A:カネのなる木
午前の講義が終わり昼休みにはいると、啓杏大学キャンパスは一気に騒々しくなる。学生たちは食堂に行ったり、喫煙コーナーに向かったり、三々五々に散って行く。そんな人波をかきわけて、狗藤はキャンパスから抜け出した。
財布の中にあるのは、830円だった。これが、狗藤の全財産である。かすかな期待をこめて部屋をひっかきまわしたところ、引き出しの中や着替えのポケットから小銭が見つかったのだ。
バイト料の入金は月末なので、十日間を830円で乗り切らねばならない。一日当たり83円である。食パンしかない、と狗藤は即決した。
ただし、大学購買部の食パンは108円であり、25円の予算オーバーである。もっと安い食パンが近所で売っていることは、新聞チラシを見て知っている。狗藤は月末になると同じことを繰り返しているので、すっかり手慣れたものだ。
スーパー・浜屋、六枚切りが一斤80円。こいつに決まりだ。一食二枚のペースで行けば、十日間を800円で乗り切れる。ただ、人気商品のため、売り切れになる心配があった。だから今、狗藤は早足で歩いているのだ。
「頭の中が食パンでいっぱいやないか。おまえの大好物なんか?」
いきなり声をかけられた。まさかと思って振り向くと、やはり彼女が佇んでいた。
弁財天のカノンである。相変わらず、真っ赤なミニドレスがよく似合っていた。狗藤は思わず、スラリと伸びた生脚を見惚れてしまう。〈美脚〉と呼ぶにふさわしい完璧なラインだ。
「何や、女の脚も大好きか。遠慮すんな。好きなだけ見てもかまへんで」
カノンは人目も気にせず、ファッションモデルのようなポーズをとっている。
「神様は信者にとって、アイドルやからな。〈見られて何ぼ〉なんや。どうだ、少し触ってみるか? 出血大サービスや」
「いえ、結構です」
やせ我慢をして両手を振った時、左手の変化に気がついた。いつのまにか、また左手首から先が、【弁天鍵】になっている。
「カノンさん、これ……」
「ああ、この前おまえに言うたやないか。【弁天鍵】の使い方を教えたるってな。恐れ多くも〈神のアイテム〉や。その気になりゃ、えらいさんの【未来金庫】を空っぽにして、破滅に追い込むことも可能や。神に匹敵する能力やから、よく考えて使うんやで」
狗藤は【弁天鍵】を見つめて、左手を元に戻す方法を考えていた。カノンから聞いたはずだけど、どうすればいいんだっけ?
「あの、カノンさん」
「一度しか言わへんから、その空っぽ頭に叩き込め」カノンは唐突に説明を始める。
「ええか、まず、【請求書】を書き込むアイテムを呼び出す。『ビル』と叫べ」
「ビル? 英語で請求書だっけ。弁財天なのに、どうして英語なの?」
「細かい突っ込みはいらん。そもそも、弁財天はインドから日本にやってきた神様やし、現代ではグローバルに展開しとるんや。ほら早く、『ビル』と叫べ」
「ビル」
「声が小さい」
「ビル!」
「まだまだや」
「ビール!」
ビヤホールで呼び出すと紛らわしいことだろう。
「目の前を見てみろ」
ピンクのハート型のものが、狗藤の目の前に浮かんでいた。板状の小型端末である。大きさ掌サイズで、外見は【未来金庫】と似ている。いや、それよりも似ているのはタブレットPCだろう。
「そいつが【浮遊端末】や」
なるほど、モニターの下半分はキーボードになっていた。
「請求先と請求金額の打ち込み方は、PCと同じや。簡単やからやってみぃ」
狗藤は指先でポンと触れてみる。カノンの言う通り、操作は簡単だった。さて、請求先を誰にしようか、と狗藤は考える。すぐ一人の男が脳裏に浮かんだ。
もちろん、黒之原先輩である。
「カノンさん、本当に請求先から、思い通りの金額が奪えるんですか?」
「何や、信じてへんのか。嘘かホンマか、やってみたらわかるやないか」
「それはそうですけど、僕がその人のおカネを奪った時、その人はどうなるんですか?」
「飲み込みの悪い奴やな。そいつは【未来金庫】のカネを失うんや」
「そうじゃなくて、具体的にどうなんですか? 例えば、びっくりするとか、ひどく慌てるとか」
狗藤は、その時の黒之原の反応を見ておきたかった。
「妙なことにこだわるんやな。ほんまに気になるんやったら、そいつの様子を見ながら、カネを奪えばいいやないか」
「そうですね。そうしましょう」
狗藤は黒之原をさがすために、カノンと一緒にキャンパスへとUターンした。黒之原の姿を求めて、寮、比企田研究室、大教室、食堂、カフェと見て回る。しかし、こういう時にかぎって見つからない。そのうち、カノンが文句を言い始めた。
「おい、これ以上は時間のムダや。私の大事な時間を奪うんやない。それよりも、さっきの続きや。【弁天鍵】の使い方を教えるから、さっさと【浮遊端末】を呼び出してみぃ」
どうやら痺れを切らしたらしい。何ともせっかちな神様である。狗藤は仕方なく、「ビル」と呟いた。目の前にフワリと【浮遊端末】が現れる。
「一度しか言わへんからな。まず打ち込むのは、請求先と請求金額や」
狗藤は人差し指一本で、モニターに現れた二つのスペースに、それぞれ「黒之原兼夫」「二万円」と打ち込んだ。
「エンターキーで確定」
言われた通りにした。
「最後に、【弁天鍵】のトリガーを引く」
なるほど、左手首の裏側の位置に、拳銃のような引き金があった。狗藤は【弁天鍵】右手の人差し指を添えて、一度深呼吸をする。そして、思い切って引いた。
鍵を鍵穴に突っ込んで、クルリとひねるような手応えがあった。歯車の山と山がぴったり噛み合って、錠が解ける。ガッコン。どこかで間の抜けた音がした。狗藤は、重いドアが開くような手応えを感じた。
「はい、完了。ビル・インプット・エンター・トリガー。どうだ、簡単だろ」
「ええ、そうですね。それでカノンさん、僕の二万円は、一体どこに?」
「ああ、それなら、ここにあるで」
きれいな細い指先で、狗藤の胸の真ん中をチョンと突く。次の瞬間、カノンは右手を引いて、ふわりと閃かせると、狗藤の胸の中に勢いよく突き入れた。
「ひぃっぎぃっ!」
激痛が狗藤の全身を貫いた。七転八倒の苦しみ。しかし、胸を押さえた時には、すでにカノンの右手は引き抜かれていた。一瞬の早業である。二枚の一万円札は指先に挟まれていた。
神の右手は物質を透過するのか、【DOG】は三次元を凌駕するのか、狗藤の服に穴は開いていない。狗藤の胸も無傷だし、わずかな出血すらない。
「どうや、わかったか? 他人の【未来金庫】から奪ったカネは、おまえの【未来金庫】の中に入ってくるんや。それぐらい、おまえの頭でもわかるやろ。もし、百万円と書き込めば、百万円が入ってくる。請求金額は無制限やから、好きなように書けばええ。奪えば奪うほど、おまえの金庫は満たされるちゅうわけや。カネ以外の資産だってOKやで。株券、有価証券、小切手でもええし、宝石や金銀財宝でもかまへん」
まさか、これって……。
「僕の左手は、〈カネのなる木〉になったの? これってマジ、〈打出の小槌〉なのか? 金銀財宝、思うままなのか?」
「まぁ、そういうことやな」
「マジかっ」胸の激痛など一気に吹っ飛んだ。「これさえあれば、もうカネのことで悩まなくていい。僕が望めば、簡単に大金持ちになれる。そういう理解でいいのかっ」
「【未来金庫】は握り拳サイズやけど、膨大なスペースを内包しているんや。いくらでも詰め込める。外車、船舶、自家用ジェット、高層マンション、どんな巨大なものでも、全然OKや。【弁天鍵】でぶんどって、【未来金庫】の中にしまっておける」
カノンはあっさり言ってのけた。
「マ、マジ、今日まで生きててよかった。幸の薄い貧乏人だって、毎日がんばっていれば、いつか陽の目を見るんだ」
狗藤は嬉しさのあまり、目に涙をにじませた。生まれついての下僕体質。明るい未来像など思い描けず、人生を立て直す気概もない。これまでの狗藤は、投げやりに無気力な日々を送ってきた。だが、それも終わりだ。
「これで人生が変わるよ。ありがとう、カノンさん」
「そのリアクションだと、私が弁天堂で言ったことを、まるっきり信用していなかったみたいやな」カノンは呆れ顔で吐き捨てた。
とにもかくにも、こうして、狗藤の人生は一変することになる。もっとも、狗藤自身の思い描いていたものとは、まったく違う形だったのだが。




