~転機 the turning point5~
オープン当日、早朝から降り続いている霧雨が赤褐色の屋根を濡らしていた。エントランスでは新支部のギルド員たちが依頼人や傭兵を受け入れる準備に右往左往している。まっさらな依頼書を一定の厚さに纏め、書類記載用のテーブルに置いていく者もあれば、カウンターで顧客簿や筆記用具がちゃんと用意されているか確認している者もいる。
カウンターの内側では依頼書の選り分けをするために難易度のシールをそれぞれ棚に貼り付けてあった。高齢者や足腰の悪い者が来訪する可能性も考慮し、待機用の肘掛け椅子、移動用の車椅子をエントランスの窓際にいくつか並べてある。
仮にも傭兵ギルドなので、雑貨の大型店舗のオープンに使われそうなくす玉や門の飾り付けなどはしていない。いささか殺風景ではあるが、そんなことを気にする依頼人がいるとも思えなかった。彼らの大半は、自らが抱えている困りごとでそれどころではないはずだった。
湿気と混雑による蒸し暑さを和らげるため、窓は出窓も含めて開け放ってある。シュイは二階の窓からそっと外の街路を見下ろし、色取り取りの傘が長い列を作っているのに眉を上げた。天気が悪いからそれほどは来ないだろう、という予想は見事に裏切られていた。
支部の入口前ではトートゥ支部から応援にきたギルド員が整理券を持ち、通行人の邪魔にならぬよう外壁に沿って二列になるように誘導していた。列の末尾がどこにあるのだろうと視線を走らせるものの、街角のところで曲がっていたのでその先は見えなかった。
これだけの人たちが新支部の完成を心待ちにしていたのだという唐突な理解と、それだけに初日からの失態は許されないという気負いが、シュイの脳裏を埋め尽くしていった。立ちながらにして、何枚もの布団を身体に掛けられているような重さを感じた。
シュイの後ろには、支部員用の紺の制服に身を包んだティートが手を添えるように組んで控えている。茶色い髪には念入りに櫛を入れてあるのか、普段よりも幾分滑らかだった。ちらりと背後の植木鉢に植わっている時計花を見計らい、花弁が白くなりかけていることを確認する。
「エルクンド支部長。そろそろ時間ですわ」
シュイは小さく頷くと窓から視線を外し、微かに震えている胸を抑えながら、ティートを伴って階段を下りていった。
一階受付カウンターの前では、ギルド員が整列してシュイたちを待っていた。二階から下りてきたシュイは列の中ほどまで進み出ると、ゆっくりと十人のギルド員に向き直った。後ろに付き従っていたティートも列の一番端に並んだ。
落ち着いている者もいたが、そわそわしている者の方が多かった。新支部ということもあって今回配属されたのは若い傭兵が多く、支部の業務に初めて携わる者も少なくない。
――緊張を解きほぐすのも支部長の役目、か。
自らの緊張を唾と共に飲み干し、シュイはギルド員の顔を端から端まで流し見た。皆の背丈が微かに伸びた……のは気のせいで、背筋を伸ばしただけだった。
「業務に関する説明は昨日やっているので端折らせてもらう。言うまでもないことだが、依頼を行うのは支部にやってくるシルフィールの傭兵たちだ。我々はあくまでサポート側。依頼人と傭兵のやり取りを円滑に進めることが第一目的となる。必要以上に気負う必要は全くない。今回は初日ということもあって専ら受付業務が主となるが、何かわからないことがあれば俺か、もしくは手の空いている受付経験者に訊ねてくれ。分かり易くするために経験者には胸元に金色のネクタイピンをしてもらっている。俺は基本的には二階の支部長室にいるが、席を外す時はティートに言伝をしておく。いない時には彼女に相談するように。ないとは思うが、探しても二人が見つからなかった場合は魔石での連絡も許可する。後は各々割り振られたローテーション通りに動いてくれれば何ら問題ない。ま、今日ばかりは休憩を取る暇もないかも知れないが。以上だ、何か質問はあるか?」
――よし、よーし、噛まずに言えたぞ。
シュイは人知れずフードの奥で満足げな笑みを漏らした。一方で、訊ねられたギルド員たちは、その殆どが目配せを交わし合い、誰かが手を挙げないか窺っているようだった。仮にもギルド員は皆Bランク以上の傭兵であるはずなのだが、その様子は他所様から借りてきた猫と言って差し支えない。或いは、初めての制服の着心地がそうさせているのかも知れなかった。
「しぶちょー、良いですか?」
元気よく挙手したアマリスの軽い物言いに、何故か何人かのギルド員たちがぎょっとした。
「ん、何だアマリス」
シュイは少しだけ目線を下げた。
「その……ちょっとくらい失敗しても怒らない、よね?」
頬を掻きつつ上目遣いをするアマリスにシュイは腕を組んだ。ギルド員たちはその様子を、固唾を飲んで見守っている。
妙な緊張感を肌に感じながらも、シュイはアマリスに口を開いた。
「誰にでも初めてはある。手を抜かずにやった上でのミスなら文句は言わん。むしろ今回はミス前提だな。それくらいの気構えで臨んでくれていい。但し、ミスした原因はちゃんと考察し、繰り返さないよう努力するのは言うまでもないが」
「そっか! うん、わかったよ!」
納得顔のアマリスに、シュイは腕を解いた。と、心なしかギルド員たちの表情が先ほどよりも明るくなっていた。質問してくれたアマリスに感謝しなければならないだろうか。そのような気持ちが芽生え、不思議と自分が感じていた緊張も先ほどより軽くなっていることに気付いた。
「では、そろそろ開館の時間だ。諸君、つつがなく任務に当たって欲しい」
「はい!」
小気味良い返事と共に、ギルド員たちが各所に慌しく散っていった。再びシュイが二階への階段を上がっていく最中、半球型の照明石が一斉に光を放ち始め、エントランスの大扉が軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。
依頼人の入館は拍子抜けするほどスムーズに行われた。依頼人たちは応援のギルド員の指示に従い、依頼書のあるテーブルへと移動し、記述し終えた者から受付に向かう。勝手知ったる者が多いようで、その流れからはみ出る者は殆どいない。ギルドには厳つい傭兵が居並ぶイメージもあるし、実際そういったギルドも数多い。どちらかと言えば一見様よりもリピーターが多く、冷やかしやクレーマーの類が現れることはまずないと言って良かった。下手に因縁を付けたところで叩き出されるのが目に見えているからだ。
開店から三十分後、四つの受付には早くも長蛇の列が出来ていた。遅れて入館を許可されたシルフィールの傭兵たちが続々と二階に上がり、早くも依頼書が貼り付けられた掲示板を確認している。
初めは舌足らずだった受付員も、段々とそんなことは言っていられなくなってきた。忙しさに引っ張られるようにして自然と口が回るようになっていた。
「畏まりました、メノア鉱石の採掘ですね。量が多いので期限の方に幾分余裕を取っていただきますが」
「難易度でいいますと相場はこれくらいですので、こちらの金額では少々厳しいかも知れません」
「ええと、ちょっと待ってくださいね。――すみません、ティートさん。現在のルクスプテロンへの輸送可能地域を教えて下さいませんか?」
「あぁ、それは区域の取り決めが細かくてちょっとややこしいので、こちらが終わったら私が対応しますわ」
一般には知られていないことだが、支部の業務に携わる者は全員Bランク以上である。ギルドが戦争や抗争などで恨みを買った場合、真っ先に襲撃されるのが支部であること。また、赤い魔石で救援要請された場合、事態を収拾するに足る強者が赴かなければ二次災害に発展することなどが主な理由だ。加えて、依頼書の受付の際、様々な依頼を数多くこなし、経験を積んだ者でなければ難易度や報酬などの正確な判断が難しいことも大きい。たとえばCランクと受理された依頼がAランクに類する内容だった場合、死傷者が出る事態に発展する可能性は大いにある。そういった人災を少なくするための措置である。
ティートは意外とそつなく対応している支部員の様子に目を細めた。
――流石に皆さん優秀ですね。希望配属の方々が大半ですし緊張が解ければこんなものかしら。
「あのー、署名の訂正終わりましたけれど。これで宜しいでしょうか」
応対していた顧客に声を掛けられ、物思いに囚われていたティートが慌てて佇まいを正した。
「あ、はい。ええと、ええ、これで大丈夫ですよ。では受理しましたので、魔石での連絡がありましたらまたお越しください」
ティートは少し恥ずかしげに、しかしちゃんと微笑んで会釈した。
若い木の香りが漂う支部長室では、シュイが速記を駆使して纏められた書類をチェックしていた。
支部長室と言っても私物と呼べるような物はまだ持ち込んでいない。入って正面の日当たりの良い窓際には二人も十分使えそうなくらい大きな書斎机がある。窓を左右から挟むようにティートが指定した水色のカーテンが取り付けられており、それが殺風景な部屋を幾分明るく見せていた。右手には天井まで届きそうな木製本棚がある。絨毯は紺とベージュの四角い縁取りに赤紫のメダリオン模様。高級感のある色合いだが、近くの雑貨屋でアマリスが見つけてきた処分品だ。こと支部長室に関しては、彼女らの提案で悪くない感じに仕上がっていた。
支部長の仕事は色々あるが、取り分け重要な仕事が三つあった。一つ目は資金の管理。支部員に支払う給与や土地代、建物代などは本部から直接指定の銀行に振り込まれるので問題ない。しかしながら、傭兵が使う連絡用魔石の補充、建物の修繕費、清掃業者の手配など、支部の運営に必要な金額はかなり多い。逆に収入としては、窓口で依頼受諾時に依頼人から手数料を仮払金という形で徴収している。その金額を差し引いたものが、掲示板に張られている依頼書の報酬ということだ。そうして集められた金は一定期間特殊な呪鍵の付いた金庫に厳重に保管され、本部から特定のギルド員がやってきた時に纏めて渡される。
二つ目は支部員の統率。彼らは仮にもBランク以上の傭兵である。つまり、統率する者にはそれ以上の強さ、威厳が求められるのだ。特に威厳という点においては年長者であることが望ましいが、シュイはニルファナの助力を経て年齢を偽った上でシルフィールに入ったため、現在は23歳の扱いだ。勿論、それでも相当に若い方なのだが、幸か不幸かエレグスでの知名度は高い。現段階では、支部員たちを統制しきれないなどということはなかった。
そして三つ目は――
部屋に籠もってから一時間ほどが過ぎた頃だった。ペンが小刻みに机を叩く音に交じってドアのノック音が鳴り響いた。
「しぶちょー、仕事中申し訳ないけどちょっと良いかな?」
「ああ、どうした?」
聞き慣れた声と呼び方に、シュイは書き終えた書類をチェックしながら応じた。
「二階の受付前で傭兵同士が揉めてるんだ。いい加減うるさいから僕がシメちゃってもいい?」
「なんだって? このくそ忙しい日に一体何考えてるん――と、……しまった」
持っていた重要書類を無意識に握り潰してしまったシュイは慌ててそれを机の上に押し広げ、生じた無数のしわを丹念に伸ばす。
――やっぱり完全に元には戻らないか。くそぅ、これも全部そいつらのせいだ。
シュイはアマリスに了承の返事をしようとした。だが、考えようによっては、決然とした態度を示す好機と言えなくもないことに思い至る。シュイは肘掛けに両手を付いて立ち上がり、ドアに歩み寄ってノブを回した。
二階の受付前ではアマリスの報告通り、大の男同士の何とも不毛な言い争いが繰り広げられていた。
「さっき説明しただろうが! それは俺が先に取った依頼書だぞ! いきなり横からかっさらうような真似しやがって、一体どういうつもりだ」
「依頼書を取るのが早い者勝ちなのは暗黙の了解だ。次回から気を付けるんだな、ぼうや」
「てめえの目は節穴か! 俺が今磁石を外しかけていただろうが!」
「そうだとしても、ちゃんと紙を掴んでいないおまえが悪い。それと、下手に因縁付けると怪我するぜ」
二人は周りを取り巻く傭兵たちの鬱陶しそうな目線に気付く様子もなく、今にも掴み合いに発展しそうな雰囲気だった。
――み、見苦しすぎる。何なんだこいつら。
騒ぎの渦へと進みながら、シュイはフードの奥で頬をひくつかせていた。握られた拳が微かに震えているのを後ろから見て、アマリスは、床に血が付いたらやっぱり拭かなきゃダメかなぁ、とせんなきことを考えた。