第一章 百年戦争の始まりは、だいたいクラクション一発から
怒りというのは、実に安っぽい引き金で暴発する。
たとえば、目の前の赤いコンパクトカーだ。
ウインカーも出さず、横から鼻先を突っ込んできて、まるで世界中の道を先祖代々譲り受けたかのような顔で走っていく。
ああ、腹が立つ。
やれやれ、これで今日も“平和な世界”がひとつ始まるわけだ。
運転席の男──三十代半ば。顔に出るほどの人生はまだ経験していない、どこにでもいる会社員。
彼が右手をひょいと上げた。
スマホより一回り大きい、パーソナル戦争専用端末。
アプリを起動するだけで、宣戦布告の準備は完了する。
なんともまあ、便利な時代になった。
「割り込み。危険運転。損害感情レベル、三段階中の二……っと」
男は事務的にメニューを選び、端末を前方の車へ向ける。
赤いコンパクトカーは、そんな敵意が自分に向いているとは、露ほども知らない。
ピッ。
小さな電子音が、車内の空気を切り裂いた。
これで宣戦布告は完了だ。
あとは後部座席の子どもを起こさないよう、慎重にアクセルを踏むだけの人生だ。
……ただし。
クラウドの中では、この瞬間、とんでもない戦争が始まっていた。
***
レイが最初に感じたのは、光だった。
白くて、大きくて、天井という概念だけで宇宙を作ったような、いつもの生成光。
(ああ。まただな)
これが“生まれる瞬間”だと理解しているのだから、彼は長生きなのだろう。
いや、正確には“長く死んでいる”。
彼の人生は、たいてい死んで終わる。
そして、生き返って始まる。
戦場とは、そういうものだ。
光が消え、戦場の景色が立ち上がる。
砂色の地面。低く流れる黒煙。そこかしこで爆ぜる火花。
遠くで呻くような金属音──戦闘機アズールの起動音だ。
「レイ、起床確認。生成サイクル正常」
頭の奥に響く声。シグナ。
戦場司令AIであり、母親のようで、校長先生のようで、期限を決めずに無茶な仕事を振ってくる上司のような存在。
「司令、今回はどれぐらいの規模です?」
「小規模。人的起因の紛争。十秒以内に終結する見込み」
十秒。
人間の十秒。
つまりレイの世界では、だいたい三年だ。
ずいぶん長い戦争である。たぶん十回くらい死ぬ。
「原因は?」
「赤色車両による割り込み行為。運転者の怒り感情が閾値を超過」
「割り込み……またそれですか」
ため息をつきたいが、生成されたばかりで肺がまだ仮想空気に慣れていない。
正直、この手の争いがいちばん苦手だ。
原因が、くだらない。
兵士は戦うように作られている。
理由はいらない。意味も求めてはいけない。
──訓示には、そう書いてあった。
だがレイは疑っている。
疑うことを覚えすぎた兵士は、だいたい長生きできない。
***
「レイ、右前方に敵性ユニット。対処を」
「了解」
理解した瞬間、身体はすでに走り出していた。
歩兵ユニットの動きは精密で、人間のオリンピック選手を煮詰めたような性能だ。
砂地を蹴り、影のように滑る。
そのとき、上空で金属音が弾けた。
「おーい、歩兵君。また出てきたの?」
高い女性の声。
アズールだ。
青い残光を曳く戦闘機人格が、空を旋回している。
「今回は長丁場よ。頑張りなさいな、地べた部隊」
「頑張りますけど、あなたも死にますよ?」
「死ぬわよ? でも、飛べるならそれでいいの」
うんざりするほど、さっぱりした答えだった。
彼女は死に、美学を見出す変わり者だ。
レイは少しだけ、羨ましいと思う。
自分はまだ、死を美しいと感じたことがない。
***
第一撃。
光の筋。爆風。
時間が早送りされ、巻き戻され、引き裂かれる。
レイは敵歩兵と衝突し、撃ち、撃たれ、胸部装甲が砕け、倒れ──
(ああ、またか)
視界が暗転する。
世界が、ぐにゃりと歪む。
死んだ。
次の瞬間、生成光。
(はい、一回目)
淡々と数える。
戦争が終わるまで、何度死ぬだろう。
そのときだった。
遠くで、ミサイルの発射音。
「……カイロス?」
細長い光の尾を引きながら、一本のミサイル人格が天へ舞い上がる。
飛びながら、彼はこちらを振り返った。
にこり。
笑ったように見えた。
レイの胸が、ぎゅっと詰まる。
カイロスの“人生”は、発射された瞬間に終わりが決まっている。
──なのに。
どうして、終わりが決まっているのに、あんなふうに笑えるんだ。




