかのように黒い腰紐がきつめに巻かれている。そのせいで、身体のなめらかなラインが服の下からでも際立っている。スレンダーと評して差し支えない体躯。だが、年頃の娘が持つ色香は隠しきれるものではない。微かな香水の匂いとせっけんの残り香が男の鼻をくすぐった。
なによりその顔立ちは、冷たさを帯びながらもなお愛くるしい。高級なベルベットを思わせるしなやかなブロンドの髪は、背中の真ん中にまで届いている。カールした睫毛と気の強さを前面に押し出す切れ長の目。
腰に下げられた二本の装飾剣の刺々しさを柔らかくしているのは薄化粧が施されて仄かに赤く染まった頬。全てが危ういバランスで保たれていた。これ以上手を加えても省いても、女の完成された美しさを損なうような気がした。
男は音を立てぬよう留意しつつ唾を飲み干した。色欲に対してはそれなりに自制していると自負していたが、おのれの娘よりも年下の女騎士に、束の間、欲情に近い感情を抱いていた。次には、男は邪な感情を抱いた己を遠ざけるように咳払いをする。
一方で、女はそのわざとらしい咳にも気遣いを見せた。
「異国の地であれば殊更、体調管理には気を遣わねばなりませんね、リーヴルモア卿」
承知している、とビシャ・リーヴルモアは肩をすくめた。仮にも上将軍の一人である彼を、形だけとはいえ窘めることができる者などセーニアにはほとんどいない。女騎士の階級は中隊長であり、もちろん二十に届かぬ年齢でその階級は驚異的なことだが、ビシャよりも数段低いことは疑いない。
だが、様々な事情、思惑が、彼女を普通の騎士として扱うことを拒んでいた。智勇に優れた才媛であることは疑いない。だがそれ以上に、彼女の立ち位置が魅力的だ。セーニアにいる誰もが一目おかねばならぬ肩書きの数々を、この女は背負っている。
リーヴルモアは傍らにいる女騎士に敬意と好意、そして仄かな悪意を寄せていた。たとえ、年齢が三十近く離れていても。
セーニアの現教皇、アダマンティス・セーニアに子がいない以上、皇家に連なる血筋のものは教皇の二人の実妹による血筋のみ。その姉の方、カティス・セーニアの娘を娶った男がいた。
「立派になられた貴女を見て、お父上もさぞ喜んでおられることだろうな」
ビシャなりに言葉を選んだ、一応は含むところのない賞賛のつもりだった。女騎士は薄らと目を開いた。
「気休めなど不要です、国益のために他者を害する剣を振るい続けてきた以上は、死の香りに囚われる騎士が出るのも致し方なきこと。あの日、たまたま父にその番が廻ってきた、ただそれだけですよ」
肉親の死に対するその達観した物言いに、ビシャは鼻白むのを隠せなかった。だが同時に、善人の仮面を被らぬことに感心もしていた。
「害するとはいささか言い過ぎではないか。俺の目から見ても彼は優れた人格者だった。アデライード、貴女は敬愛する父を殺した者を恨んでいないのか」
「恨みがない、と言ったら嘘になりますね。なにしろ、彼は私の人生をことごとく狂わせてくれたのですから」
――彼、か。
この質問をして初めて、ビシャは彼女の感情らしきものが垣間見えたように感じた。淡々と返す中にも、辛辣さが、それ以上のなにかがあるのは否めなかった。言葉の形を成さぬ感情が、強く握られた拳にまざまざと表れていた。白いグローブに皺が寄り、甲を覆っている生地がぴんと張り詰めている。
ビシャの視線に気づいたのか、アデライードは握り拳をそのまま掲げ、ゆっくりと手を開き、視線を傾けた。
「できればこの手で仇を討ちたかったのですが、あの日から五年近くも経っているのになんの音沙汰もなし。騎士団が誇る諜報部隊の情報網を以ってしても足取りすら掴めぬならば、もはや手の届くようなところにはいないでしょう。あるいは、秘密裏に処理された可能性も否定しませんけれどね」
国に疑心を抱いていることを勘繰らせるような危うい言動に、ビシャの視線が一時鋭さを増した。アデライードはその視線を真っ向から受け止め、なにか、と首を傾げた。魔物ですらすくませるビシャの眼光を楽しんでいる節すら見受けられた。
アデライードの証言を信じるならば、彼女の実父であるコンラッドを殺害したのは、幼い一人の少年だということだった。が、しかし騎士たちの立場から考えると、その証言をそう簡単に鵜呑みにできないのもまた事実だった。
その瞬間を目撃した彼女は、まだ十四という若さだった。加えて、実父が目の前で殺害された恐怖と混乱。照明の大半が消され、現場を視認するにも難儀だった状況。なにより、セーニア屈指の強さを持つコンラッドが、少年一人に殺されたという信じがたい内容。それらのパーツは、信憑性に対して段階的に霞みをかけていった。
アデライードはセーニア皇家の血を受け継いでいるため、ある意味では教皇に次ぐ立場にある。その言に面と向かって異議を唱えるものはいない。実際に彼女の証言を元にして、手配書に乗せる似顔絵が作られ、近隣諸国にばらまかれた。完成された絵の中にいる少年の、あまりにも毒気のない顔を見るに至り、これはよろしくないだろうと少しばかり手が加えられたが。
優しげな少年に狂気を抱かせるようななにかがあったのでは。そうと勘繰られないための工夫、ビシャに言わせれば姑息で無駄で、馬鹿馬鹿しい知恵だった。優しげな仮面を被った鬼畜など敵味方問わず、戦場で何人も見てきたからだ。
つい最近まで、ビシャはアデライードの証言を心から信じていたわけではなかった。かつての上官であるコンラッドの強さを、彼はよくわかっていた。勇猛名高きセーニアの騎士団において、剣の申し子と呼ばれた自分と互角以上に切り結べた者は、片手で数えられるほどしかいなかった。その中において、コンラッドの実力は、彼が殺害された時点では間違いなく、セーニア一、二を争うものだっただろう。一人で百の兵を同時に相手にできるような彼が、たかが少年一人に殺されるなど有り得ない。そう考えていたところで、責められる者はいないはずだ。
しかし、今では考えを改めている。改めさせられたと訂正するべきだろうか。果物ナイフ以外の刃物を握ったこともないような少女が、騎士団に入隊し、みるみるうちに頭角を現し始めたといった前例は殆どなかった。ましてや、それが皇族の者なら尚更だ。
どちらかといえば年功序列の風潮が拭いきれていない騎士団において、皇家と非業の死を遂げたナイト・マスター双方の血を受け継ぐ娘が異例の速さで昇進していく。いかにも大衆好みしそうなエピソードだが、それが脚色されていないものだということは、彼女の剣を目にしたものであれば誰しもが知っている。
男騎士に対して腕力に劣るのは否めない。だが、それを補って余りある洗練された剣捌きと瞬発力、動体視力。魔力を扱うセンス。それが血の滲むような修練によって得られたものであるのは疑いない。常につけている白い手袋の下には、年頃の娘のそれとは思えぬ、マメだらけの固い手の平がある。彼女の剣に打ち込むその姿勢が、積み重なってゆく勲功の数々が、彼女の騎士として生きていこうという決意が並々ならぬものであることを意味していた。中隊長に昇格することに際して、審査委から一つも異議が出なかったのは当然だろう。そして、そんな気高い彼女が、実父を殺されたことで偽りを口にするとは到底考えられなかった。
しかしながら、公にはナイト・マスター、コンラッド・ディアーダを殺害した者は暗殺者イヴァン・カストラだということになっている。では、何故そうする必要があったのか。
体裁。確かにそれもあるだろう。最高位騎士の名を体現していたコンラッドが、厳重な警備をしているはずの王城で少年一人に殺されるなど、たとえ油断し切っていたとて、否、寝息を立てていたとて許されることではない。
彼が敗れるということは、彼の下につく騎士たちは彼以下に見られるということだ。つまりは、精鋭たるセーニア騎士団の中で、ナイト・マスターを破ったその少年に一対一で敵う者は誰ひとりとしていない。そんな結論が導かれてしまう。プライドの高い騎士たちがそんな風聞に甘んじていられるはずがなかった。
折りしも、イヴァンが大臣、次官クラスの者たちを狙い始め、実際に何人かを殺害してみせたことで、衆目をそちらに向けさせるのは造作もなかった。その傍ら、セーニアの軍部は少年の影を執拗に追い続けた。発見の報がある度に百人単位で騎士たちが派遣され、捜索に充てられた。だが、やはり一般人からの情報提供には誤報も多く、徒労に終わることの方がずっと多かった。
そして、ある日を境にぷっつりと少年の消息は途絶えた。そのことで、末端の騎士たちは内心でほっとしていただろう。姿なき者を追い続けることほど面倒なことはない。それ以上に、少年が本当にナイト・マスターを殺した犯人ならば、見つけ出したところでおのれが敵うと思う騎士など、百にも満たぬはずだからだ。
アデライードは掲げていた手を、視線を全く動かさずに剣に添えた。その自然さからも、彼女が常日頃から剣に触れる生活をしていることが窺えた。
「いない者を恨み続けてなにかが変わるのか、そうと訊ねられたならば答は否でしょう。仮に父母が生きていたとして、私がいつまでも同じところで足踏みしているのを許してくれるような温い人たちではありませんから」
その告白を聞いたリーヴルモアは、血は争えないな、と独りごちる。ナイト・マスターの性格を色濃く受け継いでいる、そうと思い知らされていた。己を律し、それでいて部下に対する配慮を忘れぬ、実に素晴らしい騎士だった。
――反吐が出るくらいに潔癖だったが、な。
ビシャ・リーヴルモアは知っている。コンラッドを始めとする上級騎士たちが名声を高めた影では、汚れ仕事に手を染めた部下たちが何人もいるという現実を。もちろんそんなことは、コンラッドには知らされていない。知らせる必要もない。二十余年騎士団に所属していたのだから、彼も薄々とその存在に気づいていただろう。そして、もしそれを正そうとしていたら、彼もその家族ごと破滅していたはずだ。
彼は、セーニアという国を照らす眩い光であればそれだけで良かった。影を隠すための。その影は必死に彼を眩しい光たらんとした。対極の、お互いに切っても切れぬ間柄だった。お互いの存在を忌み嫌っていたとしても。
気高さと強さだけでは靡かぬモノもたくさんある。道理で屈服させられない者は、排除するしかないこともある。国のために、特権階級の者たちの利益のために。
そして、アデライードは選ばれし者たちに名を連ねるための重要な鍵だ。皇族にしてナイト・マスターの遺児。彼女と契を結んだ者は皇家の外戚、すなわち皇族となる。
今の教皇アダマンティスには子がいない。畏れ多い考えだということは承知しているが、仮に彼になにかが起きたとしたら。セーニアという広大な国の支配者に、自分が、自分の子らがなることも夢ではない。
ビシャはアデライードに悟られぬよう、俯き気味に、しかし彼女の身体を目で舐めまわした。美しい顔を、くびれた腰を。黒タイツに覆われたしなやかな太腿を。今この場にいるのは自分とアデライード、そして二人の近衛が二名ずつ。今行動に起こせば、おそらくは――
唇が渇き始め、今度は自分の下唇を舐めた。焦ることはない、そうおのれに言い聞かせるように。
――気高い女を無理矢理に屈服させるのも悪くない。が、それは仕事が片づいてからだ。
今はすまし顔をしているがいい。いずれ必ず、ものにしてやる。心の奥底から滲み出たそんな悪意を吹き消し、ビシャはアデライードに見せつけるように猛々しい笑みを浮かべた。