~試練 a trial ground6~
試験場の建物から仮宿に向かっていた途中、道端に藁葺き屋根の無人露店があった。筵の上には様々な野菜や果実が所狭しと並べられていた。
シュイはちらりと商品を一瞥し、他の地方では滅多にお目にかかれない果物、マルダがあることに気付いた。白くて堅い皮に覆われているが、中身は粒上の甘い果肉がびっしりと詰まった柑橘類だ。
手書きの値札を確認した後、財布から茶褐色の千パーズ硬貨を取り出して厚紙で出来た箱に投じる。次いで、重ねて置いてあった紙袋を一枚手に取り、手の平からはみ出しそうな大きめのマルダを二つ、袋に入れた。
島の西側には十を超える民宿がひしめいている。沿岸部に魔物が寄ってくることは滅多にないので自然とその近辺に人工物が集中するのだ。
シュイはふと、島の中央にある雄大な山に視線を移した。麓の辺りまで続く森の上方、青みがかった大山の天辺は分厚い雲に覆われていた。
地元の者の話によれば、山頂付近を覆っている雲は天候に関係なく、四六時中存在するらしい。風が強くとも山から剥がれぬ雲とあれば、自然由来の物ではないだろう。何者かが山頂に何かを隠しているのだろうか、と考えると興味も湧いてくる。その好奇心を妨げてきたのが、山に近づけば近づくほどに力を増す魔物たちというわけだ。
道沿いに立ち並んでいる瓦屋根の民宿の一つに入る。部屋数が六つしかないその建物は、宿というよりも開業医が家を病院に改築したといった印象に近い。窓口には男性従業員が一人椅子に座り、狭いスペースに本を広げていた。余程その内容が面白いのか、肩を震わせて笑っている。
シュイが前を横切る寸前、従業員がはっと顔を上げ、おかえりなさいと声をかけた。
「ただいま。何かの小説か」
「え? あぁ、これですか」
シュイが手元に視線を走らせたのを見て、男は本の表紙を掲げて見せた。表題の部分には<男の子マネジメント>と書かれている。シュイが首を傾げたのを見て、男はおや、と目を丸くした。
「ご存じないですか、巷で評判の小説家、ナハル・ベルファーニさんの最新作ですよ。宜しければお客さんもどうです? もう少しで読み終わりますから後でお貸ししますけれど」
シュイは本の表紙に<4>の数字が書かれているのを見て、続き物は最初から読む性質だ、と首を振った。
「はは、それもそうですか。いや、惜しいですね。実家にいけば全巻揃っているんですが仕事中だし。そうでした、お連れ様はもうお戻りになられていますよ」
「わかった、ありがとう」
玄関から廊下を一つ跨いだ突き当たりの部屋を開けると、大きい窓を隔ててエメラルドグリーンの海が視界に飛び込んで来た。白い波頭が現れては消えてゆくのを垣間見、続いて部屋の隅で包帯の端を咥えているアミナと目が合った。
「ん、ほわったやうだな」
「アミナ。ど、どうしたんですか、その傷……」
剥き出しになった褐色の左腕には爪で引っ掻かれたような痕があった。かなり深い傷なのか、包帯を巻いたところから赤い滲みが少しずつ広がっていく。
アミナは咥えていた包帯を手で持ち直し、シュイに顔を向けた。
「いや何、ここを訪れたのは初めてだったものでな。件の島がどれくらいのものかと山の麓辺りまで足を運んでみたのだが。やはり単独での踏破は一筋縄ではいかなそうだ」
それほどの痛みはないのか明るい口調だったが、出血からすると浅い傷ではなさそうだった。自分より格上である彼女が手傷を負わされたことにも驚きを禁じ得なかったが、今は他に気にするべきことがあった。
「……勘弁してくださいよ。あなたに万が一のことがあったら同行していた私の立場がありません」
「無茶と言えるほどの無茶はしておらぬ。三年前の件で懲りているからな。利き目の良い薬も塗ったから心配は無用だ」
三年前と聞いてシュイの意識に当時の記憶が過った。が、直ぐにそれを追いやり、マルダの入っている袋を丸いテーブルの上に置いた。
「いいからそこに横になってください。治癒術をかけます」
専門家ほど上手くは出来ませんけれど、と前置き、シュイがベッドを指し示した。
「な、そこまでやるのか。この程度の傷で少々大袈裟では」
「早くしてください。傷が残ったらどうするんですか」
「わ、わかったわかった、そう急くでない」
シュイにしては珍しい押しの強さに、アミナはたじたじとなりながらも巻いたばかりの包帯を解き始めた。
袖を捲り、腕を肩まで露出させるとアミナは枕に顎を乗せ、ベッドの上でうつ伏せになった。肉が抉れて少し黒ずんでいることからかなり深い傷のようだった。
シュイは練っていた魔力を慎重に解放した。ゆらゆらと揺れる、白い煙のような魔力が掌から発され、アミナの肩にある三本の裂傷をゆっくりと覆っていく。黒ずんでいた傷口の表面が滅菌され、徐々に垢のようになってぽろぽろと剥がれ落ちていく。その間アミナは声一つ上げなかったものの、やはり痛みはあったのだろう、何度か顔をしかめていた。
治療が一段落し、傷口がピンク色の新しい皮膚に覆われ始めた頃合いだった。おもむろにアミナが伏せていた顔を上げた。
「あぁ、そういえば道中で珍しいやつに出くわしたぞ。誰だと思う?」
「道中、ってファムラヴ島の奥地に?」
シュイの言葉からは驚きが滲み出ていた。何せアミナですら負傷するような魔物が生息する場所だ。少なくともそこに行ける実力者なのは間違いないから大分候補者が絞られる。
「アルマンド・ゼフレルだ。私はそれほどあやつと親交はないが、そなたやタルッフィとは旧知の仲らしいな。シュイに宜しくな、と言っておったぞ」
「……アルマンドがこんなところに? 何か話したんですか?」
シュイは怪訝そうに首を捻った。こんなところまでくる余裕があるのに支部長を人に押し付けるのはどうなのか、と言いたげでもあった。
「少しばかりな。薬草を探しているとのことだった。実際、様々な植物を革袋に詰めていたぞ。どちらかと言えばのべつ幕なしに集めているようだったが」
「薬草探し、ですか」
腑に落ちなかった。仮にも経験豊富な上級傭兵が強力な魔物が跋扈する危険地帯で、それでも一つの薬草に目星を付けているのならまだわかるが、新種の薬草を探すような真似をするだろうか。
――いや、もしかしたらデニスの手伝いかも。
単なる思い付きだったが、有り得る話ではあった。若しくは、生えている薬草の分布図を作成するなどの依頼を受けているのだとすれば合点がいく。そういった任務も数は少ないながら存在する。後で会ったら一応問い質してみるか。そう思いつつ、シュイは処置が終わったアミナの腕を軽く引き上げた。
先ほどよりも随分と小さくなった傷口に清潔な包帯を巻いていく。既に血は止まっているので滲むようなことはなかった。心なしか、アミナの表情も先ほどより明るかった。
「話は変わりますがこの傷、どんな魔物にやられたんです?」
「ヴァルグタートルだ。まぁ、それに関しては私に非があるのだが、と、すまぬな」
包帯が解けぬよう小さな留め具を引っ掛けたところで、アミナが手当ての礼を述べ、身を起こした。
ヴァルグタートルの特徴を簡潔に表すならば敏捷且つ獰猛な陸亀だ。主に奥深い森を住処とし、熊や大猿などの大型動物を捕食して暮らしている。鋼の槍をも通さぬ堅牢な甲羅と発達した四肢を持ち、こと跳躍力に関しては魔物の中でもトップクラスと言って良い。また、皮膚や甲羅の色を変化させて岩に擬態するこも出来る。
その甲羅は非常に軽く、その堅さ故に加工できる者は限られるが、最上級の防具素材として珍重されている。
「どうやら根城としている場所に足を踏み入れてしまったらしい。取って食おうというよりは守ろうという強い意志が伝わってきた。確かあれは今頃が産卵期であるし、事実その場から退いても追っては来なかったからな」
おのれの魔力を同調させることに長けている高位の辰力使いの中には、魔物の感情を色として認知できる者がごく少数いる。アミナも昨今になってようやく体得した技術らしいが、複雑な感情を有する人間を始めとして、高い知能を持つ者に使うのは難しいそうだ。
「見逃したんですか。優しいんですね」
「いや、それは正確ではないな。興味本位で立ち入ったことへの後ろめたさ故に、だ。住処を荒らされれば憤りを覚えるのは当然であろう」
「……そうですね」
シュイはそう口にしたものの、やはり敵わないな、と思った。戦っている最中でも、傷を負わされても尚怒りを鎮め、相手を思いやる余裕がアミナにはあるのだ。今の自分にまだそこまでの余裕はないように思われた。感情に振り回されず、相手の立場を慮って力を加減する。言うは容易くともそれがどれだけ困難なことか、最近になってようやくわかってきたことだ。
「それより、先ほどからあれの中身が気になるのだが」
アミナは包帯に指を入れて締め具合を調整しつつ、顎でテーブルの上に置いてある紙袋を示した。
「ああ、忘れてました。露店で熟れたマルダを見かけたので買ってきたんです」
「ほう、それは良い。本土ではそうそう味わえぬからな」
「ええ、今剥いて食べさせてあげますからちょっと待っていてくださいね」
アミナはポカンとし、どのような図を想像したのか、顔をほんのりと紅潮させた。
「あ、阿呆か。重病人でもないのにそのような恥ずかしい真似をせずとも良い。普通に寄越せ、普通に」
じっと睨んでくるアミナに、シュイは遠慮しなくて良いのにと苦笑しながらも、袋から取り出した瑞々しいマルダを一つ、アミナの胸元に向かって放り投げた。