A:比企田ゼミの厄日
運の悪いことに、事故やトラブルなど厄介なことが、立て続けに集中して起こることがある。その日は、比企田ゼミにとって、まさに厄日だった。
ゼミ生の男子が自転車で転倒して脚の骨を折り、ゼミ生の女子が下宿で下着泥棒にあい、猿渡助手は丈夫な胃腸が自慢なのに食あたりを起こした。まるで、不幸ポイントがたまったので一括して提供します、と神様から宣告されたようなものだった。
比企田教授も奇妙なトラブルに見舞われた。まず、テレビ討論の番組収録中に意見の対立した評論家が心臓発作を起こしたのだ。次いで、衣装の手配を忘れたADが倒れたセットの下敷きになり、無愛想なハイヤー運転手は教授を降ろした直後にトラックと正面衝突を起こした。
比企田教授自身は幸い無事だったのだが、周囲の被害があまりにも大きすぎた。そのため、ネット世界の住人たちが、〈比企田教授の呪い〉と面白おかしくはやし立てたのだ。社会的成功者の悪口は彼らの大好物である。普通の人間なら首をかしげるような理屈によって、教授は「死神」扱いを受けてしまった。
風説によるイメージダウンである。もしかしたら一番の被害者は、教授だったのかもしれない。
これらのトラブルの影に隠れて目立たなかったが、ゼミ研究室でも小さな事件が起こっていた。ゼミの備品であるデスクトップPCが、何者かに盗まれてしまったのだ。
狗藤はふらりと立ち寄ったゼミ研究室で、鳩山先輩からそのことを知らされた。
「五年ほど前のPCだから、売っても大した金額にならないだろうに。泥棒はよほどカネに困っていたのかな」
「かもしれませんね。他人事とは思えませんよ」
「ねぇ、狗藤くんの仕業ってことはないよね?」
「ええっ、何を言うんですか。ちがいますよ。いくらおカネに困っても、ゼミの備品を盗んだりしません」狗藤は両手を振って否定する。
「ああ、そうだろうな。君にそんな度胸はない。だとしたら、やっぱり、あいつかな」
「ひょっとして、黒之原先輩ですか? かもしれないですね」その時、狗藤の頭に何かが引っかかった。「あれ、何か大事なことを忘れているような……」
その大事なことを思い出したのは、30分後のことだった。狗藤はカノンをさがし求めて、キャンパスを駆けずり回った。カノンは噴水広場にいた。人工芝の上で寝転んだカノンを見つけるや、声高に訴えた。
「聞いてよ、カノンさん。盗まれたPCのハードディスクには、僕が一ヵ月以上かけて作成した膨大なデータが保存されていたんだ。連日の調査にかかった労力と打ち込みにかかった膨大な時間、すべてがパーだよ。原本は処分しちゃったから、再現することもできない。ああ、悔しくて仕方ないよ。これ、どうにかならないかなぁ」
カノンは無表情で言い放った。
「ふーん、そうなんや。なら、さっさと取り返せばええやないか」
「盗んだ犯人がわかっていれば、今すぐ行って、取り返してくるさ。だけど、犯人がわからないんだから、仕様がないじゃないですか」狗藤は上目遣いで、カノンを見やる。「ただ、もしもの話だけど、例えば犯人が黒之原先輩だと仮定すると、例の【弁天鍵】でPCを取り戻すことはできるのかな?」
カノンは腕組みをすると、「ふん」と鼻を鳴らした。
「あまり勧めたくない使い道やな。恐れ多くも弁財天のアイテムやぞ。五年前のPCなんて、せいぜい数千円の価値しかないやろ。たかが数千円のために【弁天鍵】を使うなんて、二階に上がるために最新鋭のロケットを打ち上げるようなもんや」
カノンが言いたいのは、想像を絶する無駄な使い方だ、ということらしい。
「でもカノンさん、僕はデータが消去されないうちに、PCを取り戻したいんだよ」
「それって、おまえのデータじゃないやろ。教授がバイト料を支払っておまえに調べさせたんやから、そのデータは雇い主である教授のもんや。おまえ、早く取り戻してこいって、教授から言われたんか?」
「いや、教授からは何も言われていない」
「ほんなら、放っておけばええやないか」
そっぽを向いて、カノンは吐き捨てた。いつになく投げやりな態度である。
「どうして、そんなに冷たいの? 中古のPCとはいえ数千円の備品が盗まれたんだよ。これって、カノンさんのいう〈おカネの悪い流れ〉じゃないの? どうして、そっけないの? 被害金額が少ないから?」と、狗藤は執拗に迫った。
「……」
「ねぇ、教えてよ。どうして? どうして?」
次の瞬間、狗藤の左側頭部に向かって、伸びやかな美脚が唸りを上げて飛んだ。高速ハイキックが見事に決まった。ミニスカートをひらめかせて、きれいに伸びた白い美脚は、太股まで露わになっている。
偶然居合わせた学生たちは眼福にあずかった。まさに夢のような残像であり、カノンが神様であるとは知る由もないが、男どもは無意識のうちに手を合わせていた。
「ああ、もうっ。ウダウダとうるさいんや」カノンの顔は怒りに染まっていた。
「……ど、どうして」崩れ落ちた狗藤は、かろうじて意識を保っていた。
「どうして、やと? どうして、どうして、どうしてっ? 質問すれば、何だって懇切丁寧に答えてもらえると思っとんのか。まるで、洟を垂らしたガキやな。このドアホがっ」
狗藤はやっと気づいた。人工芝の上に寝転んでいたので、カノンはくつろいでいると思ったのだが、実際には苛立っていたのだ。〈クロガネ遣いを消す〉作業が、思いのほか難航しているせいだろうか?
その時、狗藤の脳裏に閃くものがあった。
「あのさ、今、思ったんだけど。いや、ただの思いつきなんだけどさ」
「ああん? 何やねん、言うてみぃや」
「黒之原先輩が〈クロガネ遣い〉だった、という可能性はあるのかな?」
「……」カノンの強烈な眼ヂカラが狗藤を貫いた。
「いやいや、マジ思いつきだから。先輩の名前は黒之原兼夫、略して〈クロカネ〉だから、ちょっと〈クロガネ遣い〉と似ているかな、って思っただけ。根拠のない話だから、笑って聞き流しても構わないけど」
だが、カノンは笑わなかった。
「狗藤、よう聞けや。黒之原が〈クロガネ遣い〉なのかと訊かれても、私には何にも言えん。PCを盗んだんか盗んでへんのかも、興味あらへん。はっきり言うて、どうでもええんや」
「そんなこと言わないでさ」
「ただ、これだけは言える。〈カネの悪い流れ〉に関わっていると、知らないうちに汚れてしまう。真っ白なシャツが黄ばんでいくみたいにな。そういう人間はゴミ溜めのような臭いがする。人間にはわからんでも、弁財天の私なら数キロ先からプンプン臭うんや」
「それで、黒之原先輩はどうなの?」
「かすかに臭うな。クロやないけど、グレーってところやな」
「グレー? 半分怪しいってこと?」
「というより、近い将来、〈クロガネ遣い〉のようになる可能性がある、いう意味や。言うてみれば、〈クロガネ遣い〉予備軍やな」
「はぁ、予備軍か」
「世間で、守銭奴と呼ばれているヤツは、皆そうや。おまえは黒之原を見て、何も感じないんか? カネに対する汚さだけやない。世間の不平不満や妬み嫉みといった負の感情が、あの男には貼りついとるで。コールタールみたいにベッタリとな」
狗藤の脳裏に、コールタールの沼にはまり、もがいている黒之原が思い浮かぶ。
「不平不満だらけの人間に、人並みの幸福が味わえるわけがあらへん。不平不満の原因が心の持ちようやと想像もつかないんや。マジ救われない一生やな」
「そうかもしれないですね」
「〈カネの悪い流れ〉が人間を汚染し、負の感情がカネをどす黒く染めるんや。これって、悪循環やし、負の連鎖やな。〈クロガネ遣い〉の真の恐ろしさは、こいつや。おい、これだけは、しっかり聞いとけよ」
「はい、しっかり聞いています」
「これは大事なことやからな。金銭欲は諸悪の根源、とまでは言わへん。欲望を失って何のための人生か、やもんな。ただ、真っ当な生き方をせず、不正行為で荒稼ぎをしている連中は、結局、自分の首を絞めとるんだ。遠からず、必ず破滅する。万一、うまく立ち回って、逃げおおせたとしても、私が絶対に見逃さへん。弁財天の名において、必ず見つけたる。誰が見逃すかよ」
いつになく、カノンは熱くなっていた。おカネの神様であるだけに、〈クロガネ遣い〉やカネがらみの不正行為には、我慢ならないのだろう。
「でも、カノンさん、その〈クロガネ遣い〉、まだ見つけていないんだよね」
カノンの表情が変わる。それは明らかに余計な一言だった。再び目にも止まらぬハイキックが飛び、まともに側頭部に入れられた狗藤は棒のようにぶっ倒れてしまう。
「必ず見つけだして、天罰を下したる」
狗藤は朦朧とした意識の中で、その言葉を聞いた。
一方、噂の張本人,黒之原はどうしていたか? これまで、狗藤に対して横暴な仕打ちを繰り返していたのだが、最近は大学に顔を出さずにおとなしくしている。これまでの悪事を反省し、心を入れ替えたのか? いや、そんなはずがない。
黒之原のおとなしさは、嵐の前の静けさにすぎなかったのだ。




