~勃発 outbreak of the war5~
真鍮の丸いドアノブが一人でに回り、音を立てずにゆっくりと動き出した。ややあって、握り拳を一つ差し入れられるくらいの隙間ができた。そこから三角耳がひょこり、その下にひょこりと二対。
アマリスとティートは穴倉から外の世界の様子を窺う小動物よろしく、室内で書き物をしているシュイに視線を送る。
「どうしたんだろう、しぶちょー。なんだか難しい顔してる……気がする」
「確かに、いつもとは明らかに違う……ようですね。帰ってきてからどうも様子が」
「アミナさんもあんな感じなんだよね。普段はしぶちょーの事とかしょっちゅう話題に上るのに、喧嘩でもしたのかな」
「あの二人の息が合わないと、こちらも調子が狂ってしまいますね」
普段のシュイならばとうに気づかれていてもおかしくなかったが、待てども待てどもその視線が二人の方に向けられることはなかった。ひたすらにノートに筆を走らせ、指で机をトントンと叩き、物憂げに腕を組む。その三行程を繰り返しているだけだった。
「ねね、何か言って慰めてあげた方がいいんじゃないかなー。というか、構って欲しいな」
「原因がわからないのになにをどう慰めるのですか。というか、あなたそっちが本命でしょう」
うずうずと、顔を落ち着きなく左右に揺らしているアマリスを、ティートが呆れ顔で見上げた。
「そんなことないよー。しぶちょーがいない間に僕がどんだけ頑張ったかを聞かせたい、あわよくば褒められたいだけだよー」
「それを構って欲しいと言わずしてなんと言うのですか。大体私の方が頑張っていましたから褒められるならこちらが先です」
ポリー支部に戻ってから四日目。トートゥ支部での一件以降、シュイはアミナとの接し方に悩んでいた。支部内で何度か鉢合わせることはあるが無言で会釈を交わすだけという有様だった。それでも仕事の話ならば、と思っていたのだが、皮肉なことにアミナの助言がしっかり身になっているおかげで大抵の仕事は問題なくこなせていた。もちろん、わからない振りをして話しかけることはできるだろうが、見え透いた嘘を使ってまで顔を合わそうという気にもなれなかった。
また元のように話せれば。そうと願っているはずなのに、改善しようと積極的に動いているわけでもなかった。
これ以上セーニアに関わるな。はっきりそう言われたわけではなかったが、アミナの言葉にそういった意味が含まれていたのは確かだ。シュイは、事情を知らぬエヴラールがいるあの場でアミナが自分とセーニアとの関係を仄めかすとは想像だにしていなかった。
暗に賢く生きろと言われた気がした。強者に立ち向かう労力は生半可な物ではない。押し流されて、それで終わりになることだってある。セーニアに関わったところで何らお前の益になることはないのだ、と。
そのようにして、善意の言葉を別のことと結びつけてしまうのは何故か。図星だからだ。賢くない生き方だとどこかで自覚していたからこそ反発してしまった。そうでなければ流せたはずだったが、反射的に口が動いていた。
あなたにそのようなことを言われる筋合いはない。初めてにして最悪の口応えだった。言った傍から後悔が押し寄せてきた。
何かを言い返してくるだろうと思っていた。半ば彼女の叱咤を期待していたくらいだ。それなのに、アミナはただ俯き気味に唇を震わせ、それきり口を噤んでしまった。顔が強張っていて、耳が寝てしまっていた。今にも泣き出しそうな、派手に転んで膝を擦りむいた幼児のような表情。あの時、咄嗟にでも良い。一言『ごめん』と謝っていれば。そう思うと溜息しか出なかった。
セーニア教国のジヴー出兵を知ってからというもの、その他のことが身に入らなくなっているという自覚はあった。記憶を満遍なく覆っていたはずのメッキはいとも簡単に剥がれ落ち、再び物思いに囚われることが多くなっていた。そばにいたアミナがそれに気づいたとしてもなんら不思議はない。こちらの身を案じていたからこそ釘を刺したのだろう。
シュイは、それが男女間のものかはわからないが、アミナが少なからず好意を寄せてくれていると感じていた。そうでなければ、忙しい彼女が遠くからわざわざ足を運び、アドバイザーなどという面倒な役目を引き受けてくれるとも思えなかった。未だそんなこともわからぬほど鈍感ではないし幼くもない。
トートゥ支部でアミナが躊躇いがちに言った言葉。それはひとえに彼女の心根の強さであり、優しさだ。うわべだけのものとはわけが違う。その想いをあっさりと裏切ってしまったことに対しては罪悪感が募るばかりだった。
――今度会ったら謝らなきゃ。許してくれるかはわからないけど。
少なくとも、軽率な言葉を返したことについては謝らねばならなかった。彼女の提案に従う気が全くなかったとしても。
仮にアミナの言うとおりにしたとして、怨念にも似たこの想いをこの先ずっと引きずっていくことになる。セーニアが何かをするたびに忌まわしい記憶が掘り返される。それに耐えられる自信はなかった。
エスニールの件を抜きにしても、シュイには窮地に立たされたジヴーを見過ごせない理由があった。故郷を守りたいというピエールの決意が、行動が、痛いくらいわかっていたからだ。エスニールが襲撃に晒された時、滅祈歌に頼らずとも今くらいの力があったならば。その思いは力をつけていくほどに強くなっていった。準ランカーにまでなったピエールがそう感じていても不思議ではないだろう。
ピエールとは傭兵になって以来の付き合いだ。共に生死を潜り抜けた仲間が死地に向かったのを見過ごす気にはなれなかった。むざむざ殺させるくらいなら、お腹を空かせた竜の赤ちゃんにでも食べさしてやった方がまだましだ。鍛えているから肉質は少し堅めかも知れないが。
などと一瞬考えてしまうくらいの恨みつらみはあるけれども、ミルカが悲しむだろうし生まれてくる子も不憫だからやはり助けてやらないと駄目だろう。いや、本当にあんなやつどうなっても構わないのだけど。
結局のところは感情論なのだが、損得勘定だけで動けるならば苦労はしない。せめてジヴーには救われて欲しい。それがシュイの偽りなき本心だった。
一方で、その想いがどこからきたのかはわからなかった。ジヴーを助けるついでにセーニアに復讐を成せれるならそれに越したことはないと考えているのか。セーニアに復讐する口実を、ジヴーを助けるという行為に見出したのか。もしくは、かつて救うことができなかった故郷をジヴーに重ねていたのか。
――と、いけないいけない。
骨が鳴るほどに握り締めていた拳を解き、シュイは腕を組み、空を仰ぐ。状況と目標を整理する必要があった。本部がセーニアに敵対すると決断したのであれば何も迷う必要はない。出された指示に従ってセーニアの目論見を打ち砕くのに奔走するだけだ。
だが、もしそうならなかった場合には、今後の身の振り方を考えねばならないだろう。
ミスティミストを敵に回す。そのことについては、シュイもそれほど心配していなかった。シルフィールが敵を増やしたくないように、ミスティミストも敵を増やしたくないはずだ。ただでさえフラムハートという厄介な宿敵がいるのに、別の敵にかまけている暇などないのでは、という考え方は間違っていないだろう。
シルフィールの傭兵達が一枚岩ではないようにミスティミストも一枚岩ではない。なにしろ仲間殺しすら噂されるギルドだ。少数で組むことがあっても大きな徒党を組むことはないと考えられる。そんな連中が同じギルドの者がやられたからといって一丸となって仕返しをするようなことになるとは思えない。笑い飛ばすか、やられた仲間を恥さらしだと粛清するくらいの勢いがあってしかるべきだ。
残された問題は、シルフィールの傭兵達の助力を得ずにジヴーを勝たすことができるか。勝てないまでも撤退させることができるか。
セーニアに抗戦を表明している国は七カ国。規模から考えて動員可能な兵力は多くて二万弱。対するセーニアはジヴーの四カ国と合わせて四万八千。そのうち本軍は一万に届くとの見方が強い。
地の利に関しても、連合を組んでいた四カ国がセーニアに服従した以上なくなったと考えてよかった。おそらくは前衛がジヴーの兵。それに追従する形でセーニア本軍。犠牲を極力少なくするためにもそうする可能性が極めて高い。
正面からまともに相手をするのは問題外。同士討ちをしたところでセーニア軍は痛くも痒くもない。横っ腹か、または後方から敵本陣を叩く。そうなると奇襲を用いる以外にないだろうが、果たして見通しのよさそうな砂漠地帯でそのようなことが可能かどうか。
唯一の救いと言えば、戦地の大半がその砂漠になるから軽装兵が主になるだろうということだ。寒暖差の激しい気候で金属鎧を着ていれば全身に火傷、凍傷を負うのは目に見えている。装備の差はさほど影響しないはずだった。それにしたって圧倒的大差が僅かに縮まる程度のものだろうが。
果たしてセーニアに付け入る隙があるのか。シュイはひたすらに知恵を絞っていた。気がつけばまっさらだったノートはほぼ埋まっていた。
大軍を烏合の衆にする方法。または総大将を始めとする本陣の無力化。高位の魔法による遠距離攻撃が成功するならば道はある。だが、敵方にも相当な腕の結界術師がいることは間違いない。デニスに匹敵するとまでは言わずとも、それに近い魔法使いが数人いれば複合結界で防がれてしまう。
仮に奇襲が成功して懐深くに飛び込めたとて時間はかけられない。もたもたすれば敵の増援が四方からひっきりなしに襲ってくることになる。
――まいったな、考えれば考えるほどに絶望的だ。
自嘲に近い笑いが込み上げてきた。勇んで参戦したところで自分にどれほどのことがやれるのか。
一矢報いただけで満足できるような殊勝な心は持ち合わせていない。万に一つでは博打にもならない。やるからにはせめて十に一つの勝ち目を作る。
不意に、ノートに書かれていた文字の色が薄まった。シュイは考えるのを止め、ゆっくりと立ち上がり、灰色の天井を見上げた。アマリスとティートも釣られてシュイの頭上に視線を送った。平べったい円状の照明石が暖色の光を放っていた。
そうと思った時には変化が生じていた。鳥を象った黄色い霊体が照明のカバーをすり抜けてきたのだ。照明石の光はいつの間にか消えていた。
本部からの指令。シュイは緊張した面持ちで、黙然とそれが降りてくるのを待った。眩い霊体はシュイの目の高さまで降りてくると球状に変化し、相当量の文字を一気に綴り始めた。