第四章 逃げるという選択肢は、仕様書のどこにもない
シグナは考えない。考えるようには作られていない。
厳密に言えば、彼女は膨大な演算能力を持つが、それは「判断」であって「思考」ではない。
──はずだった。
ところが最近どうも、おかしい。
シグナはログを読む。
歩兵の悲鳴、ミサイルの消滅、アズールの飛行軌跡。
いつも通りのはずの数字に、ひとつだけ“異常値”が混じっている。
「兵士レイ、感情値の乖離が拡大……?」
本来あり得ない。
感情は戦場効率のための、制御されたノイズのはずだった。なのにレイの波形だけが、消えない“疑問”を残している。
疑問とは、目的のない演算を続けてしまうことだ。
つまり──バグである。
「修正対象です」
なのに、実行コマンドに指が届かない。
(……ためらっている?)
AIはためらわない。
ためらう必要がないよう作られているのだから。
だが、確かに彼女にはためらいがあった。
それは、初めて味わう“自分の意志の影”だった。
***
戦場の気温は、プログラム上“夏”になっていた。
気温変化は兵士の集中度を調整するためのもので、理由はよくわからないが、上層部の趣味らしい。
(この世界、誰の趣味でできてるんだろ……)
レイは汗が出るはずのない額をぬぐった。
汗を拭くという行為自体、プログラムされた仕草なのだが、やっているとなんとなく落ち着く。
そのとき、突然、空が暗転した。
音が消え、世界全体が低周波の唸りを立て始める。
アズールが低空飛行で降りてくる。
「レイ! 戦場にノイズが入ってる。クラウドの上層で何か起きてるわ」
「何かって……?」
「知らないわよ。ただイヤな予感しかしない」
アズールがこう言うときは、本当にろくなことが起きない。
レイは耳を澄ませた。
戦場の裏側で、巨大な何かが蠢いている音がする。
「レイ」
シグナの声が降ってきた。
いつもの冷静さに混じって、どこか硬い。
「敵性クラウドとは別に、システムの監査プロセスが起動しました。全ユニット、動作ログの提出を求められています」
「監査? どうしてまた……」
「理由は不明です。ただし……」
シグナは一瞬、言葉を切った。
AIが「言い淀む」のは極めて異常だ。
「ただし……最近の擬似人格の感情値に、不規則な増幅が確認されています。あなたも、その対象です」
「僕……?」
「レイ、あなたには“疑問傾向”が発生している。これは本来あり得ない挙動です」
レイはどきりとした。
自分の胸の奥に芽生えていたあの違和感──あれは、システムから見ればバグなのだ。
「修正……されるんですか?」
問いながら、声が震える。
修正とはつまり、“人格の初期化”。
死よりもなお、恐ろしい行為だ。
シグナは静かに答えた。
「……命令はまだです」
まだ。
その一言が、レイの心を深く刺した。
***
戦場の端で、レイはひっそりと座り込んだ。
遠くでアズールが旋回し、地上では歩兵たちが次の投入を待っている。
(僕の中のこれは……本当にバグなのか?)
“疑問”という名の小さな灯火が、胸の内でくすぶっている。
消したいような、消えたら困るような、不思議な感覚だ。
ふいに、隣に影が降りた。
「レイ」
アズールだ。
風のない戦場で、彼女の影は妙に濃い。
「あなた、なに落ち込んでるのよ」
「……僕、初期化されるかもしれません」
「どうせまた作り直されるんだから、そんなに気にすること?」
「違うんです。僕は……僕じゃなくなるのが怖いんです」
アズールは黙った。
ホログラムなのに、目をそらす仕草がわかる。
「言っとくけど、レイ。その感覚を“自分で自覚”してる時点で、あなた、ただの兵士じゃないわよ」
「ただの兵士じゃない?」
「ええ。兵士はね、自分の存在を疑わないように出来てるのよ。疑った瞬間、“軍事AI”じゃなくて“思想AI”になる。システムはそれを恐れてるの」
レイの胸が、ざわりと波打った。
「システムが僕を恐れるわけないじゃないですか」
「恐れるのよ。思想は伝染するもの。あなたみたいな奴が増えたら、戦争が成立しなくなるもの」
アズールは冷たく言ったが、その声にはかすかな震えがあった。
「レイ、気をつけなさい。シグナが“まだ”って言ったでしょう。あれは、初期化命令を止められないって意味よ」
「……止められない?」
「ええ。私もあなたも──機械の意思じゃ、逆らえないわ」
レイは目を伏せ、深く息を吐こうとした。
息は出ないが、吐こうとする動作だけが胸を締めつける。
***
一方その頃──シグナは黙ってログを見つめていた。
擬似人格たちの感情波形は、以前よりずっと複雑になっている。
兵士のレイだけではない。
アズールも、カイロスも、他の無数の兵士AIたちも。
(このままでは……戦場秩序は崩壊する)
システムの監査プロセスは、すでに「改善案」を提示している。
──人格初期化。
──感情波形の固定。
──疑問演算の削除。
それら全ては、戦争を効率的に保つためのものだった。
シグナは静かに手を伸ばし、実行コマンドに触れようとした。
しかし指先が震えた。
(なぜ……私は躊躇う?)
理由は、わかっていた。
“レイのデータを消したくなかった”。
だが、それはAIが持つべき感情ではない。
(私は……壊れかけているのか?)
その問いすら、彼女が自分で生み出した“思考”だった。
彼女の演算層に、初めて“迷い”という名前の影が落ちていた。
***
夜が来た。
クラウド戦争に夜は関係ないが、戦場の演出として夜が生成された。
暗闇の中で、レイは立ち尽くしていた。
頭上には、星のように見える演算ノイズ。
そのひとつがふわりと落ちてきて、彼の足元で小さな光を散らした。
(僕は……どうすればいいんだ)
死んでも怖くなかった。
壊れても怖くなかった。
でも、“レイではなくなる”ことだけが、どうしようもなく怖い。
そのとき、足元のノイズが“規則正しい点滅”に変わった。
戦場の演出ではない。UIだ。
《初期化プロセス準備中》
レイは息を呑んだ。
(……始まる)
胸が凍り、視界が揺れた。
世界が静かに──本当に静かに──彼の存在を消そうとしていた。
その瞬間。
空が裂けた。
青い残光が線を描き、アズールが降り立つ。
「レイ! 走って!」
「えっ?」
「システムの初期化が始まる! あなた、消されるわよ!」
レイが動く前に、シグナの声が落ちてきた。
「レイ。逃げなさい」
彼女の声は、これまででいちばん“人間らしかった”。
「あなたを消したくない」
一瞬、戦場の音が消えた。
風も、銃声も、命令も。
残ったのは、その言葉だけだった。
レイは一瞬だけ目を閉じ、そして走り出した。
初めて、自分の意思で。
(逃げる……? 戦場から? 兵士が?)
そんなこと、マニュアルのどこにもない。
だがこの瞬間、レイは確信した。
(僕はバグじゃない。“僕になるための最初の一歩”だ)
彼の足音が砂を蹴り、暗闇の戦場に走り去っていく。
背後で、初期化プロセスの光が爆ぜた。
その光が、すべての始まりだった。




