A:万能ツール
狗藤は目覚めたとき、死ぬほど驚いた。すぐ手の届くところに、何と全裸の美女が座っていたからだ。朝陽の逆光の中で、思わず二度見をしてしまった。何度も目をこすったが、彼女は消えなかった。
「何なんだ、この状況は……」
結跏趺坐を組んだ美女の肢体は、艶やかで圧倒的な美を誇っていた。細長い白布が宙を漂いながら、豊かなバストの先端や美しい脚の合わせ目といった、微妙な部分を絶妙なゆらめきによって隠していた。
まばゆい陽射しに手をかざし、狗藤は必死に目を凝らす。間違いなく、例の美女だった。二人がいるのは屋内ではなく、こじんまりとした建物の軒先だった。
狗藤の視線に気づいて、美女は立ちあがった。その時には真っ赤なミニドレスに身を包んでいたし、周囲にゆらめいていた白布は消えていた。
「夕べは悪かったな」と、美女が口を開いた。「財布を粗末に扱われると、ついブチギレしてまうんや。ほら、私っておカネの神様やからな」
「はぁ、おカネの神様って?」
「弁財天や。七福神の紅一点」美女はにっこり笑った。
弁財天。いわゆる、弁天様である。彼女がインド美女に見えたことも納得である。弁財天は元々、インドの神様だからだ。弁財天は音楽や芸能の神様であるため、歌手やミュージシャン、俳優、タレントたちが信仰している。財の一字をもつことからわかるように、蓄財や現世利益に関わる神様でもある。
ちなみに、二人がいる建物は、上野公園の「弁天堂」だった。不忍池に浮かんだ小さな島に、弁天堂は建っている。正確には、その拝殿の軒先だ。
蛇足になるが、「日本の三弁天」と呼ばれているのは、琵琶湖の竹生島、江の島、厳島の三つ。弁天様と島には、昔から深い関わりがある。
「弁財天さん?」
「ああ、そうや」彼女は一旦頷いた後、首を横に振った。「いや、誤解すんなよ。弁財天は私一人きりってわけやない。人間界のアイドルグループをイメージしてくれるか。正式メンバーもいれば、見習い中の研修生もいるやろ。それと同じで、日本各地に50人ほどが登録されているんや」
アイドル? 弁財天グループのメンバーに研修生? おまけに登録制だって? 狗藤には、とても理解が追いつかない。
「私の名前は、『佳音』と書いてカノン。〈佳い音〉ちゅうワケや。よろしゅう頼むわ」
狗藤はぼんやりと考えた。カノンの言っていることが真実で、本当に神様だとすると、彼女の周りを漂っている白布は羽衣ということだろうか。
「本当に神様? マジで?」
「ああ、マジや、大マジやで。何や、信じられへんってか?」
カノンは器用に、右の眉だけ吊り上げた。
「このドアホっ。おいおい、弁財天をなめとんのか? 幸うすい人間のくせに、甲斐性なしのくせに、やる気なし負け犬どっぷりのくせに、生意気ぬかすんかい。その上、財布に八つ当たりして、地面に叩き付けるたぁ、七福神の風上にもおけへんなっ! この薄らボケ、二度とするんやないぞ! ああぁん!」
理不尽にも巻き舌でまくしたてられたが、あまり腹は立たない。彼女の怒った顔もなかなかチャーミングである。それにしても、この神様、ヤンキーなのか?
「はぁ、すいませんでした」狗藤は素直に頭を下げた。
「ああん? 聞こえへんな」
「すいませんでした」
「声が小さいわい!」
「すいませんでしたっ」
カノンは腕組みをして、鼻から息を吐き出した。
「女やからって甘く見るんとちゃうで。こちとら、れっきとした神様や。てめぇみたいなヤツは、ほんまなら鼻もひっかけてもらえへん立場やで。それを特別に話しかけてやっているっちゅうのに、ありがたく思わんかい」
典型的な上からキャラである。狗藤が最も苦手なタイプだ。天敵と言ってもいい。
「あっ、思い出した。さっきから背中が痛いと思っていたけど、カノンさんに昨晩、思い切り蹴とばされたんだった。おかげで、身体がガタガタですよ」
狗藤は恨みがましく言ってみたが、カノンは表情一つ変えない。良心の呵責などは微塵も感じていないらしい。
「男の癖に何をウダウダ言うとんねん。過ぎたことをチマチマほじくり返すな。ほんま、小っちゃい男やな。まぁええわ。一応、やりすぎだったことは認めてやろう。ほら、見てみぃ。おまえのその左手は、夕べ、私が蹴り飛ばした罪滅ぼしや」
狗藤は左手を見て、呆然とした。何なんだ、これは? 信じられないことに、左手首から先が、〈巨大な鍵〉になっている。
長さは30センチほどだろうか。古い洋館の重々しいドアの鍵穴とぴったり合いそうな、レトロなデザインの〈鍵〉である。長年使い込まれた真鍮のような鈍い光沢を放っていた。
「そいつは、【弁天鍵】といって、自分以外の【未来金庫】から好きなだけカネを奪い取れるっちゅう優れものや。〈強奪キー〉なんて言うやつもおるが、由緒正しき弁財天のアイテムやからな。しばらくは特別に貸したるから、心の底から感謝せぇよ」
しかし、狗藤は心底、迷惑そうな顔つきである。
「あの、蹴られたことは気にしていませんから、この左手を元に戻してくれませんか」
予想外の申し出だったらしい。カノンは呆れたような口調で、
「おいおい、欲のない奴やな。そないなことを言われたのは初めてやで。【弁天鍵】の使い方一つで、世界一の大金持ちになれるっちゅうのに」
「えっ、どういうことですか?」
「そいつは【未来金庫】と同じでな、そこにあるように見えるが、実体は【DOG(神の次元)】にあるんや。こっちの世界に、ちょいと呼び出しただけや。もし、おまえが消したいんやったら、【弁天鍵】に意識を集中してみぃ。ただ、『消えろ』って念じるだけで済むこっちゃ」
狗藤が言われた通りにしてみると、まるほど、【弁天鍵】の輪郭は次第に薄くなり、十秒もたたずに消え失せてしまった。見慣れた自分の左手が現れたので、狗藤は安堵の溜め息を吐く。
「飲み込みの悪いおまえに付き合うて、いろいろ話してきたわけやが、おまえには今後、死ぬほど働いてもらうからな。覚悟を決めて、ついてきぃや」
「あの、すいません、話が見えないんですが」
「たった今からおまえは、下僕。つまり、私の犬っちゅうわけや」
「ええと、カノンさん。僕のことを、犬とかおっしゃいました?」
「ああ、言うたで。おまえは、私の犬や」
「それはちょっと勘弁してください。実は今、バイトが忙しくって」
「そうかそうか、忙しいんか。なら、こう言い直そう」
カノンは満面の笑顔になる。次の瞬間、右脚がうなりをあげて、狗藤の左側頭部をとらえた。切れ味の鋭い見事なハイキックである。
「うだうだ言わずに、黙ってキリキリと、死にものぐるいで、私のために働けっ!」
狗藤は再度のされてしまった。何とも、荒っぽい弁天様である。
「おおっと、もうこんな時間か。えらく無駄な時間を過ごしてそもうたで。こう見えても、私はメチャクチャ忙しいんや」
そう言って軽く膝を曲げると、助走もつけずに軽々とジャンプした。
「詳しい話は、また今度な」
カノンは重力を無視した跳躍力を見せた。不忍池を埋め尽くしたハスの葉の上を、トランポリンで弾むように飛び跳ねながら去っていく。
狗藤は呆然と、遠ざかっていく美女を見送った。SFXを駆使した特撮ドラマのような、まるで現実味のない情景である。もし、二日酔いの幻覚ならいいのだが、そうではないことを狗藤は知っている。カノンに蹴られた左側頭部の痛みが、その証拠だった。
まぁ、どうでもいいや。大きな溜め息を吐くと、狗藤は考えることを放棄した。理解不能の出来事があまりにも連続して、頭の許容範囲をとっくに超えていたからである。




