第1話 キーホルダー
気づけば目で追っていた。
きっかけは些細なもので、彼の腰のポケットから覗くキーホルダーだった。
そのキーホルダーは手のひらほどのクマのぬいぐるみで、俺が絶対と定める映画のグッズだった。
あまり周りであの映画の良さを分かってくれる人がいなくて、ただただ同じ映画を好きな人がいるんだという少しの驚きと、あの映画が好きなのはどんな人なんだろうという興味だけだった。
とはいえ、ここは俺がホテルコンシェルジュとして働く仕事場で、キーホルダーの彼はこのホテルに配達に来た配達員で、お互い仕事中なのに趣味の話をできるわけもなくて。
彼はどうしてかこのホテルに配達に来ることも少なくて、そろそろ半年が経とうとしている。
(……もう、話す機会もないかもしれないな)
「配達ですー」
彼だ。
振り返るまでもなくすぐに分かった。
耳に心地良い天使の歌声のような、少し高めの美しい声。
もう二度と会うこともなかったかもしれない彼が、すぐ近くに、いる。
意識的に深く呼吸をしながら、威圧感を与えないように、できるだけゆったりと振り返る。
それと同時に素早く目線を走らせ、周囲の状況を確認する。
受付には俺と、同僚が3人。うち2人はお客様対応中で、1人は電話中。
対応できるのはたまたま手の空いている俺だけだ。
ちょっと浮かれそうになる気持ちを心の奥に押しやって、親しみやすい笑顔を思い浮かべながら、彼に微笑みかけた。
「いつもありがとうございます」
コンシェルジュとして、できるだけ丁寧に、やわらかく優しい声色に聞こえるように努める。
「……いえ」
お礼を言われると思っていなかったのか、ちょっと驚いたようにまじまじとこちらを見つめる彼から荷物を受け取って、一旦脇のデスクに置く。
「あの……?」
視線を戻すと、彼は何故か固まっていて、戸惑ってしまう。
「あ、も、申し訳ありません。サインを……少々お待ちください」
伝票を差し出しかけた彼は、腰のウエストポーチを探って、小さなバインダーを取り出した。
「失礼いたしました。サインをお願いいたします」
「……かしこまりました」
わざわざバインダーに挟んでくれるなんて。
脇にもデスクがあるけれど、見逃してしまいそうな彼の細やかな配慮に、胸が温かくなる。
「ご確認お願いいたします」
「はい、ありがとうございます」
サインを終えた伝票を差し出すと、律儀に両手で受け取った彼が、まっすぐに頭を下げた。
「では、失礼いたします」
「ありがとうございます」
俺もしっかりと心を込めて、頭を下げる。
いつもなら相手が見えなくなるまで頭を下げ続けるのだけれど、視界の端をあのクマのキーホルダーか掠めた瞬間、気づいたら声を上げていた。
「あ、あの……!」
持ってきていた台車に手をかけた彼が、そっと振り返る。
その動作が、なんだかスローモーションのように見えて、目をパチパチと瞬かせる。
「……?」
バッチリと目が合って、呼び止めたのは俺だと理解したらしい彼は、そっと微笑んでその大きな瞳を俺に向ける。
「はい、どうかされましたか?」
「あ、えっと……」
(どうしよう、仕事中なのに、雑談をするなんて許されるわけが、でも、これを逃したらもう二度と……)
考えるよりも先に呼び止めてしまった俺は、ぐるぐると目が回るように、纏まらない思考に飲み込まれそうになってしまって、口から出る言葉をとめられなかった。
「その、腰の……クマの――」
「え、『森の花園』をご存じなんですか……!?」
不思議そうにこちらを眺めていた彼が、俺が言い終わるより前に、輝かんばかりの瞳を見開いて、ぐいっと身を乗り出してくる。
(ち、近い……!)
俺は気づかれないように少し背を逸らし、何とか距離を取ろうとする。
動揺を隠して、コンシェルジュ生活で得た完璧な笑みを貼り付ける。
「はい、その映画が好きでして」
「わあ、おれ、この映画知っている人、初めて会いました……!」
頬を紅潮させて、嬉しそうにはしゃぐ彼が、すごくまぶしくて、息が吸えない。
「……あ、申し訳ありません、お仕事中に」
「いえ、私こそ引留めてしまって申し訳ございません」
「と、とんでもないです……! むしろ――」
「桜さん、こちら頼めますか?」
同僚が俺を呼んだことで、はっと息を吸い込む。
「はい、ただいま参ります」
同僚のほうを向いて、しっかりと返事をしてから、彼に向き直る。
(今、彼が何か言いかけていたような……)
「あ……おれ、これで失礼します!」
「あ、ちょっ……」
彼はさっきよりもほんのり色づいた頬を手の甲で覆いながら、逃げるように去っていってしまった。
「桜さん?」
呆然としていると、再び同僚に声をかけられる。
「……失礼いたしました。すぐ戻ります」
最後、彼が逃げ出すようにいなくなってしまったのは気になるけれど。
(話せて、嬉しい……)
思わず緩んだ口角をきゅっと引き締め、俺は仕事に戻った。
◇◇◇
(ああ、俺はなんてポンコツなんだ……)
配達員の彼と話せて舞い上がっていた俺は、帰宅してから我に返り、頭を抱えていた。
(連絡先、聞けなかった……)
彼は半年ぶりに俺の働くホテルに配達に来てくれたのだ。次はまた半年後かもしれないし、1年後、10年後かもしれない。
そもそも来てくれる日に、俺が勤務しているとも限らない。
名前も知らない、配達員をしているということだけで、探せるはずもなくて。
「……っ、あああ~」
何もかも分からないのは、こんなにも不安で、絶望しかないのだということが、身に染みて分かってしまう。
そんな気は到底起きないけれど、のそりと起き上がり、明日の準備をする。
明日も仕事なのだ。休みたいくらい絶望感でいっぱいでも、もしかしたら会えるかもしれないという一縷の望みが、俺に残酷な夢を見せる。
(どんだけ会いたいんだ、俺)
ばからしいほど彼のことを考えていて、笑えてくる。
ふっと息を吐くと、ふと、ひとつの疑問に思い当たった。
(……あれ。俺、なんでこんなに、あのひとのこと考えてるんだろう)
同じ映画が好きな仲間が珍しくて、話がしたいからだろうか。
それだけで、どうしてこんなにも。
(あのひとに、会いたいんだろう)
思い出されるのは、彼の天使のような美しい声と、はしゃいだ彼の紅潮した頬と、きらきら光る綺麗な瞳と、まぶしいほどの笑顔と――。
ホテルコンシェルジュとしての仕事は好きだ。
「ありがとう」と言ってもらえるのは、単純に嬉しい。
お客様の笑顔を見るのも好きだった。
彼の笑顔がもっと見たい。笑顔だけじゃなくて、何にどんな気持ちになって、どんな表情をするのか、見せてほしい。
「な、なんで?」
考えても考えても答えは見つからなくて、もやもやした気持ちのまま、俺はベッドに入り、頭まで布団を被った。




