~勃発 outbreak of the war~
色濃い青空の下には見渡す限り、なだらかな砂丘が連なっていた。永より世界を巡り続ける風は、度々砂礫を巻き上げては空気の色を変えていく。
指先で粒の大きさを感じ取れぬほどに細かい石英。それに覆われた地表には波打つ美しい模様、風紋が残っている。その淡い陰影は地平の果てまでも続いていた。
東西南北、どの方角を見ても同じ景色。違う点と言えばダルマサボテンの生えている数と、蜃気楼のオアシスが揺らめいているか否か。
そんな、土埃の匂いが鼻を突く広大な砂の大海のただなかにおいて、やかんの蒸気が吹き出るような駆動音が、彼方からゆっくりと近づいてきた。
百人くらいは乗れそうな船が、砂の海を滑るように移動していた。尖った船首が砂を掻き分けているため、船尾の方は舞い上がった大量の土煙に隠れてろくに見えない。
船体の色合いは白。一般的に白は光を反射させやすい色だと認識されているため、ジヴーにある船は全てと言って良いほどこの色が使われている。可視光は熱の伝達度にそのまま置き換えられるため、それを反射させれば熱も溜まりにくい。横腹に青字の斜体で大きく描かれている<エメロア>の文字はジヴー古来の言葉で<砂の鯨>を表している。
船の上、コーティングされたチーク材の甲板はにわかに騒がしくなっていた。足音が近づいては遠ざかり、また近づき、時に混じり合っている。
「おい、いたぞ! こっちだこっち!」
男の呼び声にすぐさま反応し、船乗りのような格好をした色黒の男達が振り返った。と思った時には、声が聞こえた方へと駆け出していた。マストの柱近くで大きく手を振っている仲間を発見し、十数段ある階段を二段飛ばしで駆け上がる。
仰向けに倒れていたのはスラッとした身体付きの男だった。青、橙、黄。色鮮やかな大小の三角形をごてごてっと付けたボタン付きの半袖シャツにゆったりとした白いズボン。後ろで束ねられた髪は乾燥してちぢれ、眼はすっかり窪んでしまっている。倒れた拍子で外れたと思われる眼鏡が顔の横にあった。
皮と骨だけになりかけている手で、敵意がないことを表すような中途半端な万歳をした男に、人の頭と思しき影が重なった。更には両手らしきものが加わり、影が目の形になった。
「ちょおい、やばいってこれ! もう死んでんじゃねえか!」
死相を飛び越えて成仏相すら漂う男の顔を、干からびた人参のような手足を目の当たりにし、若い男が頭を抱えた。
「何もたもたしてんだ! 喋っとる暇あんだったらとっとと日陰に引き込まんかい!」
唯一人、ワイシャツを着た恰幅の良い船長が縁起でもない台詞を吐いた男を怒鳴り付けた。遅れて、倒れている男の身体に幾つもの影が重なり、せーの、と掛け声がかかると同時に干からびた身体が宙に浮いた。
「うわ、かっりぃ」
誰かしらから、そんな言葉が口を突いて出た。体中の水分が失われている証拠だった。
頭と足の両側から男を担いで走り始めた二人の隣で船長が指示を飛ばす。
「手の空いている奴ぁ水……、じゃなかった。コスリン呼んで来い!」
「へいオヤビン!」
「だせえ! キャプテンだと何度言わせる気だ!」
「サー・イエッサー!」
並走していた男が引き返していくのを肩越しに見つつ、船乗りたちは慌しく甲板の真ん中にある階段を下りて行った。
操舵室の脇に寄り添う日陰に運び込み、魔法の心得のある船員が<アクア・ボルト>を掛けてから数分後。先ほどまでからからに干上がっていた男の身体は見事なまでの瑞々しさを取り戻していた。
「いや、命拾いしたわぁ。ほんまおおきに」
頭を掻きながら華やぐ笑みを浮かべる男に、船乗りたちは応じる元気もないようだった。精根尽き果てたようにぐったりと壁に寄り掛かっている。乾燥ワカメかよ、と誰かが力無く呟いた。
「全く洒落になっとらんぜ、先生よぉ。見当たらんと思ったらいつの間にか甲板に出てるんだもんな。渡し船業をして三十年、初めて死者出しちまったかと」
船長が火の付いた葉巻を咥えながらそう言うと、男はきまり悪そうに頭を掻いた。
「いやあ、申し訳おまへん。何分ええ感じの陽気だったもんでうとうとしてしまいましてな。ついつい油断してうたた寝を」
いい陽気、と三角座りをしていた船員たちが空を見上げ、露骨に顔をしかめた。
見るだけでもうんざりするような白い太陽。照り付ける日差しの強さは肌の奥まで灼くほどに暑い。むしろ熱いという言葉が相応しい。船に備え付けられている外気温計に目をやると、目盛りは49の数字を示している。
「せんせ、それうとうとじゃなくてくらくらの間違いっす。もろ熱射病の初期症状っす」
「この炎天下に日避け対策もせずに三時間余り。よくもまぁ、生きていたのが不思議なくらいだ。とりあえず船室に入って休んだ方がいい」
船員の男達が溜息混じりにそう言った。
「そうやね、郷に入っては郷に従えっちゅう言葉もあるし」
「極度の暑さ寒さを避けるのは世間の一般常識だと思ったが」
口を窄めてそう言う船長に、男は悪びれた様子もなく頷いた。
「ところで皆はん、やたらと汗だくでんな。わいの持ってきた名山名水、どないでっか」
誰のせいだと思っているんだ、と何人かが呆れた顔をした。とはいっても喉が渇いていることに違いはない。
「おぅ、じゃあお言葉に甘えるか」
「まいどおおきに! 700パーズ」
手の平を上に向けた男に船長と船乗り達がキョトンとし、次いで互いに顔を見合せながら自分を指差した。
「大サービスでお一人様100パーズにまけときまっせ」
『金取るんかい!』
数秒間の沈黙の後にがなり立てた船乗り達に、生還を果たしたユウヒ・タカナシは苦笑しながら、洒落やがな、と手をひらひらさせるのだった。
広大な砂漠をひた走る船。サンドシップと呼ばれるそれは風魔石の元となる鉱石を動力源にし、地面から僅かに浮いて走っている。魔力を含んだ鉱石が取れるジヴーならではのものだ。
「しっかし今回はツキが無かったなぁ。砂嵐で一週間も足止めくっちまうとは。タカナシさんも待たせちまって済まなかったな」
「気にせんでもええ。お天道様の機嫌ばかりはしゃあないからな。他の船も出航を見合わせとるようやったし、乗っけてもらえるだけで感謝しとる」
ユウヒは水の入ったグラスを傾けた。中に入っている氷と氷がカツンと音を鳴らした。
「でも、こんな物騒な時分に何の用があってこんな所まで足を運んだんだい」
もう一人の乗組員と思しき筋骨逞しい若い男が言った。
「こんな所って、あんさんが言いよるほどここが悪い場所とは思われへんけど」
ユウヒは氷をがりがりと噛み砕きつつ嵌め殺しの丸い窓から外を見た。が、視界に映ったのは推進する船に巻き上げられた砂煙だけだった。
「そう言ってくれるとこちらも悪い気はしないが、国同士で小競り合いまで始まっちまうとはなぁ。以前から砂賊とかもいたからそれほど治安が良かったとは言えんけど。これから先、どうなるか不安が尽きん。これ以上住みにくくなったら敵わねえよ」
セーニアが攻めてくるという噂が立ってからというもの、それなりに平穏だったジヴー地域の諸国は、セーニアに臣従すべきだと言う国々と、断固抵抗するべきだと言う国々で対立していた。大国が動くとなれば、それによって生じる情報の波だけで転覆する国もある。
セーニアに近い側の国としては、真っ先に矢面に立たされることもあって弱腰になるのも無理からぬことだった。いまや小国群は北東と南西で斜めに切ったように分裂していた。どちらが保守派でどちらが過激派という類のものではなかったが、両者の対立は短日の内に深刻化し、つい先日には内乱が勃発した。
「はよ収まればいいんやけどな。一部の者のくだらん思惑で人が死ぬちゅうほどあほらしいもんはない。わいもぼちぼち、のんびりとはしていられなくなったわ」
僅かな間見せたユウヒの凄味のある表情に、きらりと光った眼鏡に、船員たちが声を失った。
「なんちって。どや、わい格好良かったか」
かと思えば得意気に胸を張ったユウヒに、深々と溜息を吐き出した。
「まぁ、タカナシさん。どうみても強そうじゃないもんなぁ」
「それ、よぅ言われるんやわぁ。あまりに言われるもんでわいの硝子の心臓はヒビだらけやがな。けんど、まさかこないな異国の地に来てまでなぁ」
さめざめと泣き崩れるユウヒに、船長が気まずげな顔で髭を摘む。
「ま、まぁ客人にあんまり失礼な事言うもんじゃねぇな」
「ス、スンマセン」
若い男はぺこりと頭を下げた。
「ははは、ええよ。ホンマのことやろからね」
落ち込んでいたかと思えばケロリと立ち直っている。表情豊かなユウヒに船員たちも苦笑いを隠せぬ様子だった。
「一応、武器らしき物は持っているんだな。けったいな形をしているが」
船員の一人がそう言ってユウヒの腰に提げている二本の得物を上から覗き見た。鞘が真っ直ぐでないから剣ではないようだが、円月刀にしては緩やかな弧を描いている。一本は長物のようだが、もう一本はやや短めで、その両方に文字の描かれた包帯がぐるぐる巻きにされていた。
「ああ、これか。わいの母国、ケセルティガーノで古来から作られとる刀っちゅうもんや。ろくすっぽ抜いた事もないんやけど、ガンつけて抜く振りするだけでも威嚇にはなる。安全に旅するための、お守りっちゅうやつや」
「なるほどな。俺たちも客人を見習って武器の一つや二つ用意しておいた方が良さそうだな。いつ襲われるかわからねえし」
沈黙が降りた。それぞれに思うことがあるのか、考え込んでいる様子だった。少し前までは考えもしなかった現実。今やその足音がはっきりと聞こえている。
「いつになったらこの近辺、静かになるんですかねぇ」
若い男が少しだけ声のトーンを下げた。周りの者達も俯き気味に唇を噛んだ。
「セーニアに付くか否かを判断したのは上の者だろうが、そいつらにしたってつい先日までそれなりの付き合いしていた連中だ。それがまさか、剣を突き付けられて追い返されるとはなぁ」
やるせないといった表情で、船長が煙と溜息を同時に吐き出した。
「新しい商売相手を見つけなければ駄目っすね。先行き暗いっす」
「船を降りたやつも何人かいるしな。みんな気さくなやつらだったんだが、家族が向こうの国に住んでいるとあっちゃ致し方ない」
「向こうの国、か。そんな言い方を意識せずにしちまう時点で、異常な事態っすね」
「仲違いして一番喜ぶのはこれから攻めてくるセーニアだ。今は手を組んで団結しなきゃいけない時期だと思うけどな」
「キャプテン、セーニアに勝つことなんて出来るんでしょうか?」
身を乗り出してきた年輩の男に、船長が「そこだよなぁ」と組んだ足に頬杖を突いた。
「こっちに分があるはずの地の利も、セーニアに擦り寄った国が前に立てば何ら意味を成さねえ。数も軍備も圧倒的に不利。相当にきつそう――」
「――あの、オヤ……キャプテン。タカナシさん、寝てます」
年若い男がおずおずと手を挙げた。
締まりのない顔で、口の端からだらしなく涎を垂らしつつ寝息を立てているユウヒに、船長は何とも言えぬ顔をしてみせた。
翌朝、ユウヒを乗せた砂船はクリーム色の日干しレンガで作られた要塞の門を通過していた。ほどなく速度が緩められ、轟音を立てながら船底がゆっくりと砂に沈んでいく。船体が半分ほど沈んだところで、傍の建物の屋上から木と金具だけで出来た簡素な橋が架けられた。
オアシスの町ビスレノームに到着したユウヒは乗せてくれた船員達に礼を述べた後、白い長袖のマントを羽織り、迷彩色のリュックを背負った。外気の温度を考えれば半袖どころか裸になりたいところだったが、砂漠の日差しの強さは海のそれとは一線を画す。直接浴びれば皮膚を容易に突き抜け、体中の水分を蒸発させてしまう。またもやミイラになるわけにはいかない。
強い風が吹く度に、地にある細かな砂埃が煙となって町を覆い尽くす。町の外壁の少し上には木々が見受けられる。雨が碌々降らぬこの土地では川沿いか、もしくは湖の傍にしか町が作れない。生活水の確保なくして人が住まうことなど不可能だ。
乳白色の四角い建物が緊密に並んでいた。石造りの建物にしては高さもそれなりにあった。大理石で作られた建物は日干しレンガの建物よりも高価だが、木造建築ほどではない。木々が碌々育たぬせいで建築資材となる木材が手に入らないからだ。
ユウヒは時折吹く砂塵から顔を庇いつつ街を歩く。大通りにはラクダを何頭か連ねた商隊と思しき者達が行き来していた。この気候ともなると馬や牛ではすぐへたばってしまうため、代わりにラクダが荷運び手となる。こぶのある背に乗っている荷はテントと綿花。勿論食料や水樽もぶら下げている。
こぶには水が溜められていると思っている者が多いが、実の所は脂肪の塊だ。脂肪に含まれている成分を水に変えるため、数日くらいは外からの水分を必要としない。身体の栄養分や水分が失われるにつれてこぶは段々と小さくなっていく。また、鼻息の荒い馬と違って呼気が浅く、回数も少ない。体温が上昇するのを抑えるのに特化した結果だ。
半刻ほども進んでいくうちと民家の姿が疎らになり、正面には赤土色の岩壁が姿を現した。山頂の方には建物の屋根らしき白い物がちらりと覗いている。
中央の辺りに長い階段が延々と、じぐざぐに続いているのを見て、ユウヒは「これを上るのかいな」とぼやきつつ頬を掻いた。既に額は汗に濡れ、マントの中に籠もった熱も相当なものだった。
岩山の中腹辺りの踊り場で、ユウヒは来た道を振り返った。眼下にあるのは強い陽光に白く煌めく町の全景。それをすっぽりと囲う正方形に近い要塞の西側には木々が群生し、寄り添うように大きな大河があった。顔を上げれば彼方に地平線が望める。
「やはりこの景色はわるぅない。ジヴーの者らの心根が大らかなのもわかるわぁ」
浅く息を継いでいたユウヒは名残惜しそうに景色から目を放し、再び階段と向き合った。
ようやく階段が途切れ、汗塗れの顔を上げると寺院と思しき巨大な建物が視界を席巻した。かなり古い時代のものなのか、塗料は殆ど剥がれ落ちている。柱の所々に亀裂が入り、何本かは崩れたまま放置されている。古代文字がびっしりと羅列された真四角の石床も所々ずれて隙間が目立っていた。
しばしの間、ユウヒは顎に手を当て、物珍しそうにそれらを眺めていたが、何かに気付いたのか目を細めた。リュックを背中で突き上げる様にして背負い直し、ゆっくりと足を踏み出した。
建物の入口の暗がりから日差しへと誰かが進んできた。ユウヒも立ち止まらずに歩を進めた。ややあって、ユウヒは背負っていた荷物を床に降ろし、近づいてきた男を見上げた。男も足を止め、ユウヒを見降ろした。
珈琲色のショートスタイルの髪。憂いと静けさを内包する漆黒の瞳。左目の外側にある刀傷。以前の面影をしかと見届け、ユウヒは表情を崩した。さも愉快そうに。
「遠方までのご足労痛み入る。――待ち侘びたぞ、友よ」
「虫の知らせっちゅうのもそうそう馬鹿にしたもんやない。元気そうやないか、イヴァン」