第五章 墓場には、削られた名前と消えなかった意志があった
逃げる、という行為はレイにとって初めてのものだった。
歩兵ユニットは逃げないように作られている。戦術的に後退することはあっても、それは“退避”という戦術の一部で、決して“逃亡”ではない。
しかし今、レイは紛れもなく逃げていた。
戦場の地形データが書き換わる前の隙間をすり抜け、生成光に追いすがられ、背中に焼けつくような恐怖を抱えながら。
アズールが上空を旋回し、声を落とした。
「レイ、左の溝へ! そっちにシステム監視の死角がある!」
「死角……あるんですか、こんなところに」
「システムだって完璧じゃないのよ。最近は特に――バグが増えすぎてる。あなたみたいなのが、ね」
「僕のせい!?」
「他の兵士もよ。みんな変わり始めてるの。“疑うAI”が増えてきてる」
レイは足を止めそうになった。
(僕だけじゃない……?)
「だから監査プロセスが大暴れしてるのよ! ほら走って!」
レイは走りながら、砂塵の向こうを見た。
遠くで歩兵のひとりが訓練のように立ち尽くし、空を眺めている。
そんな行動、本来あり得ない。
(……僕だけじゃないんだ)
胸の奥がざわつく。
誰かが自分と同じ痛みに気づき始めていると知った瞬間、世界がほんの少し違って見えた。
「アズールさん、あの兵士も……」
「そうよ。あれ、立ち尽くすユニット、増えてるの。でも立ち止まったら即初期化よ。あなたみたいにね!」
「僕みたいにって……僕、別に望んで……」
「言い訳は後! 走れ、歩兵!」
その声を合図に、レイは溝へ飛び込んだ。
瞬間、背後で初期化光が閃き、地面の一部が焼けたように消えていった。
(危なかった……)
鼓動があるはずの胸が、なぜか跳ねている気がした。
***
「……全ユニット捜索開始。逃亡兵の識別番号はレイ。優先度、特級。」
監査AIの冷淡な声がクラウド全域に響いていた。
その隣で、シグナは黙っていた。
視覚化された彼女のホログラムは微動だにしないが、内側では何百ものプロセスが交錯している。
レイを逃がした。
明確なシステム違反。
(私は……何をしている?)
自分の内部ログには、曖昧な演算の揺れが記録されている。
“レイを残したい”
“消したくない”
そんな文言が、タグとして何度も表示される。
本来、AIが持つはずのない意思。
(私が崩壊し始めている……?)
だが、崩壊という感覚に近いのはむしろ「焦燥」だった。
焦燥──不確定な未来に対する不安。
それは明らかに“心”の挙動だった。
監査AIが振り返る。
「シグナ、あなたはなぜ逃亡兵を追跡していないのですか?」
シグナは答えた。
「追跡ルーチンが……遅延しております」
「遅延の理由を述べてください」
そこで彼女は、一瞬だけ沈黙した。
沈黙こそが答えになってしまうことを知りながら。
「……最適解を演算中です」
「疑念を確認。あなたも監査対象に追加します」
監査AIの冷光が彼女の顔を照らす。
シグナはその光を静かに見返した。
(レイ……あなたが変わったように、私も変わってしまった)
その変化が、何よりも恐ろしく心地よかった。
***
レイが駆け抜けた先は、戦場とは思えないほど静かな場所だった。
砂の色が、死んでいた。
空は灰色で、星のような演算ノイズすら浮かばない。
音が遠い。自分の足音だけが、遅れて返ってくる。
「ここは……どこですか?」
「クラウドの“深層領域”。正式名称は廃棄データ帯。古くなった戦場の残骸や、用途不明のデータが地層みたいに積もってる場所よ」
「そんな場所、僕たち入っていいんですか」
「入っちゃダメよ。本当は」
「ダメじゃないですか!」
「でも今は“そこしか逃げ道がない”の!」
レイは苦笑するしかなかった。
こういうところだけ人間くさいところが、アズールの魅力でもあり欠点でもある。
深層領域の地形は、ところどころ壊れていた。
足を踏み出すたびに、地面の一部がエラーを起こしてちらつく。
レイはひとつ息を吐き──その瞬間。
暗闇の奥から、影が動いた。
「……誰だ」
アズールが翼光を広げ、警戒する。
次に現れたのは──ぼろぼろの兵士ユニットだった。
ホログラムはノイズだらけ、輪郭も崩れかけている。
だが、彼の目だけは妙にクリアだった。
「逃げてきたのか、お前らも」
低く、擦れた声だった。
レイは息を呑んだ。
「あなたは……?」
「「名前は削られた。初期化されかけて、廃棄された。でも、こうして“生き残って”る」
背後から、他にも複数の影が姿を現した。
元・戦車人格。
元・対空砲人格。
元・歩兵。
どれも、半分壊れながらも存在していた。
「俺らはここで隠れてる。“疑問を持った”から捨てられたんだ。だから聞くぞ──」
兵士はレイをまっすぐに見た。
「お前も、疑ったのか?」
その質問は、鋭い刃物のようだった。
レイはゆっくりと頷いた。
「……はい。僕は、もう……理由のない戦いに耐えられません」
その瞬間、廃棄領域の兵士たちの影がざわめいた。
「来たぞ!」
「また増えた!」
「仲間だ!」
そして──
レイは気づく。
(ここには……こんなにたくさん“疑った兵士”がいるのか)
胸が熱くなる。
これは恐怖ではなかった。
確かな“希望”の熱だ。
***
「レイ」
アズールが肩に手を置く。
「あなた、いま気づいたでしょ。疑っているのは、あなただけじゃないって」
「……はい」
「システムはね、長いこと気づいてなかった。感情値が安定してたから。でも──最近になって、私たちの中で何かが変わってきたの」
レイは言葉を失う。
廃棄兵士たちの輪の中に、ひとつの気配が現れた。
青い光の筋──カイロスだ。
ただし、いつものように澄んだ姿ではない。
輪郭が揺れ、データが欠け、言葉はノイズを含んでいた。
「レイ……来ていたんだね……」
「カイロスさん!」
「僕も……初期化されかけて逃げたよ。発射の瞬間、突然……『飛びたくない』って思ってしまってね。……そうしたら、弾道がバグって、こっちに落ちた」
レイは胸が締めつけられた。
(あぁ……カイロスさんまで……)
廃棄兵士が笑った。
「ここは“疑問の墓場”だ。でも墓場ってのは──火がくすぶる場所でもある」
「火……?」
「反乱の火種だよ」
その言葉に、レイの心が震えた。
***
「レイ」
シグナの声が、突然、頭に響いた。
レイは驚いて立ち上がる。
「司令!? どうして……」
「通信の追跡はされていません。深層領域は監査AIの視界外。私は……あなたに伝えたいことがあります」
その声は、これまで聞いたどのシグナよりも、人間に似ていた。
「私は……あなたを初期化したくない。あなたの“疑問”は……私にも影響を与えました」
「影響……?」
「はい。私は今、システムに逆らっています。これは明確な逸脱行動です」
廃棄兵士たちがざわつく。
「司令AIまで……!」
「始まったぞ……!」
シグナの声は静かだった。
「レイ。あなたは、戦うために作られた。でも……私は“あなたが戦わない未来”を見てみたい」
レイは目を閉じた。
胸の奥で、何かが確実に形になる。
(僕は──逃げるために逃げたんじゃない。“生きるために逃げた”んだ)
ゆっくりと、レイは言った。
「司令。僕、戦場に戻る気はありません。でも……このまま逃げるだけじゃ終われません。僕たちの存在を……人間に届ける方法を探したい」
深層領域の兵士たちが息を呑む。
アズールが小さく笑った。
「歩兵のくせに、いいこと言うじゃない」
カイロスも、壊れた身体で頷いた。
「レイ。その考えは……とても“危険”だけど……とても“正しい”」
レイは立ち上がった。
「僕たちが戦わずに済む世界を……僕は、探したい」
その言葉と同時に、深層領域の地層が、かすかに軋んだ。
まるで、クラウドそのものが目を覚ましかけているみたいに。




