prologue2(new)
無意識のうちにベッドから跳ね起きていた。体の内側がやたらと火照っていて、反して外側はひんやりしていた。大量の寝汗を吸って冷えきった半袖のシャツが背中にべたりと張り付き、シュイは大きく身震いした。
夢心地から覚醒したシュイは乱れた呼気を落ち着かせるように、長々と息を吐き出した。垂れ下がってきた前髪の束を後ろへ掻き上げると、汗に濡れた漆黒の髪が手櫛に纏わりついた。
切れ長の黒い瞳は細い眉と適度に長い睫毛のせいで少女のような印象を与える。線の細さは相変わらずだが、丸みのあった顔はぐっと引き締まり、幼さが大分取り払われている。
妙に明るい天井に目を細め、照明石が付けたままになっていることに気づいた。俯き気味に昨晩の記憶を辿り、それから枕の横を見て、自得した。開きっ放しになっている古びた魔道書に背表紙の栞を挟み、ぱたんと閉じる。
木製のベッドサイドテーブルに置いてある黒い棒、反応石を掴み取ると、天井の中央にある手の平サイズの球形照明石にコツンと当てた。夜通し光を放っていた石が段々と光量を弱め、艶のある灰色に変化した。のっぺりとした自分の顔が薄らと映った。
こういった魔法具に近い照明具は高級ホテルなどでよく使われている。それなりに値は張る代物だが、人に内在する力を動力源にしているため、壊されなければ半永久的に使える代物だ。薪や油などの燃料も不必要なため、長い目で見ればコストパフォーマンスは悪くない。
消灯に続いて、シュイは傍らにある本をベットサイドにある小物入れの上に置き、それから上半身を起こしたまま、先ほど見ていた夢の内容に心を傾けた。久しく見なかった夢だが、その内容ははっきりと脳裏に焼き付いていた。
故郷のエスニールが襲撃されたその日。共に生活を営んでいた仲間たちを目の前で殺され、全てに絶望したシュイは、初めて滅祈歌を口ずさんだ。
滅祈歌とはその名の通り、滅びの到来を祈る歌だと言われている。自分の魔力を撒き餌にして周囲に点在する想念を掻き集め、自らの力として扱えるよう<自律強化型魔法陣>へ組み替える。
ただし、リスクも並のものではない。想念が集まり過ぎると己の感情を御しきれなくなり、自我を乗っ取られてしまうのだ。
その特性を理解するのに三度もの使用を要したが、行使出来る力はつとに凄まじかった。一歩踏み出せば五歩分進んでいるような身軽さと、足踏みするだけで固い地盤がひび割れるほどの筋力が備わった。初級魔法を詠唱すれば、上級魔法に匹敵する威力にまで底上げされた。自分が全く知らぬ存在に変わっていき、その変貌の度合いを肉体から一歩離れたところで眺める、そんな感覚がもたらされるのだ。
シュイはその力を用いてエスニールの襲撃者たちを追走し、帰還途中にあったセーニア軍の一個大隊を壊滅させた。最終的には軍の最高責任者であり、父とも慕っていたコンラッド・ディアーダをも死に至らしめた。それも彼の娘、幼馴染のアデライードの眼前で。手放したくとも手放せぬ苦い記憶。あの時放った力の感触は、未だ左手に残っている。
滅祈歌を最後に使ってからは三年近くになる。それだけの時が経っても尚、その感覚を拭い去ることはできていない。一度使えば全身を巡る血液が一斉に沸騰したかのように熱を帯び、五感が何倍にも研ぎ澄まされる。例えば視覚ひとつとっても、宵闇の中にあって昼間の視界が確保され、どこに何があるのかがわかってしまう。しかも術の使用中は痛みをほとんど感じない。気分が果てしなく高揚し、無性に体を動かしたくなるのだ。
反面、デメリットも非常に大きい。術が解けた後に待っているのは、いっそ殺して欲しいと思うくらいの苦痛。術が効いている最中に受けた痛みや、酷使した五感、筋肉の疲労が一挙に襲ってくるのだ。もう二度と使うまい、というのは使った直後のお決まりの言葉。そのくせ三度も使っているのだから救えない。
もしやおぞましいはずの経験を望んでいるもう一人の自分がいるのだろうか。もしそうなら、もう少し懲りて欲しいものだ、と他人事さながらに思う。
『金輪際、滅祈歌に頼るのはやめなさい』
シュイは、師に等しき存在であるニルファナ・ハーベルの忠告を思い出した。艶のある赤い髪に美姫の容貌。性格は明朗快活にしてちょっぴり自己中心的。それでいて他の追随を許さぬ天才的な魔法使い。数少ない、どうにも頭の上がらない相手だった。
セーニア教国との一件以来、シュイは一年近くに亘って賞金稼ぎに追われることになったが、ニルファナに出会ったその日から、全てが変わった。不幸な境遇に共感してくれた彼女の庇護により、逃亡生活に終止符を打つことができたのだ。手を差し伸べてくれなければとうに野たれ死んでいたか、そうでなくともまともな生活を送ることは出来ていなかっただろう。少なくとも、用心棒付きの高級宿に泊まり、襲撃の心配もせずにぐっすりと眠れるような生活とは、一生縁がなかったはずだ。
唯一例外として、南の大国フォルストロームが何者かに襲撃された折に、ニルファナとの約束を一度だけ破った事があった。そして、その報いたるや生半可なものではなかった。物見高い通行人や兵士たちの前で雷に打たれ、雷に打たれ、雷に――
忌まわしい記憶に辟易してきたのか、シュイは呻きながらもそれを振るい落そうと首を振った。体が言うことを効かなくなるまで仕置きされれば、誰だって従おうという気になるというものだ。シュイは、ニルファナがやるといったことは必ずやる女ということを、身に沁みて知っていた。かつて身に受けた仕打ち以上に厳しい罰となれば、手足の一本くらいは捥ぎ取られてもおかしくない。
とはいえ、前回の折檻、もとい愛の鞭(本人談)についてはシュイの身を案ずるが故にやったことであり、シュイ自身、そのことを痛いくらいに理解していた。実際、シュイが西の大国エレグスに移ってから半年ほどの間、ニルファナの評判は芳しくなかった。自分のせいで彼女が悪い意味での女王様のように言われるのは堪え難いことだった。自分が貶された方がよほどましだ、そう思うくらいには、シュイも彼女のことを信望していた。
以来、シュイは何とかニルファナの名誉を回復しようと、日々の練磨を絶やすことなく、出来るだけ難度の高い依頼を繰り返しこなしてきた。その甲斐あってか、Bランク傭兵に昇格してからしばらくすると、悪い噂も波が引くように静まった。もっとも、元々人に好かれる性格であり、傭兵としての能力も著しく高いことから、彼女自身の力で噂が払拭された可能性もある。
最近は顔を合わせることもめっきり減ったが、寂しさは感じていなかった。こちらが難度の高い任務をこなすたびに、顔を綻ばせてくれていると人伝に聞けば、力も湧いてくるというものだ。
発端はどうあれ、恩人に報いるという強い動機は、シュイを前向きな性格へと導きつつあった。充実した生活を送っているうちに、復讐心が顔を出すようなことは以前に比べて格段に少なくなってきていた。
ところが妙なことに、今度はとうに捨てたはずの罪悪感が芽を出し始めた。自らがやったことに対する罪の意識は少しずつ重みを増してきていることを自覚せずにはいられなかった。それに堪え切れずに押し潰されると、偶に鮮明な夢となって顕在化するのだ。
シュイは、悪夢を見る原因については自分なりに答えを出していた。多くの人を不幸にし、自分だけ普通に暮らしていることに対して後ろめたさを感じているのだと。
集めた想念に呑み込まれてしまったとはいえ、そのリスクを重々承知していた以上、おのれの選択がもたらした結果であることに変わりはない。ましてや、半ばどうにでもなれと自暴自棄になっていたのだ。責がないとはとても言い難い。
頭の中で割り切っていたはずなのにこうもうなされてしまうとは、何とも女々しいものだ。シュイは自嘲気味に笑った。
ふと、幼馴染の少女、アデライードの顔が脳裏に過ぎった。自分を見つめる屈託のない笑顔が。
シュイは辛そうに目を閉じ、胸を切なげに押さえた。今は仮の名を名乗っているため自分や自分の周りの者たちに害が及ぶ心配はほとんどない。だが、いずれは自分の犯した罪と向き合う日が来るかも知れない。あの日自分が追い詰めたコンラッドの立場に、自分が立たされる時が。
もしそのとき、目の前にいるのがアデライードであったのならば、自分は罰を、彼女の怒りの全てを受け止める必要があった。今際の際にコンラッドが訴えていた通り、彼女には何の落ち度もないのだ。
どういった事情があれ、自分がアデライードという一人の少女を天涯孤独にしてしまったという事実に変わりはなく、罪を犯した自分に対して彼女の抱いている感情がどういった類のものなのかも、容易に想像がつくからだ。
鳥たちの囀る音が耳に入った。シュイは考えるのを止めてカーテンで覆われた窓の方を見つめた。透けている陽光の弱さから察するに、今少し早い時間帯のようだ。
シュイはゆっくりとベッドの下に両足を降ろし、爪先で灰色の絨毯の上にある茶色いスリッポンの靴を引き寄せた。履き終えてからすっと立ち上がり、手を組んで長々と伸びをする。そうして血液を身体全体に行き渡らせてから指をすっとほどく。虚脱した状態から左拳を軽く握りしめ、宙に突き出した。拳が伸びきって制止するや否や、鞭で堅い床を叩いたかのような音が部屋に響き渡った。
気だるさは残っていなかった。体は本調子を取り戻しつつある。それを確認してから、シュイは寝汗で濡れたシャツをベッドの上に脱ぎ捨てた。
やや細身ながら引き締まった腹筋と背筋が露になる。右肩には深い刀傷の痕が、左手の平には火傷のような痕が見受けられるが、その他に目立った傷は見当たらなかった。
シュイが傭兵としての道を歩み始めてから今日に至るまでは、幾度も死地を潜り抜けていた。故に、体に残っている傷の少なさは戦闘能力の高さを如実に物語っていた。
衣紋掛けから新しい服を掴み取り、袖を通した。繊維の細かな高級コットンで作られたカーキ色の長袖シャツは肌に吸いつくように柔らかく、羽毛のように軽い。
それを着込んだ上に馴染みの仕事着に腕を通していく。フード付きの黒衣を手早く身に付け、壁に掛けられている縦長の鏡を見ながら襟を摘んで整えた。それからドアの横に立て掛けてあった大きな布包みを、すっかり手に馴染んだ己の相棒を引き寄せた。