第1話 君の名前を、誰も知らない
彼女の名前を、僕は何度も口の中で転がした。 舌先に触れるだけで胸の奥が温かくなる、短い音。
――なのに。
スマホの検索窓にその名前を入れても、候補は出てこなかった。 SNSも、過去の投稿も、タグも、誰かの「いいね」も、何一つ。
病院の受付で、僕は患者名を告げた。 番号札を握る手が汗で湿っている。
「……すみません、もう一度お名前を」
僕が繰り返すと、受付の人は困ったように眉を寄せた。背後のカルテ棚が、カチリと静かに鳴る。
「その方は、当院に来院履歴がありません」
嘘だ。 彼女はここで点滴を受けていた。白いカーテンの向こうで、僕の手を指先だけで握って、笑った。
『大丈夫。これ、痛いふりしてるだけだから』
そう言って、痛いふりが上手すぎて僕を泣かせた。
「……間違いないんです。去年の秋から、何回も」
「申し訳ありません。個人情報の関係で詳しいことは――」
その言葉は丁寧で、硬く、僕の世界をゆっくり切り離した。 僕は受付の前に立ち尽くし、ようやく深呼吸を思い出す。吐く息が白くもならないのに、喉だけが冷たかった。
帰り道、駅前のカフェで友人の真田と会った。編集志望の彼は、いつもと同じようにブラックコーヒーを飲み、いつもと同じように僕の顔を覗き込んだ。
「……で? 彼女の件、どうだった?」
僕は声を落とした。
「病院に記録がないって」
「……え?」
「存在しないって、言われた」
真田が冗談を言っていると思って笑うのを、僕はどこかで期待していた。 でも彼は笑わなかった。ストローの包み紙を指でくるくると弄び、真剣な目で僕を見た。
「お前……最近、寝れてる?」
「寝れてるよ」
「飯は」
「食べてる」
「じゃあ、なんでそんなことになるんだよ」
それは僕が一番知りたい。
コーヒーの苦味が舌に残る。彼女は甘いものが苦手だった。 砂糖を入れようとする僕を、いつも止めた。
『苦いまま飲むの、かっこつけてるみたいで嫌なんだよね』
そう言って、でも僕が苦い顔をすると笑って、こっそりミルクを多めに入れてくれた。
真田が言う。
「写真は? 残ってないのか」
「……あるはずなんだよ。スマホに」
僕は震える指でフォルダを開いた。 「旅行」「猫」「食べ物」と並ぶアルバム。 そこに、確かに「彼女」というフォルダがあった……はずだった。
ない。
指先が冷える。背中の汗だけが増える。 僕は何度もスクロールした。名前順でも日付順でも、どこにもない。 まるで最初からなかったみたいに。
「消えた……?」
「いや、消えるとかそういう……」
真田が言いよどむ。
「お前、少し休んだ方が――」
「休んだら……忘れるだろ」
僕の声が思ったより鋭く響いて、真田が瞬きをした。 僕は謝ろうとしたが、喉が塞がれて言葉にならない。
僕は確かに彼女と暮らした。 狭いワンルームの床に座って、コンビニのカップスープを分け合った。 夜中、咳が止まらない彼女の背中をさすりながら、自分の無力さに歯を食いしばった。 手をつないで、歩いて、笑って、未来の話をした。
それが、全部「僕の頭の中だけ」だなんて。
帰宅すると、部屋は静かだった。 彼女がいた頃は、静けさにも音があった。 冷蔵庫の小さな唸りに、彼女の鼻歌が重なっていた。 今はただ、空気が無音で沈んでいる。
机に向かう。 僕は小説家になりたかった。いや、なりかけていた。 新人賞に出して、一次にかすり、二次で落ちて、また書いて――その繰り返し。 彼女は毎回、原稿を読んでくれた。
『このセリフ、ちょっと嘘っぽい』
『ここはいい。ここ、泣ける』
『ねえ、最後に、ちゃんと救ってあげて』
それが僕の世界の中心だった。
パソコンを立ち上げる。 最後に開いたファイルが自動で表示された。 見覚えのないタイトルのテキスト。
――いや、違う。見覚えがある。 胸が痛むくらい、ある。
タイトルはこうだった。
「君がいない世界で、僕は君の物語を書いている」
マウスを握る手が震えた。 開くと、そこには僕の文体があった。僕の癖があった。 そして、僕が書いたはずのない一文が、冒頭に置かれていた。
もし私が消えても、あなたの中にだけは残りたい。だからお願い。私のことを、物語にして。
息が止まった。
その言い回し。 改行の癖。 「お願い」の置き方。
彼女だ。
僕はゆっくり椅子に座り、手を伸ばしてキーボードに触れた。 指先が、彼女に触れるみたいに怯えている。
画面の下には、未完の章が並んでいた。 彼女と僕の、ありふれた日々。 病室の窓から見えた夕焼け。 自販機の温かい缶ココア。 手のひらの温度。
そこまで書かれて、止まっていた。
その最終行に、カーソルが点滅している。 まるで「続きを書け」と言うみたいに。
僕は、画面に向かって小さく呟いた。
「……君は、どこにいるんだ」
返事はない。 でも、その静けさの中に、確かに「気配」があった。
そして僕は気づいた。 彼女の存在が、世界から薄れていく前に、彼女は最後の場所を選んだのだと。
――僕の文章の中。
僕は深く息を吸い、最初の一行を書き足した。
君がいない世界で、僕は君の物語を書き始めた。




