メンテナンス
朝の工房は、機械油と鉄の匂いに、ほんのわずかな硫黄の気配が混じっている。バルトの背中の高いところに、ヘルマンが片膝をついて作業していた。
バルトのうなじには、漆塗りのように黒く分厚い保護蓋がかぶせてある。ヘルマンが工具で四隅のボルトを順に緩めると、蓋がぱかりと持ち上がり、その下から光るリレーシーケンス回路が現れた。
「……ああ、やっぱりな」
ヘルマンの低い声が、バルトの広い背中の上で響いた。
蓋の縁に沿って、KS被覆ケーブルがところどころ白っぽく粉を吹いている。元は飴色の艶があったはずの皮膜が、まるで古い乾パンのように、指でこすればぼろりと崩れそうな具合になっていた。
屋外ケーブルの天敵、紫外線である。
本来、紫外線は密閉された蓋の内部までは届かないものだが、ここ数年の戦闘でわずかに歪み、ほんの僅かな隙間から目に見えないほどの光が差し込んでいたらしい。そこから紫外線が入り込んだのだ。
迷宮都市では、ダンジョンからあふれてくるモンスターとの戦闘を避けて通れないのである。
工房のみな、バルトの背後に逃げて、ただひたすら戦闘を見守っていた。急な故障は仕方がない。
「バルト、お前、頭をもうちょっと上げてられんのか」
バルトの巨大なキマイラ核が、こく、と頷くようにわずかに発光した。重厚な首が一段、ゆっくりと持ち上がる。
ヘルマンは新しいKIS電線を一束、肩から下ろした。電工ナイフで器用に被覆を剥き、芯線を撚って端子に通す。傷んだ古い線は、コイルから外したそばで丁寧に巻きまとめてバルトの腰の作業ポーチに置く——「これも記録だからな、捨てるなよ」と、無駄な配線にも本人なりの礼を払う癖があった。
新しい線を結線し終えると、ヘルマンは胸ポケットから細い銀の巻物のようなものを取り出した。
キングモス翅粉テープ。
光を喰う蛾の鱗粉を、絹のような薄布に漉き込んだ防紫外線テープである。市場では一巻五百ガルもする高級品だ。ヘルマンはそれを、新しく引いた線の上から、まるで包帯を巻くようにくるくると重ねていく。指の感覚で巻きの密度を揃え、最後の端を爪で押さえて固定する。
「……ふぅん」
満足げとも、ただの息ともつかない音を漏らして、ヘルマンは蓋を戻しにかかった。
その間ずっと、工房の床から、フェネクが見上げていた。
フェネクの白い装甲が、朝の作業灯にぼうっと反射している。腰から上を少しだけ斜めに傾け、頭部の光学センサーを真っ直ぐにヘルマンの手元に向けたまま、ぴくりとも動かない。
ヘルマンが蓋を閉じ、ボルトを締め、バルトの肩を一度ぽんと叩く。バルトのキマイラ核が、また、こく、と発光した。
ヘルマンは作業足場をするすると下りてきて、次の日常点検に入る。
バルトの脚元——ちょうど巨大な油圧シリンダーが膝関節に収まっているあたりに屈み込んだ。
グリスガンを取り、注入口の蓋を開ける。シリンダーの黒光りする金属の継ぎ目に、半透明の脂を、ぐ、ぐ、と押し込んでいく。
フェネクの光学センサーが、ヘルマンのその手の動きを追っていた。
ヘルマンは一度顔を上げ、フェネクと目を合わせた——いや、正確には、フェネクの光学センサーの中央のレンズと。
「やってみるか?」
ヘルマンはグリスガンを差し出した。
フェネクは、しばらく光学センサーをちかちかさせて、そのグリスガンを見ていた。
「えっ?」
そのとき、工房の入り口から声がした。
レナである。
朝のミーティングの紙束を抱えたまま、ちょうど工房に戻ってきたところだった。ヘルマンの手の中のグリスガンと、それに向かって少しだけ前傾しはじめたフェネクと、二つを見比べて、レナの口がぱっと開いた。
「ちょっと、ちょっとー! フェネクは精密なんだから、そんなもの触らせないで!」
「こいつがやりたそうに見てたから」
「そんな訳ないでしょ」
レナは小走りに近づいてきて、すでにグリスガンに伸びかけていたフェネクの白い指先を、両手でやんわり押し戻した。フェネクの指の関節部に、ほんの少しだけ黒い油の点がついている。レナはハンカチを取り出して、子供の頬を拭くような手つきで、ぐい、ぐい、と丁寧に拭った。
「ほら、もう、ついちゃった」
『自分で落とせます、レナ』
「いいから、じっとしてて」
ヘルマンは何も言わずに、グリスガンを膝のあたりに戻した。眉間の皺が、ほんのわずかに深くなった——それが笑ったのか呆れたのか、レナには判別できなかった。
***
午後になると、レナは工房の応接間でヘルマンに正式な書類を差し出した。
「企画会議、通りました」
ヘルマンはその一枚紙をしばらく眺め、それから老眼鏡を額に押し上げて、もう一度読んだ。社判が二つ、捺してある。一つは開発部、もう一つは購買だった。
「で、開発用の試作を、こちらの工房に発注したいんです」
「ふぅん」
「正式な発注書はこれです。型番は仮ですが、AGM-RR-001、リアクトル試作型——」
「待て」
ヘルマンは紙を裏返し、また表に戻した。
「これ、俺の名前が入ってんな」
「ヘルマン式リアクトル、で稟議を通したので」
「俺ぁそんなの、爺さんの手癖をなぞってるだけだぞ」
「それも含めて、企画書に書きました」
ヘルマンは紙の角を指でぴんと弾いた。少し笑ったようにも見えた。
「わかった。素材の手配はこっちでやる」
「市場に行かれるんですか? それなら一緒に……」
ヘルマンは、すでに作業着の上に古い革のジャケットを羽織りはじめていた。レナの言葉を遮るでもなく、ただ自分の支度を続ける。
「いいや、市場は使わん、ギルドだ」
「ギルド、って」
レナはぱちぱちと瞬きをした。冒険者ギルド、と言いかけて、その先の意味に追いついてしまった。
「えっ、今から潜るの? ダンジョンに?」
「俺は冒険者じゃない」
ヘルマンは革ジャケットの襟を立て、工具袋ではなく、薄い書類鞄のほうを掴んだ。
「こんな大量発注、市場でしちゃ他の客に迷惑だろ。妖精の粉も、ウンゴリアントの毒液も、まとまった数を一度に出せる店なんざこの街にはねえ」
「それもそうか……」
「ギルドに依頼出しゃ、冒険者が集めてくれる。新鮮な素材が最速で揃う」
レナは口を半分開けたまま、それを聞いていた。
工房の中庭で、バルトがゆっくりと顔を上げた。革ジャケットを羽織ったヘルマンを認めると、巨大ゴーレム専用の大きな荷車を出してくる必要があるかどうか、伺うように、こく、こく、と二度発光した。
「いいや、今日は依頼を出しにいくだけだ、大物は持ち帰らねえ。お前は留守番してろ」
ヘルマンが片手を上げると、バルトの発光は一度だけ強くなって、それからゆっくりと弱まった。納得した、という光り方だった。
レナは慌ててノートを取り出し、紙束の隙間に挟んでいたペンを構えた。
「あの、私、同行してもいいですか」
「お嬢さんが?」
「はい。発注の現場、見ておきたいので。あと——」
レナはちょっとだけ、ヘルマンの目を見て、それから少し下を見て、それからまた目を見た。
「ギルマス、また会ったら、ちゃんと挨拶したくて」
ヘルマンは、ふっと鼻で息を吐いた。
「あの野郎、お嬢さんを脅して楽しんでたな」
「いえ、そういう訳では……」
「いいから来な。フェネクも留守番を頼む。客が来たら教えてくれ」
『了解しました』
工房の隅で、フェネクの光学センサーが、ぴ、と一段明るくなった。それから、バルトの脚元のほうへ、白い装甲が静かに滑っていく。
バルトのうなじが、ふと、ほんの少しだけ傾いた。
それは、覗き込もうとする者を覗き込ませる角度——とでも、言うのだろうか。
フェネクが、その下に、ちんまりと座った。
レナはそれを一瞬振り返って、何か言いかけて、結局何も言わず、ヘルマンの背中を追った。
工房の両開きの大扉が開く。電線天蓋の隙間から、迷宮都市の薄黒い昼日が、二人の足元に差し込んでいた。




