川の近くにあるバンガローでの出来事
以前のバイト先でさんざんな目に遭った『わたし』は、夏休みの間だけ働ける新しいバイトを探していた。
すると偶然会った親戚のおじさんから「いい仕事がある」と言われたのだった。
◇◆◇
空が茜色から深い藍色へと変わっていく頃、わたしはバンガローの管理事務所にいた。
日中の喧騒が嘘のように静まり返った河原は、どこか静寂の中に不穏な空気をはらんでいる。
今日の仕事は、親戚のおじさんの友達が家族で経営しているという、この寂れたバンガローの夜間管理だ。
特にすることはないと聞いていたけれど、オーナーの老人は一つだけ、奇妙な注意を伝えてきた。
「いいかい、深夜に電話がかかってきても、絶対に出るんじゃないよ」
老人の皺だらけの顔が、夕闇に溶けそうなほど真剣だったのを覚えている。なぜ、とは聞けなかった。
ただ、その言葉がわたしの胸に、重い石のように沈んだ。
午後11時を過ぎ、バンガローの明かりはほとんど消えた。
家族連れや若い男女が楽しげにやっていたバーベキューの香りも消え去り、今ではカエルの鳴き声と、遠くで聞こえる川のせせらぎだけが、この場の音の全てだった。
管理事務所の蛍光灯は、真新しい白い光で眩しいほどわたしを照らすが、そんな光も窓の向こうの闇を完全に払うことはできない。
手持ち無沙汰に机の上の古びた雑誌を眺めたりスマートフォンを見ていると、ふと、視線を感じた。
窓の外からだ。
真っ暗な茂みの奥に、何かがあるような気がした。目を凝らすが、何も見えない。気のせいだろうか。
風が窓を揺らし、ギシッと音を立てた。
その音にわたしの心臓が小さく跳ねる。まるで何か恐ろしいものが、この場所へと近づいているかのようだった。背筋に冷たいものが走る。
そして深夜0時を少し過ぎた頃、それは鳴った。
ジリリリリ……
簡素な造りの内線電話が、けたたましい音を立てて鳴り響く。
心臓が飛び出しそうになった。
耳慣れないはずのその音は、なぜかわたしには酷く、馴染みのあるもののようにも感じられた。体が硬直し、受話器に手を伸ばすことができない。
出ちゃいけない。老人の言葉が、脳内でこだまする。
ジリリリリ……ジリリリリ……
鳴りやまない。
むしろその音は、わたしの心臓の鼓動と同期しているかのように、どんどん大きくなっていく。
まるで電話の向こうから、何かがわたしの内側に入り込もうとしているかのようだ。
震える手で受話器に触れそうになる。
ダメだ、ダメだ。頭の中で必死に繰り返す。でも指先が吸い寄せられるように、ゆっくりと受話器へと近づいていく。
もう、わたし自身の意思ではどうすることもできないかのように。
その時、バンガローの方から、微かな物音が聞こえた。ガラ、ガラ、ガラ……と、引き戸が開くような音。
電話の音は、まだ鳴り続けている。しかしその物音は、より近く、よりはっきりと聞こえてきた。
電話に出るか、物音の正体を確かめるか。二つの恐怖が、わたしの意識を支配した。
わたしは無意識のうちに受話器から手を離して、ゆっくりと、音のする方へと顔を向けた。
闇の中、何か白いものが、ゆっくりと動いているのが見えた。
ジリリリリ……。電話はまだ、鳴っていた。
闇の中の白いものは、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
電話のけたたましい呼び出し音が、鼓膜を震わせる。頭の中が、真っ白と真っ黒の混じり合った濁流に呑み込まれそうだった。
わたしは息を殺して窓を見た。それは確かに人の形をしていて、こっちに向かってゆっくりとやってくる。
でもあまりにも白く、輪郭がぼやけているように感じた。
まるで薄いヴェールを何枚も重ねたように。あるいはただ色白な人が、全身白系の服装なだけかもしれないけれど。
ジリリリリ……。電話は、まだ鳴っている。
白いものが、管理事務所の入り口に、ゆっくりと差し掛かった。
ドアは、開いている。ゆらりと、白いものが窓の向こうに立つ。
わたしは声が出なかった。喉がカラカラに乾き、心臓が痛いほど脈打つ。
体中の血の気が引いていくのがわかる。逃げなきゃ。そう思うのに、足が、まるで床に縫い付けられたかのように動かない。
その時、電話の呼び出し音が突如として途絶えた。
部屋に訪れる、完全な静寂。
金具が擦れるような音を出してスライドされる窓。
あまりにも突然の出来事に、わたしの思考は停止した。
電話が鳴り止んだ安堵と目の前の白いものへの恐怖が、同時に襲いかかる。
でも、そこに立っていたのは二十代前半くらいの、若い女性だった。
ゆったりとした白いワンピースのような服を着ている
彼女はこちらを訝しむような目で見た。
「──電話鳴ってたでしょ。なぜ、出なかったの?」
わたしは息を呑んだ。
「あ、あの……」
言葉が出なかった。出るなって言われたから、それは答えとしては正しいのかも知れないけれど、接客としてはどうなのだろう?
女性は窓枠に肘をついて、わたしを見ている。
「もういい……また、かけるから」
そう言って女性は、来た時と同じように、闇の中へと消えていった。
残されたのは、わたしと、静まり返った管理事務所。そして、二度と鳴ることのない電話だけだった。
わたしは、全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
オバケでも出るみたいに、あんなこと言われなければ、こんな失態もなかったのに。
窓の外はまだ真っ暗だった。夜は、まだ明けない。
それから、うとうととしながら朝日を浴びるまで電話は一度も鳴らなかった。
しばらくして、オーナーの老人がやって来た。彼はわたしを見て、「電話には出なかったんだね」と言った。
わたしは苦情を入れられても、レビューサイトで低評価されても、知らないぞと内心おもいつつ、深夜の出来事を伝えた。
「ああ、そうか」
すると老人は青白い顔になりながらも、わたしに帰りなさいと言ってくれた。
小さな管理事務所から出ると、川のせせらぎが聞こえてくる。
バンガローから出てきた人たちが早朝の涼しい風を浴びているのが見えた。
その中に、深夜に会った彼女はいなかった。
祓い屋先輩シリーズです。
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