A:居酒屋の攻防Ⅲ
狗藤がテーブルに戻ると、教授は仏頂面で迎えた。これまでつけてきた仮面は脱ぎ捨てている。もはや、面倒見の良いキャラクターを演じるつもりはないらしい。
教授は冷たい声音で告げた。
「僕は時間の浪費が何よりも大嫌いでね。さぁ、さっさと済ませてしまおうじゃないか」
「はい、あの、すいません。少しだけ、お時間をもらっていいですか?」
「この期に及んで何だね?」教授は苛立たし気に、指先でテーブルを叩き始める。
「教授は現金のつかみ取りの経験がありますか? 僕はあります。子供の頃のお年玉は、決まってそれでした。一円玉がびっしりのコーヒーの大瓶に、手を突っ込むんです。子供の手ですから、百円分もつかめません。でも、僕にはそれが楽しくて仕方なかったです」
「ふん、貧乏人には貧乏人なりの知恵や楽しさがあった、ということかい? 百枚の一円玉と一枚の百円玉。子供は迷わず、百枚の方を好むだろうね。数のトリックによって、まんまと騙されるわけだ」
「そういう見方をされますか」
「気が済んだのなら、話を戻そうじゃないか。さぁ、【弁天鍵】を出して、僕の指示通りにやってくれ」
狗藤は素直に「ビル」と呟いて、【浮遊端末】を呼び出した。教授のA4用紙を見ながら、【請求書】の書き込みを始める。
まず、請求先として、十二人それぞれの氏名を書く。次いで、請求金額。一律、10億円である。ゼロの数を間違えないように、狗藤は繰り返し確認した。
10億という金額には、まったくリアリティが感じられない。これは、ただの数値だ。自分とは無縁だと思っているので、記入する際に手が震えるなんてことはなかった。
狗藤は落ち着いていた。【請求書】を完成させると、あっさりトリガーを引いた。「ガッコン」という音。確かな手応え。今、狗藤の【未来金庫】の中では、[10億×12]の120億円ものカネがうなっているはずだ。
「他人への振込み方は、弁財天の彼女から聞いているだろうね?」
「はい、大丈夫です。ゼロの数を絶対に間違えないようにしないと」
一、十、百、千、万……と数えながら、【浮遊端末】に、八つのゼロを打ち込んでいく。他人の資産から金を奪う場合とは違って、これは送金なので、頭にマイナスをつけることも忘れない。
あとは、送金先を書き込めばいい。教授は「早く書け」と、眼で訴えかけている。金額の上に送金先「比企田正樹」と記入すれば、それで作業は終わりだ。
狗藤は、一世一代の大勝負に出た。
「みんな元気で明るい未来」
ついさっき、掲示板のポスターで見たキャッチコピーを、口の中で呟いてみる。ゆっくりと送金先を書き込んで、トリガーを引く。「ガッコン」という音が、妙に空々しく聞こえた。
身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。そんな諺が脳裏に浮かぶ。振込み完了の手応え。この時、狗藤は見事にやり遂げた。自分の頭で考えたことを自分の責任で成し遂げたのだ。
自分の【弁天鍵】を介して120億円という莫大なカネの送られた先は……。
教授は満足げに頷くと、自分の【弁天鍵】を出現させた。【浮遊端末】で【未来金庫】の残高を確認する。だが、そこに入金通知がないことを知るや、顔色を変えた。
「おい、どこにやった。僕の120億をどこに送った」
「……」
「どこにやった、と訊いているんだっ」
狗藤は教授を真っ直ぐに見つめて、
「〈みんな元気で明るい未来〉です。よく考えたんですけど、やっぱり、【弁天鍵】は私利私欲に使っちゃダメです。同じ使うなら、皆のために使わないと」
狗藤が書きこんだ送金の相手は、〈国民〉だった。
1億2380万人の日本国民に、100円ずつ送金したのだ。それこそ、生まれたての赤ん坊から、思春期まっさかりの中高生、働き盛りのサラリーマンやOL、家庭の主婦、寝たきり老人にいたるまで。
皆、100円ずつ。平等に、100円ずつ。紙幣ならまだしも、財布の中の百円玉が一枚増えていても、気がつく者はいない。
赤ん坊の握った手から百円玉を見つけた母親が、口に入れる前に気づいてよかった、と安堵することはあっても、その百円玉が【弁天鍵】によって送られてきたものと知る人間は皆無だろう。
知っているのは、狗藤と教授の二人しかいない。
「何てことをしてくれたんだ」教授は喉の奥から絞り出すように、言葉を吐き出した。「1億2000万人に分散しただとぉ?」
「いえ、1億2380万人です。もしかしたら、380万人には行き渡らなかったかもしれません。それとも、ええっと、3億8000万円の赤字だったのか」
「バカ野郎っ。そんなもの、どうやって回収すればいいんだ。なぜ、こんなことをしたぁ」
「ついさっき、比企田教授の口から直接聞いたからですよ。〈カネはできるだけ分散して、極限までリスクを散らす〉とか何とか」
「……き、君というやつは」
教授にとっては、予想もしなかった事態だ。無能な学生に足元をすくわれるとは思わなかった。まさか、こんなことが起こるとは、まるで想定外だったのだ。
そんな彼に止めを刺すかのように、狗藤は言った。
「たったの100円ですけど、皆、大事に使ってくれるといいですね」
狗藤は笑っていた。どこか誇らしげな微笑みだった。




