第3話 それでも、君は生きていた
書き終えた原稿は、思ったより軽かった。 ファイルの容量は数百KB。 彼女の人生を詰めたにしては、あまりに軽い。
だけど、指先は痛かった。 打鍵のたびに、僕の中の何かが削れる音がした。 その削れた粉が、文章の行間に積もっていくみたいだった。
タイトルは、彼女が残したものをそのまま使った。
「君がいない世界で、僕は君の物語を書いている」
投稿ボタンの上で、カーソルが瞬いている。 これを押したら、彼女は「世界」に出ていく。 僕の中だけの彼女が、誰かの心へ移動する。
僕は怖かった。 誰にも理解されなかったら? 「作り話だろ」と笑われたら? 薄い感動として消費されて、彼女がまた消えてしまったら?
でも、彼女のノートの最後のページを思い出した。
物語は、誰かの心に残る
僕は投稿した。
公開されると同時に、世界は何も変わらなかった。 夜は夜のまま、冷蔵庫は唸り、部屋は静かだった。 彼女は現れない。
翌朝、目を覚ますと通知が増えていた。 アクセス数、ブックマーク、評価。 数字はただの数字のはずなのに、喉が熱くなった。
感想がひとつ、届いていた。
読んでいて、なぜか“本当にあった話”みたいで苦しかったですうまく言えないけど、彼女が「いた」って思えました
僕はその感想を何度も読み返した。 「いた」。 その二文字が、胸の奥で小さく灯った。
次々に感想が来る。
自分の大事な人を思い出して泣きました
タイトル回収が痛すぎる
彼女の言葉が、優しいのに残酷で、忘れられない
僕は返信を書きたい衝動を抑えた。 作者の言葉で余韻を壊したくなかった。 それに、僕は知っていた。 ここは僕の舞台じゃない。 彼女の舞台だ。
数日が過ぎ、ランキングの数字が伸びていく。 嬉しいはずなのに、僕の中には空洞が広がっていった。 文章に彼女を定着させるほど、現実の彼女の痕跡が薄れていく気がした。
ある夕方、真田から電話が来た。
「お前の作品、読んだ」
声がいつもより低かった。
「……どうだった?」
「泣いた」
真田がそんなことを言うのは珍しかった。 僕は笑ってごまかそうとしたが、喉が詰まって笑えなかった。
「……彼女のこと、思い出せるか?」
沈黙。
「正直、顔は思い出せない」
僕の胸がきしんだ。
「でも、分かった。たぶん……お前、嘘は書いてない」
「……うん」
「なあ」
真田が言いよどむ。 電話越しに、紙をめくる音がした。多分、彼は感想欄を見ている。
「この作品、誰かの命救うぞ」
僕は返せなかった。 救われるのは誰だ。 僕か。読者か。 それとも――彼女か。
その夜、また通知が来た。 DMのようなメッセージ機能ではない場所に、ひとつだけ、妙に個人的な感想が届いていた。 内容は短い。
彼女、私の夢に出てきました夢の中で「ありがとう」って言ってました変な話でごめんなさいでも、どうしても伝えたくて
僕は画面を見つめた。 視界が滲む。 指先が震えて、スマホを落としそうになった。
夢。 そんな、偶然だ。 作品を読んだら、夢に出ることもある。 よくある話だ。
……でも。
僕は思い出してしまった。 彼女が言っていたことを。
『ねえ。世界に定着できなくても、 誰かの心には、入れるかもしれない』
彼女は、「消える」代わりに、世界の隙間に入る。 記録に残れなくても、誰かの感情に触れる。 涙の温度に引っかかる。
僕はメッセージを握りしめるように読んだ。 「ありがとう」。 それは彼女がよく言った言葉だった。 謝る代わりに、愛情の代わりに、いつも「ありがとう」を置く人だった。
僕は立ち上がり、部屋の電気もつけずに窓を開けた。 冬の空気が入り込む。 遠くの車の音が、波のように響く。
「……君、見てる?」
暗闇に問いかける。 返事はない。 でも、沈黙が少しだけ柔らかい気がした。 まるで、そこに誰かが立っているみたいに。
僕は机に戻り、最後のページを開いた。 公開した作品の最後の一行。 読者はそこで泣いたと言っていた。 タイトル回収だと言っていた。
でも僕は、そこにもう一行だけ、書き足したくなった。
作品としては蛇足かもしれない。 けれど、これは物語じゃない。 彼女の「居場所」だ。 家だ。
僕は作者権限で、追記という形で一文を書いた。 短く。 祈りのように。
君は確かに生きていた。たとえ世界が忘れても、僕が書き続ける限り。
そして投稿後記に、こう書いた。
――読んでくれて、ありがとう。 あなたが泣いてくれたなら、彼女はこの世界にいたことになります。
書き終えた瞬間、 胸の奥で何かがほどけた。 空洞が、少しだけ満たされる。 彼女が僕から離れ、世界へ散っていくのを感じた。
寂しい。 でも、正しい。
彼女は「僕の中だけ」に閉じ込められることを望んでいなかった。 誰かの心に触れて、そこに残ることを望んでいた。
僕は、もう一度、窓の外を見た。 街の灯りが遠くで揺れている。 誰かが笑い、誰かが泣いている。 僕の書いた彼女の物語が、知らない部屋の知らない夜に届いている。
そしてその瞬間、僕ははっきり理解した。
彼女は、消えたのではない。 形を変えたのだ。 記録から、記憶から、現実から――物語へ。
最後に僕は、タイトルの意味を、もう一度噛みしめた。
君がいない世界で、僕は今日も君の物語を書いている。
読んで頂きありがとうございます!




