A:日本一のサイテー野郎
ゼミ研究室窃盗事件は一件落着をみたが、飲み会の会費窃盗事件に関しては何ら進展がなかった。
狗藤は依然として、黒之原が怪しいと睨んでいる。心証が真っ黒である上に、容疑者らしき人物は他に一人も浮かんでいないのだ。黒之原以外には絶対にありえない、と確信していた。
ところが、比企田ゼミで最も信頼している鳩山先輩が、信じられないことを言い出した。
「いや、黒之原は絶対に犯人じゃないよ」と、彼の無罪を主張したのだ。
ゼミ研究室で先輩と二人きりだった狗藤は、当然のごとく問いただした。
「どうしてですか? 誰が見ても、黒之原先輩以外にありえないでしょう」
「確かに、これまでの彼の行動から考えて、誰もが『黒之原=犯人』だと思うだろうね。でも、それはありえないんだ」
「先輩、何か根拠があるんですか?」
「もちろん、あるよ」鳩山先輩は力強く頷いた。「ほら、黒之原には、募金箱からおカネを抜いた前科があるよね。だから、彼が飲み会に遅れてやってきた時、僕はさりげなくマークしていたんだ」
「マークしていた?」
「ああ、平たく言うと、ずっと見張っていたんだよ。だから、断言できる。黒之原は集金箱には指一本ふれてない」先輩は自信たっぷりに眼鏡をクイッと押し上げる。
「マジですか?」
「ああ、マジだ。大マジだよ。そもそも、上着をかぶせただけで、集金箱を放置するなんて、僕には信じられない。その点は狗藤くんの不注意だったね。」
先輩は非難がましく目を細める。
「すいません。その件に関しては深く反省しています。あらためて、すいませんでした。いや、それよりも、黒之原さんは指一本ふれてないって?」
「ああ、僕は最初から最後まで、黒之原をマークしていたんだ。きっとまたやらかすぞ。そう思って警戒していたんだよ。あいつが大広間に入ってきた時から、ずっと目を光らせていたんだから、間違いはない」
「……」
「集金箱はおろか、かぶせてあった上着にも黒之原はさわらなかったよ。ちなみに、上着が外れたのは、酔っぱらったゼミ生がよろめいて蹴飛ばしたせいだ」
「……そうだったんですか」
「黒之原は来たと思ったら、すぐに帰っただろ。大広間にいたのは、正味十分ぐらいかな。僕が目を離した瞬間は1秒もなかったと言い切れるね」
「それじゃ、黒之原さんは犯人じゃありえない?」
「ありえないね。可能性は0%だ」と、先輩は断言した。
ということは、17万5000円の盗難に関しては、黒之原はシロなのか? あらためて冷静に考えてみれば、思い当たる節がないわけではない。
狗藤が集金を始めたのは、大広間で宴会が始まってからである。その時点で、黒之原は不在だった。鳩山先輩の言う通り、彼は大幅に遅刻してきたのだ。狗藤がコピー用紙の空き箱の中に会費を入れていた事実を知っているはずがない。
つまり、黒之原は会費窃盗事件に関しては無実。事件はふりだしに戻ってしまった。
真犯人は一体、誰なのか? 狗藤は頭を抱えて、ゼミ研究室を後にした。苦しい時の神頼み。カノンの姿を捜し求めるためである。
カノンは噴水広場にいたので、さっそく鳩山先輩の貴重な証言を伝えてみた。
「黒之原が犯人やないことは、うすうすわかっとった」
カノンの素っ気ない口ぶりに、狗藤は腰が砕けそうになった。
「だったら、最初からそう言ってよ、カノンさん」
「そんなんいわれても、訊かれてへんから」
「どういうこと? じゃあ、真犯人は誰なの?」
「さぁな」と、カノンはそっぽを向いた。
狗藤はカチンときたが、これぐらいで怒っていては、カノンの相手は務まらない。とりあえず、不平不満は飲み込んで、
「もし、見当がついているなら教えてよ。本当に困っているんだ。ねぇ、わかったの? カノンさんは神様なんだから、すべてお見通しなんじゃないの?」
「ノーコメントやな」やはり、カノンの反応はそっけない。「前々から思っていたことやけど、他力本願野郎にはやすやすと情報をやりたくないんや」
理由はわからないが、カノンが御機嫌ななめであることは確からしい。
「どうして?」
「どうして、やと? わからへんのか? むかつくからに決まっとるやろ。その頭は何のためにあるんや。自分の頭で少しは考えてみたらどうなんや」
そう言われては、狗藤は何も言えない。
「どうして? どうして? どうして? ふん、私はおまえのママやないで。そんな奴の相手をするほど、私は暇やないんやっ」
カノンは激昂した。美女であるだけに、怒った顔はめちゃくちゃ怖かった。
「わかった。よくわかったよ。僕が悪かった。自分でよく考えてみるよ」
狗藤は両手を合わせて頭を下げた。カノンを怒らせた場合、言い争っても、どうせ勝てないのだ。狗藤の謝罪は、ほとんど条件反射のようになっていた。
カノンは「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「頭が切れても決断力が伴わへん奴、決断力はあってもモラルのあらへん奴、モラルがあっても実行でけへん奴。いろんなタイプの人間を見てきたが、おまえって奴はつくづく、日本一みっともなくて、救いようのないサイテー野郎やな」
ものの見事に扱き下ろされた。聞き間違いかと思ったほどだ。日頃から罵倒されることには慣れているが、これほど実感をこめて人格を否定された記憶はない。
「頭は悪いわ、決断でけへん、実行もできへん。モラルは一応あるが、おまえのそれは、世間の一般常識に行動をしばられとるだけや。トラブルにあえば腰が引けてもうて、他人に対処法と決断を委ねまくってきたドアホに、一体何ができるんや?」
不愉快な言われ方だが、狗藤は下僕体質ゆえに、こういう罵倒には慣れている。
「よくわかったから許してよ。これからは自分で考えるようにするからさ」と、作り笑いで言ってのけた。
カノンは大きな溜め息を吐いて、
「何で、わからへんのか、特別に言ってやろう。おまえには経験がないからや。自分の頭で考えて、熟慮に熟慮を重ねて、検討に検討を重ねた末にやっと結論に辿りついたっちゅう成功体験が一度もあらへんからや」
そう言って、クルリと背を向けた。
「その性格、いい加減どうにかせぇ。今、考えを改めておかへんと、一生負け組のままやぞ」
カノンは一度も振り向かずに立ち去っていった。
「何だよ、そんな言い方をしなくたって……」狗藤は呟いた。「それにしても、カノンさんの態度は妙だったな」
カノンが一体、何に対して苛立っていたのか? その真相が明らかになって、狗藤が知ることになるのは、ずっと後になってからである。もっとも、その時には、すでに取り返しがつかない状況になっていたのだが。




