第2話 世界から消えた理由
書き始めると、思い出が戻ってくる――そう思っていた。
実際、戻ってくるものもあった。
でも同時に、戻ってはいけないものも、紙の裏から染み出してくるように滲んだ。
彼女は、最初から「消える」人だった。
僕が彼女に出会ったのは、文学フリマの帰り道だった。
駅の階段で、彼女はパンフレットを落とした。
僕が拾って渡すと、彼女は「ありがとう」と言って笑った。
その笑顔が、なぜか「初めて見た気がしなかった」。
後で分かったことだが、僕は彼女を二度見逃していた。
同じ駅の、同じ階段。
一度目は、僕がスマホを見ていて気づかなかった。
二度目は、彼女が僕を見ていたのに、僕の脳がそれを「見なかったこと」にした。
彼女は、ぽつりと言ったことがある。
『ねえ。人ってさ、見たいものしか見ないんだよ』
その時の僕は、ただの哲学みたいに受け取った。
今なら分かる。あれは予告だった。
彼女の病名は、医療用語のようなものではなかった。
担当医が言葉を探し、困ったように首を振る。
「医学的には、説明が難しい。……ただ、現象としては――」
医師はカルテを閉じ、僕と彼女を交互に見た。
「彼女の存在が、周囲の認識から抜け落ちていく」
彼女は点滴の針を刺した腕を見つめたまま、平然としていた。
僕だけが、理解を拒否した。
「……認識から?」
「記録にも影響が出ます。写真が残りにくい、記憶が揺らぐ、人が彼女の名前を覚えられない……」
「そんな、馬鹿な」
「私も、そう思いたいです。ただ、現に起きている」
彼女はその日、帰り道に僕に言った。
病院の自動ドアが閉まる直前、冬の空気が頬を刺す中で。
『ねえ、お願いがある』
僕は「なんでも」と言いかけて、飲み込んだ。
彼女は僕の「なんでも」を望んでいないと、直感したからだ。
『私が消えていくの、怖い?』
「……怖いよ」
正直に言った。
強がる余裕なんてなかった。
彼女は僕の手を取り、指先で僕の掌に文字を書くように、ゆっくり撫でた。
『怖いよね。私も怖い』
その言葉の後に、彼女は小さく笑った。
『でも、ひとつだけ、確かなことがある』
「なに?」
『あなたは、書く人だってこと』
僕はうまく返せなかった。
書けない時期が続いていた。才能がないと思っていた。
彼女の前でも、言い訳ばかりしていた。
彼女はまっすぐ言った。
『あなたが書く文章、私、好き』
その言い方がずるかった。
救いみたいに、刃みたいに胸に刺さった。
それから彼女は、少しずつ「薄く」なっていった。
最初は、店員が彼女の注文を聞き漏らす。
次に、友人が彼女の顔を覚えない。
次に、僕の母が「いつから一人暮らしに戻ったの?」と言う。
僕は怒鳴った。泣いた。説明した。
でも世界は、彼女を受け取る器を持っていなかった。
彼女は言った。
『ねえ。怒らないで。世界に』
「怒るよ……だって、君を奪うんだ」
『奪ってないよ』
「奪ってる」
彼女は首を振った。
『もともと、私は――ここに“定着”できない』
その言葉が、今も耳に残っている。
定着できない。
人として、生きていく基本条件が満たされないみたいに。
ある夜、僕は彼女の部屋の引き出しを開けた。
勝手に開けるのは嫌だった。でも、怖かった。
彼女のものが、全部消えてしまう気がしたから。
そこにはノートがあった。
表紙に、僕の名前だけが書いてある。
中身は、彼女の文字だった。
優しい丸みのある字。
僕が何度も「可愛い」と言って笑った字。
そして書かれていた。
私が消えたら、あなたは多分、私のことを疑う
自分を疑う
世界を疑う
だから先に言っておくね
これは、あなたのせいじゃない
私は、消える病気なんだ
でもね、最後にひとつだけ、わがままを言いたい
私のこと、物語にして
記録は消える
記憶も消える
でも物語は、誰かの心に残る
私のことを知らない誰かの心に
その人が泣いてくれたら
その人が「確かにいた」と感じてくれたら
私は、この世界にいたって言えるから
ページの隅に、日付があった。
彼女が病気を告げられた日だ。
僕はノートを抱きしめて、声を殺して泣いた。
泣いたら彼女が薄くなりそうで、泣くのが怖かった。
でも泣かずにいられなかった。
そして、決定的な日が来た。
朝、彼女が僕のシャツを着て、キッチンでお湯を沸かしていた。
髪を束ね、背中が小さく揺れる。
僕はその背中に「今日も生きている」を見た。
だけど、昼には、彼女は部屋にいなかった。
鍵は閉まっていた。窓も。
布団は温かくない。
コップの水だけが、飲みかけのまま置かれている。
僕は病院へ走った。
受付は同じ顔で、同じ声で言った。
「その方は、当院に来院履歴がありません」
僕は叫んだ。
「いる!」と。
「いた!」と。
「ここで点滴を受けて、僕の手を握って――」
でも、誰も僕の言葉を受け取れなかった。
世界が彼女を拒んだのではない。
世界が彼女を「認識できない」だけだった。
夜、僕は机に向かった。
彼女のノートを横に置き、パソコンを開いた。
第1話の続きを、震える手で書いた。
書けば書くほど、彼女の輪郭が鮮明になる。
でも同時に、僕の中から何かが削れていく。
彼女の存在を支えるために、僕の現実感が削られていくみたいに。
それでも書いた。
書くしかなかった。
深夜、ふと画面の右下に、見慣れない通知が出た。
メモアプリの同期が完了した、という表示。
僕は触れていないはずなのに。
開くと、短い文章が残っていた。
もう、思い出さなくていい
あなたはあなたの世界で生きて
その代わり
私のこと、書いて
僕は息を呑んだ。
これが最後のメッセージだと、分かった。
――「思い出さなくていい」。
それは優しさだった。
でも僕には、宣告に聞こえた。
君はもう、戻らない。
君はもう、現実にはいない。
だから、物語にしろ。
僕は画面に額をつけて、声にならない言葉をこぼした。
「……嫌だよ」
でも、次の瞬間、僕は打ち始めていた。
君が消えた理由を。
君の笑い方を。
君の弱さを。
君が僕に残した、最後のわがままを。
そして、文章の中でだけ、君は呼吸を取り戻す。
僕は書いた。
君は、世界から消えた。
でも、僕の中でだけは、消えさせない。
その一文を書いた瞬間、
僕ははじめて、君が本当に消えたことを理解した。




