~転機 the turning point~
遠くから誰のものとも知れぬ話し声が微かに聞こえてきた。建物が大通りに面していることもあって、二階ロビーの透過窓からは労働者たちの通勤する様子がちらほらと窺えた。
小麦の焼ける芳醇な香りが漂い始めてから程なくして、上に割烹着を羽織り、頭に潰れたコック帽を被っている女性の売り子が厨房から顔を出し、三段キャスターに色取り取りのサンドイッチを並べてゆっくりとロビーを回り始めた。
エレグス領北東の町、トートゥの北地区にある蔦に覆われたホテル。内装は古めかしいが置かれているテーブルや椅子などといった調度品は新品同様だ。
滑らかな曲線描く椅子の背もたれに寄り掛かり、のんびりとくつろいでいたシュイは、広げていた新聞から目を離すと脇を通り過ぎようとした売り子を呼び止め、燻製飛豚肉のサンドと熱い紅茶のセットを注文した。差し出された紙にシュイがサインすると売り子は金を徴収することなくテーブルに湯気立つ食べ物を置き、ありがとうございました、と丁寧に頭を下げた。
これは別に無料サービスというわけではない。常連客の場合、ホテル内でのサービス料金をその場その場で支払う必要はなく、最後に纏めて割り引いた上で精算することができるのだ。
シュイは楕円形のパンを二つに切った本格的なサンドイッチを頬張りながら、再び新聞に目を移した。焼き立ての小麦の香ばしさと煙に燻されたベーコンの独特の風味を楽しみつつ、頁を捲りながら比較的大きい見出しを流し読みしていく。
少しして、注目すべきニュースを一つ見つけた。見出しは<セーニア、軍備増強中?>といったものだ。どうやら近隣諸国の腕の立つ騎士や傭兵などに目星を付け、スカウトを派遣しているようだった。ここのところは大規模な戦闘が起きていなかったが、懲りずに出兵を計画しているのだろう。セーニア国内には反戦派もそれなりにいるはずだが、世論は戦争再開へと傾きつつある。先の大戦で戦死した者の家族に注目を集め、上手い具合に同情を煽っているようだ。
読むべき部分を読み終えたところで新聞を畳み、鉄製の大きな網籠に戻した。フロント手前にある大きな時計花を見ると、花弁の色合いは黄色から白に移行しつつある。そろそろギルド支部が開く頃合いだった。
シュイがトートゥのギルド支部から前触れもなく呼び出しを受けたのは三日前のことだった。連絡用魔石の霊体を寄越したのが支部長だったことから、放置できる類の内容ではないと判断し、取り掛かっていた任務を早めに切り上げて支部に向かった。昨日町に着いた時には既に夜も更けていたため、馴染みのホテルに泊まることにした。
正直に言って、呼び出されそうな心当たりはいくらでもあった。ここの所始末した賞金首の情報更新を行った覚えが無かったし、ギルドの心証を悪くしたと叱責されそうな理由も腐るほどある。少し前にデニスらと共にバータンとナルゼリの戦争に介入したことに関しては、ギルド内でも賛否両論を呼んでいた。
或いは前々回の任務で古代遺産として名高いオベリスクを修復不可能なくらいに木っ端微塵にした件だろうか。地方版とはいえ新聞の一面を飾ってしまったわけだし、それについても小言くらいは言われるかも知れなかった。それはあくまで相手が放った攻撃魔法を避けた結果であって自分が直接手を下したわけではなかった。しかしながら、証人と成りそうな当事者は今や土の中である。
――考えていてもしょうがない、か。
呼び出しに応じぬことは簡単だが、後々始末書が大量に送られてくるような事態になるのは避けたかった。重要書類に関しては、期日までに提出しなければ除名処分も有り得るからだ。
ギルド・シルフィールは数ある傭兵ギルドの中でも比較的自由な気風だが、マスターであるラミエル・エスチュードが根っからの商人なこともあってそういった報告や手続きなどの取り決めに限っては非常に厳しかった。たとえランカーであっても例外はない。
滞在先でたまたま組んだ傭兵宛に書類が文字通り山のように郵送されてきた際は、周りにいた誰もが面食らったものだった。彼は三日間、魔物の討伐任務と並行して目に隈を作りながら書類を書き上げる羽目になった。
もし仮に<レテの死神、山の様な始末書に埋もれる>などと見出しを飾ってしまったら今まで積み上げてきた傭兵としての信頼と実績が地に落ちるのは必然だ。死神の手前に<だらしがない>と付け足されただけでも、何ともきまりが悪くなってしまう。
出た結論は一つ、嫌なことはさっさと終わらせるが吉。そうと自分に言い聞かせ、重い腰を上げるとチェックアウトを済ませにフロントへと向かった。
シュイは完全に位置関係を記憶した市街地を、支部まで最短のルートを選びながら進んだ。但し、あまり人目に触れたくはなかったので得物だけはホテルに預けておいた。
時折街路樹に混ざって妙な形をした背の高い花がちらほらと見受けられた。通称ランプ花と呼ばれるエレグスの各地に群生する多年草で、路傍の至る所に生えている。
大きくて黄色い四枚の花弁はランプのような形を作っており、夕暮れくらいからおしべとめしべが発光し始める。そのお陰でエレグスの夜道は地面に落ちている小さな石まで見通せるほどに明るく、商店などもかなり遅くまで営業している所が多い。
初めは生活時間や文化の違いに戸惑ったものの、数年も住めばそれが日常となる。以前はあまり夜更かしをすることがなかったシュイだったが、今ではそれが当たり前になっていた。
馬車道から逸れて脇道に入り、人一人通るのがやっとというくらいの路地裏を抜けると、大通りに並ぶ色取り取りの建物の右端にトートゥのギルド支部が見えた。二階部分が黄緑色、一階部分が檸檬色とかなり明るい色調の建物は、エレグス領にある唯一のシルフィールの支部である。
建物の中に入った途端、シュイは生温い風に思わず呼気を止めた。受付は朝から大勢の依頼人でごった返していた。この近辺に四大ギルドの支部はないため、公共の建物で共通クエストを頼むのでなければ大多数がここへ来ることになる。
シルフィールでは受付員に適正と見なされれば、雑務や探し物、灌漑工事、果ては家庭教師までクエストとして取り扱われる。規模は兎も角として依頼の間口が広いという点においては随一と言えるだろう。
依頼書は報酬や期限、難易度などによって受付員にランク分けされ、達成すると依頼報酬とは別にそれに応じたポイントが加算される仕組みだ。クエストは1週間毎、月曜日に更新され、申請があれば最長で3ヶ月間貼り出される。
また、ギルド員にもD~Sまでランクがあり、Aランクは準ランカー、Sランクはランカーと呼ばれている。Bランクまでの傭兵は専ら達成ポイント。準ランカー以上となると評価委員会によって知識、人格、任務遂行能力なども加味されるため、戦闘能力のみの評価なら若干序列の入れ替わりも有り得る。つまりは、Bランクだからといって準ランカー、ランカーに実力が劣るとは限らない、ということだ。
シュイは久しく見なかった活気に少々面食らっていた。喧騒が大きいせいで受付員もかなり大きな声で応対している。
「ご子息様の護衛ですねー。どちらまでになりますか? セーニア領のルードまでですね。えー、予算の方をお伺いしても宜しいですかー? なるほど、このお値段ですとCランクの傭兵でしたら2名まで付けられますよ。Bランク? うーん、一人でもちょっと厳しいですね。ええ、Cランクでも腕は保障します」
「なるほど、娘さんの頭痛が酷いんですね。ふむ、医者にも治せないと。かしこまりました、あちらの個室で詳細をお聞かせ願えますか? それと、持参しているのであれば診断書の提出もお願いいたします」
「ははぁ、先の洪水で家が土砂に埋まってしまったと。それはお気の毒に。ええ、ええ、お任せください。土砂を除去するだけなら本日中でも可能ですよ」
受付は4つあったがどこも長蛇の列だった。受付員たちは淀みなく手続きをしているが、後から列の後尾に付く依頼人は引っ切り無しだ。
依頼が受諾された物から順に紙に纏められ、ある程度纏まったところで奥のフロアにある掲示板に貼り付けられていく。既に掲示板の四つ中三つが依頼の紙で埋まっていた。
入り口側の受付がそれを横目で確認すると少々お待ちください、と入口の扉に<受付終了>と書かれた木の看板を下げに行った。
「おっ、これは楽そうだな。もらいっと」
「うーん、報酬は魅力的だけど期限が厳しくない?」
「誰か、おれたちと一緒にバクーシャ砂漠で砂竜退治するやつはいないか? 報酬は均等分配、あと2名だ」
依頼書の掲示板前には早くも傭兵たちの姿が見受けられた。エレグスにある支部がここだけで競争率が高いという理由から、割のよい依頼を受けられる機会はそんなに多くはない。月曜日は意に沿った依頼を受けられる可能性が高い、数少ない日なのだ。
また、エレグスではフリーの傭兵が大勢活動していることもあり、チームを組むことにあまり抵抗がない者が多い。
奥の小部屋では、早速依頼を受諾した傭兵と依頼人がやり取りを行っているようだった。シュイがそれを横目に中央付近まで進むと、掲示板の依頼書を手際よく貼っていた色黒の男が歩み寄ってきた。
「誰かと思えばやっぱりシュイじゃないか。ここに顔出すなんて久し振りじゃないか?」
「盛況なようで何よりだ、ピエール。支部の業務には慣れたか?」
燃えるような色の赤髪は初めてあった頃と違い、少し長めに切り揃えられている。今は事務仕事をしていることもあって白いシャツとベージュ色のスラックスを身に付けているが、服の上からでも鍛えられた筋肉の形が薄らと窺えた。
シュイという名を聞き咎めたのか、いつの間にか掲示板の前にいた何人かが振り返っていた。
「……あれがそうなの?」
「あぁ、あの格好。間違いなさそうだな」
「……驚いたな、本物かよ」
「何だ、あんなやつ。今に見ていろ。俺の時代は直ぐそこまで来ているんだ」
好奇と畏敬、微かな侮蔑が混在した視線を受け止めながら、二人別段は気にしたふうでもなく話を進める。
「まぁぼちぼちやってる。それよか相変わらず人気モンだな」
「好むと好まざるに拘わらず、だがな。お陰様で悪く言われるのはへっちゃらになった」
肩を竦めるシュイにピエールが苦笑した。
「それで、今日は何用だ?」
「そちらの支部長殿に呼び出しを食らったんだ。大方周りから寄せられた苦情の類だろう」
「へぇ、タレイレンさんに? そりゃ御愁傷様だ」
「念のために耳栓は持ってきてるがな」
「ははは、バレたら滅茶苦茶怒られるぜ? ……あぁ、そうだった。悪いがこれに名前書いてくれ」
ピエールが懐から取り出したのは一枚の羊皮紙だった。
「あれ、ここって入館者の名前を書く必要あったっけか?」
「いーや。実はおまえのファンってやつが知り合いにいてよ。友人だって口滑らせちまったらサインをせがまれたんだ。あー、もうちょい下の方に、出来ればフルネームで書いてくれるか? ついでに他の傭兵にも頼む予定だからスペースを空けておきたいんだ」
サインを頼むならもっと安っぽい色紙でいいのではないか。そんなことを思いつつ、シュイは満更でもなさそうに筆を走らせた。
「さんきゅー。あぁそうそう、タレイレンさんなら支部長室にいるぜ。通路の突き当たりを右に曲がって真っ直ぐいったところだ」
シュイは小さく頷くと名前を書いた羊皮紙と筆をピエールに返却し、廊下の奥へと消えていった。