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弁財天とクロガネ遣い  作者: 坂本光陽


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A:狗藤忍


 路上に落ちている一円玉を見つけたら、誰だって即座に拾う。というか、拾うしかないはずだ。だが、知人に見られて恥をかくリスク、さらに一円玉を拾うための労力を一円以上と見積り、赤字になると判断して、スルーする者がいるらしい。


 極貧生活が染みついた狗藤忍くどうしのぶには、とても信じられない話だ。苦学生にふさわしく、狗藤膝の抜けたデニムパンツを履き、洗いざらしのシャツをひっかけている。頭にいぬがついているせいか、彼の顔はどこか犬に似ていた。すっかり飼いならされて御主人様なしでは生きていけない、そんな腑抜けたペット犬である。


 狗藤はかれこれ一時間以上も、北千住駅近くの桜並木に佇んで、路上の一円玉を見守っている。幅が三メートルほどの広めの歩道だ。北千住駅は足立区随一のターミナル駅であり、人の流れは尽きない。すでに百人以上の人間が通り過ぎたが、一円玉を認めた者は三人だけにすぎなかった。


 頭上の桜はつぼみが開きかけたばかりで、花びらは一枚も落ちていない。一円玉と花びらを間違える可能性はゼロである。なのに、通行人は一人として拾わなかった。比企田ひきた教授のおっしゃるとおり、労力とリスクが勝ったのだろうか。


 経済感覚を肌でつかむためには、フィールドワークが不可欠である。それが、比企田正樹教授の持論だ。一円玉を見つけてもスルーする者、一円玉を見つけたら躊躇ちゅうちょなく拾う者、それぞれの服装、体型、態度、顔つきには共通点があり、それを丹念に記録することで、庶民の景気動向を把握する。それが、狗藤が行っている〈路上・人間調査〉の骨子こっしである。


 と、その時、一円玉に手を伸ばした女性がいた。歩くスピードを少しも落とさず、いや、もしかしたら、スピードを上げながら、膝を軽く曲げたように見えた。ほぼ同時に右手を素早くスイングさせて、薄っぺらい一円玉を指先で器用に確保した。そのまま美しい背中を見せて立ち去っていく。思わずため息を吐いてしまいそうな、見事な早業はやわざだった。


 ハッと気づいて、狗藤は慌てて後を追いかける。

「すいません、ちょっといいですか」素早く回り込み、彼女の顔を見た。


 第一印象は、目の覚めるような美人だということ。インド美女のように目鼻立ちがくっきりしていて、しなやかな肢体は抜群のプロポーションを誇っていた。真っ赤なミニドレスをファッションモデルのように華やかに着こなしていた。それでいて、知的なイメージを合わせ持っており、りんとしたたたずまいである。


 彼女の強烈な視線によって、狗藤は全身を射ぬかれた。思わず視線を下げると、膝上二〇センチのミニスカートからスラリと伸びた美脚。視線を上げると、ミニドレスの広い襟ぐりから、腕組みのせいで強調された豊かなバストが目に入る。


 狗藤は必死に視線を引きはがし、ドキマギしながら美女の顔を見る。


「あの、少しだけお時間をいただきたいんです。今、一円玉を拾いましたよね。実はこれ、実験なんですよ。〈路上・人間調査〉という大学研究の一環で。あ、僕は啓杏けいあん大学の……」


 美女は一円玉を指先で挟んで、狗藤の目の前に突き出す。

「何をウダウダ言うとんねん。早い話が、あんたの一円玉ってことやろ」


 華やかなルックスからは想像もつかない関西弁だった。狗藤は一円玉を受け取って、慌てて言いつくろう。


「すいません、今はバイトなんですが、これはマジ大学の研究なんですよ。あなたをからかったわけでも、遊び半分でもなくて、あの、その、何だ」


 美女は鼻で笑った。舌打ちをしたと思った次の瞬間、狗藤の視界にピンク色の何かがよぎった。神がかったスピードであったため、それがショーツの色だとは気づかなかった。コンマ一秒後、狗藤の視界は闇に飲み込まれていた。いきなり、左側頭部ひだりそくとうぶに強烈な蹴りをくらったわけだが、幸いなことに、痛みを感じる暇もなかった。


 薄れゆく意識の中で、狗藤ははっきり耳にした。

「カネで遊ぶんやない。このドアホがっ」声の主は美女らしかったが、言葉の中身と涼やかな声音は、明らかなミスマッチだった。


 数分後、狗藤が路上で息を吹き返した時、美女の姿はとっくに消えていた。左側頭部がジンジン痛むので、どうやら、美女に蹴られたことは確からしい。


 突然、ひどい目にあったわけだが、美女に蹴られるなど、めったにあることではない。その意味ではラッキーなのかもしれないな。そんなことを思いながら、狗藤は帰途についた。


 これが狗藤と彼女との出会いである。彼女は実は疫病神ともいえる存在であり、数日後、彼女に導かれるままに、想像を絶する状況に巻き込まれることになるとは、この時の狗藤には知る由もなかった。



 啓杏けいあん大学のキャンパスは、東京都足立区の荒川河川敷から少し離れたところにある。ちょうど一年前、偏差値40足らずの狗藤が入学できたのだから、申し訳ないが三流大学と言い切っていいだろう。卒業しても大手企業の就職先はなく、ブラック企業を転々する羽目になった先輩方も多いと聞く。


 狗藤の志望動機は、単純明快である。ただ一言、入学料・授業料が格安だったから。少子化対策として貧しい家の受験生に門戸を広くしたのか、デフレの波にのったのか、とにかく入学料・授業料が安かったのだ。


 家50000円のオンボロ大学寮で暮らしているのも、毎日アルバイトに奔走しているのも、同じ理由からである。バイトと名のつくものは、のべつくまなく経験したが、この春から始めたのが、先の〈路上・人間調査〉だった。たまたま美女に蹴られて失神したのだが、基本的には気楽で実入りのよいバイトである。


 雇い主は比企田教授なのだが、バイトの指示はもっぱら、助手の猿渡和子から受けている。その名の通り、猿顔の小柄な女性であり、比企田ゼミを実質的に束ねているのは彼女だった。


「狗藤くん、君って字が汚いね。この調査報告書、読みにくいんだけど、この字は〈き〉?それとも〈さ〉?」

「いえ、〈す〉ですね」

「嘘でしょ。こんなの、とても読めないよ。一からPCで打ち直してよ」

「それが、パソコンが壊れちゃったんです。寮の先輩から2000円で譲ってもらったんですが、たった三カ月の命。あまりにも高すぎた買い物です」


「ノートPCぐらい買い直したら? 中古なら一万円程度で買えるでしょ」

「そんな贅沢はできませんよ。一万円があったら、半月は暮らせますよ」

「狗藤くんって経済学部のくせに、おカネの使い方を知らないね。自己投資をしておけば、将来数十倍にもなって返ってくるのよ。そういうとは贅沢とは言わない」

「でも、投資にはリスクがつきものです。一万円ものカネを使うには100%納得できないと、とてもとても」


「それなら、誰かにPCを貸してもらいなさい」

 そう言って、猿渡は研究室の中を見渡す。居合わせたのは、一人のゼミ生だけだった。


「黒之原くん、狗藤くんにPCを貸してあげて」

「えーっ、何で、こんなやつに。絶対ゴメンですよ」


 「ごちゃごちゃ言わない。狗藤くんのバイトって、元々は君がするはずだったのよ。黒之原くんがサボらずに、キチンと調査していれば……。あ、そうか、じゃあ、二人で受け持ちなさいよ。狗藤くんが調べて、黒之原くんが報告書を作成する。二人で一人前。これで、いいわね。納得よね。はい、決定っ!」猿渡は一気にまくしたてた。


 狗藤がおそるおそる黒之原先輩の顔色をうかがうと、鋭い目つきで睨みつけられた。おまえのせいで、とんだとばっちりだ、と言いたげな。


 そこに、研究室の主が、満面の笑顔で入ってきた。

「いやぁ、相変わらずよく通る声だね。猿渡さんの声、廊下を通してエレベーターホールまで聞こえていたよ」


 比企田正樹教授である。啓杏大の名物教授であり、経済学者として与党のブレーンを務め、卓越したセンスに洒脱なトークといったタレント性を兼ね備えている。しかも、長身でスタイリッシュな美中年だ。女性たちを魅了するバラ色の笑顔に、真っ白な歯がキラリと輝き、とてもアラフォーには見えない。


「話は廊下で聞かせてもらったよ。いいアイデアじゃないか。僕としては黒之原くんにはもっと頑張ってもらいたいし、狗藤くんの報告書問題も同時に解決。めでたく、黒之原くんと狗藤くんのゴールデンコンビ誕生だね」

 パチパチパチと陽気に両手を打ち鳴らす。仏頂面の黒之原に向かって、教授はすかさず声をかける。

「比企田ゼミから留年は出したくないなぁ。黒之原くん、僕は心の底からそう思うよ」


 黒之原は眉間みけんに皺を寄せたが、

「……わかりました」と、喉の奥から絞り出した。

 教授は満足げに大きく頷くと、

「よしっ。じゃあ、期待しているからね、お二人さん」二人の肩をポンと叩くと、さっさと行ってしまった。


 狗藤は素知らぬ顔を装っていたが、全身に痛いほど感じていた。もちろん、黒之原の突き刺さるような視線である。振り返らなくても、大きな体から殺気を発散していることは想像がつく。厄介なことに巻き込みやがって、と怒りまくっていることは間違いない。


 狗藤の脇の下から、嫌な汗が一筋流れ落ちていくのだった。


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