A:謎の女
一時間後、警官たちの追及はまったくの徒労に終わった。追及から解放された狗藤も、くたくたに疲れ切っていた。安堵の溜め息を吐こうとすると、いきなり背後から突き飛ばされた。カノンの仕業であることは、言うまでもない。
「このドアホ。散々待たせやがって、時間がかかりすぎなんや」
そう言って、カノンは狗藤を薄暗い路地へと引っ張り込んだ。
「黒之原の意識を奪ったのは、間違いなく〈謎の女〉やろな。たぶん、私を黒之原に接触させるかと思って、すばやく手を打ったんや」
「えっ、どういうこと? カノンさん、その〈謎の女〉に心当たりがあるの? ひょっとして、彼女が〈クロガネ遣い〉? え、そうじゃない? 〈クロガネ遣い〉は男なの? じゃあ、一体だれ?」
問いかけは、すべてスルーされた。もはや、「自分で考えろ」とも言われない。
「何だ、教えてくれないの? じゃあ、こういう質問はどう。カノンさん、黒之原さんに会って確認したいとか言っていたよね。あれって、何を訊きたかったの? それぐらいなら、教えてくれてもいいでしょう」
しぶしぶ答えてやるといった態度で、カノンは口を開いた。
「もちろん、〈クロガネ遣い〉についてや。黒之原が〈クロガネ遣い〉やないのはわかっとる。そやけど、どこかでクロガネと繋がっとったんちゃうかと思うんや。何せ、黒之原はグレーやからな」
「うーん、わかったような、わからないような。カノンさんは〈クロガネ遣い〉をさがしているんだよね。クロガネを遣うから、〈クロガネ遣い〉? そもそも、クロガネって何なんですか?」
とたんに、カノンは目の色を変えた。
「『わからない』って偉そうに言うなっ。自分で言うてて恥ずかしゅうないんか? おまえ、自分の無知を自慢したいんか? とことん突き詰めて、自分で考えてみぃや。てめぇの肌で感じとれや。問題意識や危機感のない奴は、ウダウダ文句を並べたてるくせに、てめぇじゃこれっぽっちも考えへん。結局、ギャーギャー文句をたれ流しとるだけなんや」
「はい、すいません。恥ずかしいことでした。ごめんなさい」
狗藤が素直に頭を下げると、カノンはブツブツ言いながらも、一応、納得したようだ。
「おまえには前に教えたはずやぞ。クロガネとは、〈どす黒いカネ〉。英語にすれば、〈ブラックマネー〉や」
「ああ、〈ブラックマネー〉なら、聞き覚えがあります」
「〈クロガネ遣い〉いうんは、〈ブラックマネーを支配している人物〉のことや。〈クロガネ遣い〉をつかまえて、〈暗黒潮流〉を断ち切らないと、この国は遠からず、崩壊するちゅうこっちゃ」
この国を窮地に追い込むほどの悪人。それが真実なら、〈クロガネ遣い〉が黒之原でないことは自明の理である。
「〈クロガネ遣い〉のあやつっとる流れは、どうやら予想以上のスケールと、ケタ外れの太さがあるみたいなんや。裏社会の経済活動を人間の身体に例えてみると、クロガネは血液みたいなもんやな。その血液を全身に送りだす心臓の役割を果たしとるんが、〈クロガネ遣い〉ちゅうわけや」
「はぁ、なるほど」
「まず間違いなく、この国の裏社会と密接につながっとる。もっとも、あちこちで表の方とつながっとって、互いに入り組んどるから、クリーンなカネとクロガネを選り分けることは不可能やけどな」
「へぇ、神様のカノンさんでも、不可能なんだ」
間抜け面で言ってのける狗藤に、カノンは舌打ちをする。
「カネに汚い黒之原がクロガネに関わっとることは充分ありうる話や。もしかすると、どこかで、〈クロガネ遣い〉と接点があったかもしれん。そやから私は、黒之原に当たることで、とっかかりをつかもうとしたんや。その矢先、〈謎の女〉に先手を打たれてしもた。けど、これで確信がもてたで。〈謎の女〉の思惑がわかった。彼女が、なぜそんなことをしたか、おまえにもわかるやろ」
「えっ、なぜって、なぜだろう」
「ほんまのドアホやな。ここまで聞いたら、決まっとるやないか。黒之原の存在が、〈クロガネ遣い〉にとって、何かまずい事情があったからや。つまり、黒之原を意識不明にした動機は、口封じや」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「〈謎の女〉と〈クロガネ遣い〉は繋がっとる。これはまず、間違いないやろう」
「ねぇ、黒之原さんがあんな風なのは、ひょっとして、その〈クロガネ遣い〉の影響なのかな?」
「あぁ? 何やと?」
カノンは片眉を上げて、狗藤を睨みつける。
「カノンさん、顔が怖いよ。僕が言いたいのは、黒之原さんが〈クロガネ遣い〉のせいで、ますますカネに汚くなったという可能性だよ」
「……」
「だから、睨まないでって。黒之原さんの生まれや育ち、性格によるものもあるけど、〈クロガネ遣い〉の悪影響も大きかったんじゃないか。チラッとそう思っただけだよ」
カノンは腕組みをして、溜め息を吐く。
「なるほど」そう呟くと、いきなり狗藤の腹に正拳突きをくらわした。
「ぐえっ」
激痛に呻く狗藤を見下ろしながら、カノンはニヤリと笑う。
「自分の頭で考えたんか。おまえにしては上出来やな」
乱暴なやり方ではあったが、一応、ほめているらしい。
「ただ、今、考えなあかんのは別のことや。〈クロガネ遣い〉は人間のくせに、生意気にも完全に気配を消しとった。たぶん、弁財天の目をくらませる、何かうまい手を使っとるはずなんや」
「〈クロガネ遣い〉って、僕と同じ人間なんだよね。カノンさんの目をごまかすことなんかできるの?」
そう言った狗藤の腹に、再びカノンの正拳突きが炸裂した。
「できとるから、こないにムカついとるんや」
狗藤は激痛にのたうちながら、八つ当たりを受けたことを認識する。
「ここで登場するのが、〈謎の女〉や。〈クロガネ遣い〉は間違いなく、彼女のサポートを受けとる。そうやければ、私の目をかいくぐることなんて、できるはずあらへん」
「ということは、〈謎の女〉って、人間じゃないんだね。〈クロガネ遣い〉事件の黒幕か。それって、誰なの? カノンさん、さっきから見当がついているような口振りだね。キチンと説明してよ」
「ドアホ、甘ったれんな。それぐらい自分で考えんかいっ」
安易に解答を求める狗藤を、カノンは一喝した。
「空っぽの頭でも必死にフル回転させれば、必ず真実に辿りつけるはずや。下僕の分際で、主人の足を引っ張っているんやないで。いいかげんにしてくれや。そうや、おまえに命令しといたろ。今度会う時までに、〈クロガネ遣い〉をさがし出すアイデアを考えとけや」
そう言い捨てると、さっさと裏路地から出ていき、雑踏にまぎれこんでしまった。
「〈クロガネ遣い〉をさがし出すアイデアだって? そんなの、無理だよ。神様でもわからないことが、人間にわかるはずがないじゃないか」
厄介事を押しつけられた狗藤は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。




