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第一章

 山手線に乗って日本を一周しようという陳腐な計画を思いついたのは、パルミジャーノ・レッジャーノと名付けていたペンギンの人形を火葬場へ捨てに行ったときのことだった。

 ああ、一周すればすべてが変わる。人生が変わる。性格が変わる。そうだろう? そうだろう? そんな強迫観念に囚われたのだった。

 僕はこう見えても、思い立ったらすぐ行動に移すタイプだ。空が紫色になって、オレンジ色の夕日が出て、透明な雨が降っていたものの、すぐに渋谷駅へと向かった。

 意外にも、始まりの駅に迷いはなかった。渋谷駅。若者の中心地。そんな風に聞いていた。僕は、自分のことを若者だと思っている。大学に通っているのだから、若者であるはずだ。もちろん、大学に通っているおばあさんやおじいさんもいる。けれど、それはごく少数で、僕は個人的には、そのごく少数に当たる人間ではないと思っている。もちろんそれは、“個人的”といった通り、あくまでも個人的な意見で、実は案外おじいさんかもしれないし、もはや性別まで変わってしまっておばあさんなのかもしれない。いやむしろ、おじいさんであるよりもおばあさんである方がリアリティに長けている。しかし、それを他人に訊くことはできない。僕っておばあさんですか? そんなこと訊けるはずもない。それは気恥ずかしいというよりも、周りから変な人間だと思われてしまうという恐怖心に因るものだった。しかし、自分はもうすでに変な人間であるという開き直りもあった。なにしろ僕は、モスバーガーと聞いてバーガーキングを思い出し、バーガーキングと聞いてモスバーガーを思い出すような人間だからだ。でも、自分で自分のことを変な人間だと認識している分、ましだと思う。これがたちの悪い人間だと、たとえば道をふらふらと歩きながら、うろ覚えの中学校時代の校歌を歌い、五メートル置きにある電柱の前で踊っていても、さもこれが当然でしょう? といった風な目つきでこちらを見てくる。さらにひどい場合だと、あなたも踊りなさい、なんて言ってきて、僕は決まりきったように溜息をつくのだった。

 渋谷駅に着き、それから山手線のホームを目指した。電光掲示板を頼りに進んでみるが、一向にたどり着かない。それもそのはずで、今まで実は「ハチ公前」と書かれた電光掲示板を見ていたのだった。しかし、「ハチ公」は電光掲示板に載るほど偉いのだろうか。いや、電光掲示板に載っているのが偉いと考えてしまうと、今度は山手線やら半蔵門線やら、湘南新宿ラインが偉いということになってしまう。

 そこで僕は電光掲示板を無視し、自分の勘を頼りに山手線のホームへ向かうことにした。すると、案外この勘というやつが奇妙なほど良く当たるのだ。たちまちホームに辿り着き、そして会社帰りか、はたまたこれから営業に行くのか分からない四十半ばのおじさんと、明らかに部活終わりであろう(その部活は、野球部かもしれないし、卓球部かもしれないし、はたまた茶道部かもしれない)男子高校生に前後を挟み込まれ、横のプリンセス風な恰好をした二十二、三あたりの女にスカートのひらひらを当てられながら、電車が来るのを待った。

 到着は、「二分後」とのことだった。「何時何分」ではなく、「何分後」で示す。その抽象的かつ明確な態度が、僕の好みだった。「何時何分」が針時計とするならば、「何分後」はデジタル時計。そんな感じだった。

 結果、電車はきちんと「二分後」に到着した。つまり僕は時計で、「二分後」が正しいかどうかを確認していたというわけだ。恐らく、この「何分後」は、時計を見なくとも後どれくらいで到着するのか分かるようにするためなのだから、僕のこの行為は的外れ、あるいは元も子もないと思われるだろう。しかし、それは唐揚げにレモンをかけるかかけないかというような、極めて下らない好みの問題である。唐揚げをそのままで食べたいのならば、あらかじめ自分の分を取っておけば良いだろうし、レモンをかけたいのならば、あらかじめ相手の了承を得てからかければ良い。そんな具合だろうと僕は思った。


   ・・・


 ホームが混んでいたから車内はもっとひどいのだろうと思っていたが、案外そうでもなかった。ところどころに空いている椅子すらあった。みんな遠慮しあってそこの席には座らないのに、優先席にはどかどかと座っていた。僕は呆気にとられながらも、きちんとドアの前の角っちょのエリアを確保した。オセロでも角が大切なように、電車でも角は大切なのだ。

つり革を握らなくても、座席の壁にもたれかかれば揺れられないで済む。

仮に揺れた反動で、いかにも機嫌の悪そうなカッカとしたおじさんの肩にでもぶつかってしまったら、それはもうタダでは済まない。舌打ちに重なる舌打ち。ちっちっちっちっち。そしてその舌打ちを聞いた別のサラリーマンもつられて舌打ちを始めるのだ。そしてしまいには、カエルの輪唱みたいにズレながら、ちっちっちっちっち、ちっちっちっち。こうなるのだ。そして誰かが、ずれてるじゃないか! と起こり始める。それに対し僕が溜息をついて、ことは収束するのだった。

僕がいる角っちょの後ろには、いかにも機嫌の悪そうなおじさんがいた。髪は薄く、前髪しか残っていない。その少ない前髪がオールバックみたいに後ろにあげられていて、ワックスの代わりに汗でべっとりと形作られている。鼻には皮脂がたまっていて、髭の剃り残しもある。吐き出される息はコーヒーとビールを二対三で混ぜ合わせたような香りがして、それが汗のにおいと混ざりあう。しかしそれは不思議なことに、そよ風に吹かれたアゲハチョウの鱗粉を思わせる香りだった。あるいは、鱗粉やそよ風なんていうのは全くのでたらめで、単にビル風に吹かれたマトンカレーの香りに過ぎないのかもしれなかったが、僕にとって心地よいということに変わりはなかった。

僕は、このおじさんの機嫌が悪い理由を推測してみることにした。いや、そもそも彼は本当に機嫌が悪いのだろうか。いくら眉間に皺を寄せて、眉毛が上に三十度上がっていたとしても、実は機嫌が良いということもあり得るかもしれない。それに、もともとそういう顔立ちという説もある。しかし、ここでは機嫌が悪いと考えた方が好都合なので、そちらを採用する。

このおじさんはきっと、何かに大きな不満を抱いているのだ。それも、個人的な怨恨なんてものではなく、もっと大規模な、世間全体に対する不満だったり、日本のあり方に対する不満だったりする。このおじさんの眉毛の角度……。皮脂の塊ぐあい。それに、リュックがずれ落ちてしまいそうなほどのなで肩……。これらから推測するに、きっとこのおじさんは、最近の若者が「君が代」をろくに歌えないことに対して不満を持っているのだ。たとえば、さざれ石をミサンガと言ってみたり、苔を筵と言ってみたりする。中にはあのゆったりとしたリズムに耐えられず二倍速にしてみたり、ラップ口調にしてみたりする。そんな若者たちに対して怒っているのだ。確かに、僕自身も歌詞はうろ覚えだ。そもそも歌う機会なんて限られていて、やっと覚えたと思っても次に歌う時には忘れてしまっている。僕の友人の中には、「君が代」は歌詞の短さに対して曲が長すぎる、冗長だ、なんて偉そうぶって批評する

者もいる。さすがにそれは言い過ぎだと思うが、やはりそう思っている若者が少なからず存在するというのもまた事実なのである。そして、このおじさんはまさにそういった若者たちに対して怒っているのだ。

 しかし、このおじさんもまた、若者の中で流行っている歌に関して無知あるいは毛嫌いしているのである。たとえば、彼はボーカロイドやSNSで十億回再生された曲を知らないだろうし、知っていたとしてもそのテンポの速さについていけず、0・5倍速にして聞いたり、早口で進む歌詞を演歌のように長く伸ばして歌ったりするのだ。それにもかかわらず、彼は悪びれもしない。さもその曲が悪いかのように、道端で自分好みのリズムで歌い、無理やり若者と肩を組むのである。つまり、若者が「君が代」に対してしているのと同じことを彼もしているのだ。ただ、彼にはその自覚がない。それでは、一方的な被害者意識を持ったたちの悪い加害者ではないか。例えるなら、互いにナイフで心臓を突いているにもかかわらず、自分は殺された側で相手を刺してなんかいないと主張するようなものである。そして死後、閻魔様に「嘘つけ!」とこっぴどく叱られて舌を切られるのである。つまり僕が述べたいのは、自分にも加害者意識がないと、結局自分が損をするということであり、このことは十九年という8番目に小さい素数の年月で学んだことだ。

 そうはいっても、このおじさんにも良い所はあるはずだ。たとえばあの異常なほどのなで肩は、彼の優しさや一生懸命さを表しているのかもしれない。眉間に皺を寄せているのも、単にスマートフォンの画面を見るのに、目を凝らしているだけかもしれなかった。今まではそういった考え方も含めたうえで、彼は何かに不満を抱いているという説を採用したが、その逆の説も採用してみなければ、フェアではない。

 そうか! 彼は今、スマホゲームに夢中になっているのだ。それも、五年前に流行ったゲームを今もまだ流行っているかのように錯覚し、熱中しているのだ。それであまりに熱中し過ぎるあまり、課金までしている。それで奥さんに怒鳴られ、娘には深いため息を吐かれ、彼は今その憂さ晴らしをしているのだ。いや、それではやはり彼は機嫌が悪いことになってしまうではないか。

 いや、そもそもなで肩であることを前提にこういった理論を打ち立てているのだから、どうして彼がこれほどまでになで肩なのかを分析しなければならない。

 まず第一に、生まれつきのなで肩だったとしよう。まだ血に染まっている産まれたての赤ん坊の頃から、彼はなで肩なのだ。お母さんに、「なで肩ですねぇ~、まるで滑り台にもなりそうですねぇ~」と言われて育ったのである。この説は一見、科学的に見て最も可能性が高そうだが、だからといってリアリティがあるかと言えば、案外ない。では、ほかにどのような説があるか。

 第二に考えられるとしたら、今までにたくさんの荷物を肩に持たされたり、おんぶさせられてきたという説である。「おい、これも持てよ~」などと言われて、ランドセルから始まり通勤用のリュックに至るまで、今まで散々荷物を持たされてきたのだ。さらには、「おんぶしてちょーだい」などと囁かれて、五十五キロの女をおんぶし、「案外悪くないなあ」なんてぼやきながら、一キロメートル先の自宅まで連れて帰るのだ。そうした末に、彼のなで肩は完成されたのだ。おんぶの方はともかく、荷物を持たされてきたという話には涙を禁じ得ない。もし仮にこの説が正しいとしたら、彼のなで肩はやはり人の好さを表していることになる。この説は一見あり得ないように思えて実はかなりの整合性がとられているし、リアリティもある。

 第三に、彼はなで肩ではないという説がある。実は彼はれっきとした水平肩で、僕の誤った認識によって、なで肩とされているに過ぎず、もっとも、そうでなければあの重そうなリュックなんていとも簡単にずれ落ちてしまうはずなのだ。そう考えてしまえば、あえて三つも説を並べる必要などなかったわけだが、実はこの行為にこそ意味があるのかもしれない。三つの説を並べる————によってはじめて、僕はこの境地に達したのであり、たとえばそれが一つでも欠けていれば、永遠に気づくことはなかったのだ。

 それでは、なぜ僕は彼の肩をなで肩だと捉えたのだろう。それは僕の目に訊いてみるしかないだろうし、そもそも訊いてみたところで、「いやいや、それは脳に訊いてくれよ」と冷たく返されるのかもしれない。しかし、確実なことは、たとえあのおじさんの肩がなで肩であってもそうでなくても、僕はなで肩だと捉えたのであり、目に見えていることなのだから

一回きちんと受け止めなければならないということだ。

そうして彼は、新宿駅に降りて行った。新宿駅では、ヌーの大移動を思わせる勢いで大勢の人々が乗り降りした。ヌーはその大移動の最中、多くの死者を出すというが、彼らは大丈夫なのだろうか。僕が知らないだけで、新宿駅はその乗り降りのたびに多くの死者を出していて、ニュースでは「今日は78人が死にました」といった風にあっさりとした形で紹介されているのかもしれない。そして、そのニュースがあまりにも習慣化、慣例化され過ぎたがために、もはや僕たちがそのことに気づく余地はなくなってしまったのだ。これは一見恐ろしいように思えて、「新宿駅での大量死」というおぞましい事象から目を背くことができるという点においては優れているとも言えた。


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