B:第二ラウンド
〈クロガネ遣い〉は荒れた。彼にとって、初めての挫折だった。
馴染みの女の部屋に転がりこみ、飲めない酒をあおっては悪態をつきまくった。愛想を尽かされたら、次の女の部屋に転がり込んだ。そこも追い出されて、行き場所がなくなると、路上でも平気に眠れるようになった。
ある朝、〈クロガネ遣い〉は公園のトイレで、十数年ぶりに父親と再会した。ありえないことだった。死んだはずの父親が目の前にいたのだ。死ぬほど驚愕した。
だが、よく見ると、それは洗面所の鏡に映し出された自分自身だった。今の〈クロガネ遣い〉の風貌は、定職につかず毎日飲んだくれていた父親と瓜二つだったのだ。
父の身体からは酒と小便の混ざったような臭いがしたが、今の〈クロガネ遣い〉も同じだった。父と同じように、他人の悪口や不平不満ばかり口にした。理由もなく周囲に当たり散らし、強くもないくせに喧嘩をふっかけて殴りあった。
誰が見ても、最低の人間だった。あとは、父と同じように深夜の大通りで熟睡して、大型トラックに轢き殺されたら、完璧だろう。
そんなことを思いながら、〈クロガネ遣い〉はトイレを出た。フラフラと歩き出したところで、
「あら、君、いい顔になったじゃない」と、声をかけられた。
明るく弾んだ声に顔を上げると、穏やかな陽射しの中に天使がいた。
「……ベティさん」
「心配していたのよ。どこかで野垂れ死にしたんじゃないかってね」
ベティはとろけそうな笑顔を浮かべていた。背後から光が当たっているために、ワンピースを透かして身体のラインが浮き上がっている。たまらなくエロティックだった。〈クロガネ遣い〉は身体の芯に熱を感じ、思わず目をそらした。
「周囲の人に八つ当たりをしたり、自分を憐れんだりするのは、おやめなさい。酒におぼれたり自暴自棄になったりする暇があるのなら、次に始めるビジネスのことを考えるのよ」
ひどく真っ当なことを言われた。
「幸い、君には若さがある。身ひとつあれば可能性は無限にあるし、やる気さえあれば何だってできる。すべては、君の考えひとつよ」
ベティは童女のように、無邪気な笑みを浮かべていた。
〈クロガネ遣い〉は反射的に、破壊衝動を覚えた。この女をぶっ壊してやりたい。叩きのめして、自分のものにしたい。しかし、ベティには、触れることさえ躊躇ってしまうような雰囲気があった。そのせいで、〈クロガネ遣い〉の口から出たのは、別の言葉だった。
「……ぶっ壊してやりたい、すべてを奪った連中を」
内臓から絞り出すような暗い声だった。
「あら、面白いことを考えるのね」
ベティは艶然と微笑んだ。これまで見せたことのない笑い方だった。〈クロガネ遣い〉は目には、ベティの本性が仮面の裏から染みだしているように見えた。
「この国のアングラマネーがいくらあるか、君に想像がつくかしら? 推定総額で、約25兆円もあるのよ。表の経済が慢性的な不景気で四苦八苦しているというのに、もうびっくりでしょ。暴力団、企業舎弟の非合法的な所得は、その十分の一程度かしらね。これを聞いて、君、どう思う?」
〈クロガネ遣い〉は肩をすくめた。
「自分のことを棚に上げて言うけど、それは不正な方法で手に入れたカネでしょう。表の世界とは切り離された、ブラックマネーだ」
「そう、それが一般的な解釈ね。でも、ブラックマネーは、ずっと金庫の中に溜めこまれているわけじゃない。表の世界にいる私たちと、決して無関係というわけじゃないのよ」
「……無関係じゃない?」
「なぜなら、そのうちのいくらかは、表の世界に回ってくるから。それも、堂々とした太い流れで。例えば、真っ当な株式投資という形をとることもある。その流れは最近、増加傾向にあるの」
「市場が暴落して損失を出すかもしれないのに? 株式投資の難しさぐらい、素人の僕でもわかりますよ」
「もちろん、運用するのはプロフェッショナルの人間よ。企業舎弟の雇われファンドマネージャー。はっきり言って、一般投資家のようなフェアなやり方じゃない。君、一般常識として、仕手戦とかインサイダー取引とかいう言葉は知っているわよね」
〈クロガネ遣い〉は頷いた。
「もし損失を出して元手を減らせば、正真正銘の命取りになる。雇われファンドマネージャーはそれこそ死にものぐるいで、強引に利益を出そうとするの。万が一、当局にバレたら、後ろに手が回りかねないやり方でね」
ベティは楽しそうに続ける。
「私の馴染みの親分さんはね、大手都市銀行に500億円以上の預金を持っている。口座が普通預金というところがミソね。いつだって好きな時に、預金を引き上げることができる。何せ、500億だからね。大手都銀じゃなくても、親分の機嫌を損ねまいとするでしょうね」
つまり、大手金融機関と裏社会の癒着、ということだ。
「これまた、馴染みの警察官僚が苦い顔でこぼしていたんだけど、もし、全国の広域暴力団を根絶しにしまったら、真っ当な大手企業が軒並み大打撃を受けて、その結果、ドミノ倒しがおこり、日本経済が破綻しかねないんですってよ」
「……」
「だから、当局の暴力団キャンペーンは、常に寸止めなの。うっかり壊滅させてしまったら、青息吐息の日本経済に止めを刺してしまう。バカげた話だけど、こんな矛盾の上に、この国の経済は成り立っている。ほんと、笑えるわよね」
だが、〈クロガネ遣い〉には笑えない。
「僕がヤクザへの復讐に走ったら、ただ自滅するだけだ。ベティさんは、そう言いたいんですか?」
「誤解しないで。私はちょっと毒をまぶした一般論を述べただけ。表でも裏でも、不正な取引は堂々と行われている。経済はブラックマネーと切り離せない。そして、そのしわ寄せをくらうのは、いつも君のような一般人という図式よ。どう、腹が立ってこない?」
「……」
「よく覚えておきなさい。経済はめぐるもの。表も裏もなく、世界を循環するものなのよ。あなたが復讐すべきなのは、そのカネの流れ。ゆるぎなく巨大な流れを牛耳ることによってしか、君の怒りと無念を晴らすことはできないのよ」
〈クロガネ遣い〉の目の前に突如、強烈な光が現れた。ベティの全身が光り始めたのだ。それはあたたかく、優しさを感じさせる光だった。
「ベティさん、あなたは一体、何者ですか?」
にっこり微笑む彼女の周囲には、いつのまにか、光る帯がゆらゆらと宙を漂っている。まるで、天女の羽衣のようにゆらめいていた。まさか、本当に神様だとでもいうのか。
「私はね、君に、期待しているのよ」
ベティは優雅な手つきで、〈クロガネ遣い〉の左手を指差した。
〈クロガネ遣い〉は思わず、息を飲んだ。信じられないことが起こっていた。彼の左手が「巨大な洋館の鍵」になっていたのだ。歴史を感じさせる真鍮製。その表面には、いくつもの宝石がちりばめられ、高貴な優れものであることが見てとれた。
ベティは太陽のように微笑んだ。
「その【弁天鍵】をうまく使えば、君は近い将来、この世界の大きな流れを支配することができるかもしれない」
こうして、〈クロガネ遣い〉の人生は、第二ラウンドに入った。この国の陰の部分、いわゆる裏社会のカネの流れを支配する。そんな無謀とも思える挑戦を開始したのである。




