ぐーたら令嬢は北の修道院で狂犬を飼う
あー、怠惰、怠惰。
わたしは三度の飯より、昼寝が好き。
ふかふかの柔らかい布団でゴロゴロするのが、大好き。
二度寝は必須。あの起きるか起きないかと悩みながら、布団の中に戻る瞬間が大好き。
わたしは死ぬまでダラダラと気ままに生きたい。
そんなわたしの人生を揺るがすイベントが、今まさに起きている。
「聞いているのか? ミランダ」
「そんな大きな声を出さなくても、聞こえておりますわよ。イーサン殿下」
テーブルを挟んだ距離で、イーサン殿下がわたしを睨む。この至近距離で怒鳴るなんて愚の骨頂。
なによりもカロリーを消費しすぎだわ。聞いているこちらまで疲れるし、いいことはない。
イーサン殿下の隣に座るふわふわピンクヘアーの男爵令嬢が、瞳を潤ませてイーサン殿下を見上げた。
「殿下、やっぱり私が王太子妃だなんて……」
「何を言うんだ。こんな女よりも心優しいエミリアのほうが王太子妃にふさわしいに決まっている」
「殿下……!」
二人は見つめ合い、今にもキスでもしそうな勢いだった。
わたしは思わず咳払いをする。目の前でメロドラマを見せられるだなんてたまったものではないわ。
それに、時間は有限。わたしは早く屋敷に戻ってゴロゴロしたい。
「つまり、殿下はそちらの令嬢とご結婚したいと」
「ああ、そうだ」
「愛人ではだめですの?」
「あ、愛人!?」
「愛人でしたら構いませんわよ? その子との子どもをわたしたちの子として、王位継承権も与えますわ」
わたしとイーサン殿下の婚約は、幼いころから決められていた。
正直、王太子妃に興味はなかったけれど、親が決めたことを覆すだけの労力をわたしは払いたくなかった。だって大変だもの。しかも新しいお相手を探さないといけないわけでしょう? 面倒よね。
恋愛って時間もカロリー使いそうじゃない? そういうのは避けたいわ。
だから、わたしは幼いころから王太子妃となるために、準備してきた。
なのに今更、この席を明け渡せと言ってくる。それなら、結婚が決まった十年前に言ってくれればよかったのよ! そうしたら、わたしの労力は最小限で済んだわ!
イーサン殿下はテーブルを両手で叩き立ち上がった。
いちいち行動が大袈裟で嫌になっちゃう。大袈裟なのは今に始まったことではないけれど。
「エミリアを愛人にしろというのか!?」
「ええ、わたしは構いませんわよ?」
婚約者というだけで、イーサン殿下には興味はない。わたしの愛はすべて布団に向かっているのだから。
愛人がイーサン殿下の相手をしてくれて、跡継ぎも産んでくれるなら、わたしの仕事は公務だけになる。
それなら、悪くないわ。
「いいや、私はエミリアに王太子妃になってもらうつもりだ!」
「でも、男爵家のご令嬢でしょう? 今からでは難しいのではないかしら?」
公爵家に生まれた令嬢のわたしだって、王太子妃になる準備は大変だったのよ。今までのほほんと生きてきた令嬢が、今から王太子妃になるための教育を受けるって大変ではないかしら?
高位貴族の令嬢なら、今まで受けた教育にプラスすればいいかもしれない。けれど、エミリアと呼ばれた彼女、そんなに高度な教育を受けたとは思えないのよね。
「君はなんて失礼な女なんだ!」
「それはこちらのセリフよ。十年来の婚約者を呼び出して、『彼女と結婚することにしたから、君は王太子妃になるのを諦めてくれ』って一方的に言うほうが失礼だわ」
この十年の苦労をたった一言で流すなんて! わたしは憤慨した。
王太子妃になるための教育は、想像以上に大変だったのよ。
それでも挫けずに頑張ったのには、訳がある。――王太子妃になって怠惰な生活を送ること。
わたしはそれだけを目標に、王太子妃の教育を受け続けてきた。王太子妃になったあと、そして、ゆくゆくは王妃となったあとも楽ができるように、ありとあらゆる準備をしてきたの。
わたしはゴロゴロするのが大好き。
そう、そのためならば、わたしはどんな労力も厭わないよ!
たとえそれが王太子妃としての厳しい修行だとしても。その先に怠惰な生活があるのならばね。
私はにこりと笑って見せた。
「もう一度だけ言うわね。愛人だったら受け入れますわ」
一人でも二人でも三人でも。
結婚は契約。愛を求めたことはないし、イーサン殿下と恋愛をしようと思ったことはない。
彼が恋愛をしたいなら止めるつもりはない。
けれど、十年の努力を踏みにじるのは許せないわ!
わたしは王太子妃になったときに、最低限の公務以外がゴロゴロとできるように準備をしてきたの。
十年かけて作った最高のベッドを、壊されそうになっている気分よ。
「君とは婚約破棄をするつもりだ。そして、君には彼女の補佐についてもらう」
「……補佐?」
わたしの眉がピクリと跳ねた。イーサン殿下の隣に座るエミリアは、小動物のようにぷるぷると震えて、イーサンにしがみつく。
「君は仕事が好きなようだから、そこは奪わないでやる。それなら満足だろう?」
「……話にならないわ。……わかった。婚約破棄を受け入れます。書類はさっさと送ってちょうだいね」
わたしはソファから立ち上がると、さっさと部屋を出た。
無駄な時間を三十分も使ってしまったわ。この時間があったら、カーテンで太陽を遮って、アロマを焚きながらベッドに転がることができたというのに。
ああ、馬鹿みたい。
三十分どころではない、十年だ。十年の時間を無駄にした。
王太子妃にならないなら、王太子妃の教育を受ける必要はなかったことになる。
思わずわたしは、大きなため息をもらす。
迎えの馬車の扉を開けた、わたしの専属執事が首を傾げる。
「お嬢様、どうかなされましたか?」
「どうもこうもないわ。最悪なの。人生計画が丸つぶれよ」
わたしはこめかみを押さえる。
十歳の時に立てた人生計画では、今年、王太子妃になり、一日の半分をゴロゴロするはずだった。
そのためにどれほどの準備に費やしてきただろうか。
こんなことなら、十年前に「王太子妃にはなりたくないわ!」と言っておくべきだった。
別の面倒さはあるけれど、水の泡になるよりはマシだっただろう。
ああ、わたしに予知の能力があったらよかったのに。
今は十年前の選択を悔いている暇はないわ。
「元気を出してください」
執事が優しい笑みで慰めの言葉をくれる。
美しい金の髪が揺れた。目鼻立ちの整った執事の顔は、いつ見ても飽きない。
綺麗なものは怠惰な生活の次に好き。
「ねえ、わたしが修道院に入ると言ったらどうする?」
執事はにこりと笑った。
「もちろん、お供いたします」
◇◆◇
と、いうわけで、わたしは北の修道院に来た。
夏だというのに肌寒い。
「本当にここまで来るとは……」
執事が苦笑を浮かべる。
「王都にいたら、王太子妃の補佐をさせられるでしょう? あんなお嬢ちゃんの補佐はいや」
わたしはあの日、屋敷に帰って早々、お父様に「わたしを北の修道院に追放してください!」とお願いした。
家族は驚きに目を丸め、わたしの話を聞いてくれたし、怒ってもくれたわ。
お父様は「殿下に抗議に行く!」と言ってくれたけど、わたしは断った。
なにせ、わたしは面倒なことが大嫌いだ。
なぜ、あの王太子のためにそこまでしなくてはいけないのか。そもそもあの、ふわふわ頭の令嬢とスカスカ頭の王太子を取り合うなど、言語道断。そんなことしたら、わたしの黒歴史になってしまう。
それなら、利用されないくらい遠い場所に行くのがいいと思ったのだ。
「自ら北の修道院に追放される話は、初めて聞きました」
執事が苦笑を浮かべて言う。
「これが最善策よ。逃げるが勝ちって言うでしょう?」
必要のない戦いはしたくない。
もちろん、社交場であのふわふわ頭の令嬢を虐めるなんて面倒なこともしない。
その時間はゴロゴロしたいに決まっている。
策略を巡らせ誰かと戦うなどという面倒なことはしたくない。
「今日からわたしは北の修道院を楽園にすることにしたの」
北の修道院。名前を聞いただけで誰もが震える場所だ。
北は寒い。とにかく寒い。その上、規律も厳しいらしい。
親を失った子どもから、親に捨てられた令嬢まで、暮らす人間は様々だ。
「他にもいい場所があったのでは? 別荘地に逃げるとか……」
「修道院に入れられるくらいしないと、あの男は執念深く追ってくるわ」
イーサン殿下は昔からわたしのことが嫌いなのは知っている。
王太子妃の補佐にするという提案も、わたしへの嫌がらせに思いついたのだろう。
修道院に入ったと知れば、イーサン殿下も満足するはず。令嬢の墓場なんて言われている場所だもの。
わたしは修道院に運び込む荷物を見て頷いた。
準備は完璧よ。
特注品のベッドも持ち込んだのだ。完璧ではないわけがない。
「ようこそお越しくださいました。ミランダ・オロレイン公爵令嬢」
「今日からよろしくお願いしますね」
「こ、こちらの荷物は?」
「わたしの荷物です。これが入る陽当たりのいい部屋をよろしくお願いしますね」
わたしはにこりと笑った。
こういうのは最初が肝心よ。有無は言わせない。
だって、わたしはここに反省しに来たわけではないのだから。
執事がにこにこと笑顔で金貨がたんまり入った袋を渡す。
賄賂。これが一番だということは、いつもグータラしているわたしにもわかる。
幸い、オロレインは裕福で金はばらまくほどあった。
わたしが快適に暮らすための賄賂くらいいくらでも用意するわ。……、まあ、もちろん後々回収させてもらうつもりだけど。
修道女はべたついた笑みを浮かべる。
「そういえば、とても陽当たりがよくて広いお部屋が一つあいておりました。そちらをミランダ様にご用意しましょう」
「あら。助かるわ」
「ご案内します」
わたしはここまで荷物を運ぶためについて来た使用人に指示を出し、案内された部屋にすべての荷物を入れた。
石造りの修道院は室内も肌寒かった。
夏とは思えない気温だわ。冬になったらどれほど寒いだろうか。
もっと暖を取るためのアイテムが必要そう。
お父様にお願いすればすぐに届けてもらえるけど、毎回それを続けるのは無理があるわよね。
もう少し自給自足できるようにならないと。
快適のためなら、努力を惜しまない。それが、わたしだもの。
わたしは案内された部屋を見て、頷いた。
「悪くないわね」
わたしの部屋には広さは劣るけれど、最上階のこの部屋はとても見晴らしがいい。
気に入った。
最高級の寝具も持ち込んだ。
ここをわたしの楽園にするわ。
「あなたの部屋もいい部屋にしてもらったから安心ね」
「私にまで気遣いいただきありがとうございます」
「いいのよ。わたしのものは大切にする主義なの」
わたしのために働いてくれる人はみんな宝物よ。グータラするには何よりも人が財産になる。わたしだけでは百時間かかる仕事も最高の人材がいれば、最小限で済むもの。
「これからいかがなさいますか?」
「まずは手紙を書くわ」
わたしが言うやいなや、執事はささっとレターセットを用意した。そして「紅茶を入れてまいります」と言って、去っていく。
執事はわたしのことをよく知っている。わたしが手紙を書くときは紅茶を飲みたいことも。
「さて、と」
わたしだって、ただ逃げるばかりじゃないわ。
わたしを追い出したこと、わたしの十年を無駄にしたことを後悔させてやるんだから。
執事の入れた香りのいい紅茶を楽しみながら、さらさらと手紙を十通書いた。
慌てて荷造りをして屋敷を飛び出してきたから、最近は働き詰めだわ。
わたしは大きなあくびを一つした。
「今日はもう休まれては?」
「そうしようかしら?」
手紙を書き終えたわたしは、着替えを済ませベッドへと転がる。
やっぱりベッドは最高!
わたしを包み込んでくれる布団がなによりの癒しだわ。
すると、遠くから遠吠えが聞こえて来た。
犬? 狼?
「ウォーーーン」
「狼がいるの?」
「この辺りは自然ばかりですから」
「一匹の声しか聞こえないわ。迷子かしら?」
狼は群れで行動するものだと本で読んだことがある。
一匹吠えれば、連なって聞こえるものではないか。
まるで、一人寂しく泣いているように聞こえた。
「もしかしたら……」
執事が言葉を濁す。
「なに?」
「いえ、昔噂を聞いたことがありまして。狼の血を強く受け継いだ王子が北の塔に幽閉されていると」
「そういえば……。そんな話、子どものころに聞いたわ」
王族はかつて、狼の一族の血を引いていたといわれている。そうは言っても、千年くらい前の話で、今は普通の人間と何ら変わりない。
ただ、時々狼の一族の血を濃く引いて生まれる子どもがいるのだとか。
そして、そんな子どもは普通の人間には手に余る。だから、北の塔に幽閉するのだという。
「もし、その子が生きていたら、わたしと同じくらい?」
わたしは窓の外を見た。
森の奥に背の高い塔が見える。
あれが、噂の北の塔。
執事が小さく笑って言った。
「今、考えていることを当てて差し上げましょう」
「どうぞ」
「面白そうだから会いに行こう」
執事の言葉にわたしは満面の笑みを見せた。
「正解」
◇◆◇
北の修道院から北の塔はさほど遠くない。わたしの部屋の窓から見えるくらいだし。
私は馬車に乗って向かった。
「ねえ、見て。魔石がごろごろ転がっているわ」
「本当ですね」
魔石――それは、魔道具を使うための燃料だ。
石にたまった力を使い、魔道具を動かす。
大昔、世界には魔法使いがいたという。魔法使いは自由に水や火を操り、空も飛べたという。
その力を誰でも使えるようにしたものが魔道具だ。
魔法使いの力を必要にしない分、国中に広がった。
魔法使いはいなくなってしまったけれど、魔道具は日々開発されている。
魔道具が普及すれば普及するほど、魔石の需要は増えていた。
「これを売ったら当分遊んで暮らせるわね」
「そうですね。持ち帰りますか?」
「ええ、私が塔に入っているあいだ、馬車に積めるだけ積んでおいて」
売らなくても、修道院で使ってもいい。快適な上に快適が重なることだろう。
なんて最高なのかしら。
「おひとりで入るつもりですか?」
「ええ、もちろん。二人で入って何かあったら誰も助けられないでしょう?」
「でしたら私が入ります」
「だめよ。もし、わたしが戻ってこなかったら、あなたが考える最善の方法で、助けてくれればいいわ」
わたしが助けるより確実だ。
渋る執事を置いておいて、わたしは北の塔の入り口に向かった。
入り口は魔導具で施錠されている。中からは開けられない仕様。こんな不気味な塔、誰も入らないからこうなっているのだろう。
わたしは扉を開け、大きな石を置いて扉を固定した。閉まっちゃったら、中からは出られないから。
上から獣の唸り声が聞こえた。
その唸り声は人間のものとは思えなかった。けれど、こんなところに閉じ込められている獣が、ただの獣なわけがない。
ハイリスクハイリターンというじゃない?
わたしは塔の階段登った。
「ちょっと……後悔し始めているわ……」
思わずわたしは呟いた。なんてことはない。塔の階段が長いせいだ。
最近王都では魔導具で動く階段も発売された。
ここはそれを導入したほうがいいと思うの。
苦しそうな鳴き声を聞きながら、わたしは一歩一歩登って行った。
登りきった先には鉄格子がハマった扉がある。
声の主はその扉の先にいた。
「グルルルル……」
「あなたが王子様?」
窓が閉まっているせいか、黒い影しか見えない。
鎖に繋がれた獣にも見えるし、人間にも見える。
扉の近くには丁寧に鍵がかけられていた。
「人間の言葉、わかる?」
「グルルルル……」
「こんなところにいたら、わからないわよね」
ここに来たのは失敗だったかしら?
でも、ここまで頑張って登ったのに、何も得られずに帰るのは癪よね。
ぐーたらするための努力は惜しまないわたし。
でも、それは努力の先にぐーたらが待っているとわかっているからよ!
このまま努力をむだにするのは許せない。
階段分の成果は貰わなければならないわ。わたしは鍵で扉を開けた。
鎖に繋がれた男が暴れる。
鎖同士がぶつかる音が石造りの塔の中で響いた。
「まずは王子様の顔を拝まないとね」
イーサン殿下はそれなりのイケメンだったから、血縁者なら期待できるのではないかしら?
わたしは固く閉じられた窓をこじ開ける。
太陽の光が塔の中に入った。
真っ黒な髪は腰まで伸びている。
イケメンかどうか確認したくても、それは難しそう。
彼は、両手両足を鎖で繋がれていた。それどころか、首も鎖で巻かれていて苦しそう。
「グルルルル……」
「王家もひどいことをするものね」
狼の血を強く引いたからってこの扱いは、少々常識を逸脱しているように思える。
おそろしいよりも先にかわいそうだと思った。
わたしはバッグの中から非常食用に持ってきたビスケットを出す。
「お腹、すいてない?」
わたしは真っ直ぐ彼の口元に近づけた。
彼は唸り声を止め、ビスケットの匂いを嗅ぐ。そして、かぶりついた。
そうとうお腹が空いていたのね。
わたしはバッグに入っている非常食を、すべて男に与えた。
「ねえ、あなた。わたしと一緒に来ない? 来てくれたら、もっと美味しい物を食べさせてあげるわ」
「うー……」
探るような黄金の瞳。
イケメンかどうかはわからないけど、いい色だわ。
「わたしの言うことを聞くなら、連れ出してあげる」
「うう……」
「鳴いていてもわからないわ。行く? 行かない?」
人間の言葉が話せるかはわからない。しかし、まったくわからないようには思えなかった。
男は唸る。そして、口を開いた。
「……く。いく」
「なんだ。しゃべれるんじゃない。決まりね」
わたしは鍵を使って手足の鎖を解いた。
首の鎖には特殊な魔導具が埋め込まれている。おそらく彼の力を抑えるものだろう。
これは、念のためそのままがよさそうね。
「わたしはこの近くに住んでるの。案内するためにも、まずはこの長い階段を降りないと」
わたしはガックリと肩を落とした。
上るものも大変だったけれど、降りるのだって大変だ。
「降り、る?」
「そう。うちに帰るには下まで降りないと」
たどたどしいが、言葉は理解しているみたいね。わたしは彼の質問に頷いた。
「わかった」
彼はそう言うと、わたしを抱き上げた。
ふわりと身体が浮かぶ。
「へっ!? ちょっと!?」
「した、降りる」
「ちょっと!」
彼はずんずんと突き進み、わたしを抱き上げたまま、階段を降りた。
首から垂れ下がった鎖が階段に当たり、ガシャンガシャンと音を立てる。
最初は騒いでいたけれど、わたしは諦めて彼に身を任せることにした。
自分で降りるよりも楽だし。
楽ができるなら、したほうがいい。
なにせ、わたしは怠惰の化身だから。
彼は息も切らさず、階段を降りきった。
「あそこに馬車があるでしょ? あそこに向かって」
「わかった」
快適、快適。
人に運んでもらうのがこんなに快適だとは思わなかったわ。
彼に抱き上げられているわたしを見つけて、執事が持っていた魔石を手からボロボロと零す。
「お、お嬢様……?」
「連れて来ちゃった」
わたしは軽い口調で言った。
執事の頬がヒクリと跳ねる。
男が唸り声を上げた。わたしは慌てて、男の背を撫でる。
「はいはい。大丈夫。この人はわたしの執事。あなたに危害は加えないわ」
次第に唸り声は小さくなっていく。
「本当に彼を連れて帰るのですが?」
「ええ、力持ちだし、ちょうどいいわ。それに、案外いい子よ」
「おれ、いいこ」
「うんうん、いい子いい子」
わたしは男の頭を撫でた。
「さあ、帰りましょう! 我が家に!」
こうしてわたしは、王家の秘密である王子を手に入れたのだ。
◇◆◇
わたしは思わず叫んだ。
「イ、イケメンじゃない!」
小汚い石を拾って磨いてみたら、宝石だった。
艶やかな黒髪。腰まで伸びていた髪は短く切った。そうしたら、黒のヴェールの下から整った顔が現れたのだ。
陽にあたってないから色白だけれど、引き締まった肉体。
年はわたしと同じくらい? 少し年下にも見える。普通の生活をしていたわけではないから、正直見た目だけでは年齢は当てられなさそう。
本人に聞いても、一年という概念すら理解していない可能性がある。
まあ、そんなことはわたしにとってはどうでもよかった。
体力があってイケメンな人材が手に入ったのだもの。少し教育が必要なのは想定済みだわ。
「うう……」
彼は不服そうに短くなった髪に何度も触る。
わたしはほくそ笑んだ。
「いい買い物をしたわね」
買ったわけではないけれど。塔から連れ出したのだから、似たようなものだろう。
最高のできだ。
「ねえ、あなた名前なんていうの?」
「なまえ?」
「そう、名前。わたしはミランダ」
「ミラ……ンダ」
彼は何度もわたしの名前を言った。
「そう、ミランダ。あなたは?」
「……モノ」
彼は小さな声で言った。
聞こえなくて首を傾げる。
「聞こえなかった。もう一回」
「……バケモノ」
「それは……。多分、名前ではないわね」
バケモノ。そう呼ばれていたのだろう。
名前もつけてもらえなかったのかしら。
彼は難しそうに眉を寄せた。
「さすがにバケモノなんて呼びたくないし……」
名前を呼ばないで「殿下」って呼ぼうかしら? 噂を信じるならば、彼は王族の一人だろうから。
でも、一緒に暮らすのにそれは味気ないわね。
「なまえ、ほしい」
「わたしがつけてあげる。最初のプレゼントよ」
わたしは彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。見た目よりも柔らかい黒髪だ。
彼は目を細め、顔を歪めながらもわたしの手を受け入れた。
飼っていた犬に似ている。三年前に年老いて亡くなってしまった。
「オルト」
わたしは小さく呟いた。
「オルトはどう?」
「オルト……いい」
「よかった。じゃあ、今日からあなたはオルトよ」
オルトは何度も与えられた名前を口の中で反芻する。忘れないように、身体に刻みつけるようだった。
「お嬢様、失礼しま――……」
扉を叩き、執事が部屋に入ってくる。すると、オルトはわたしのうしろにしがみつき、隠れた。
「グルルル……」
警戒心強く、執事を睨む。そして、獣のような唸り声を上げた。
執事が肩をすくすめる。
「どうやら嫌われてしまったようです」
「慣れていないだけよ。すぐに慣れるわ」
「そうでしょうか?」
執事は苦笑を浮かべた。
◇◆◇
オルトが来てから、生活は快適だった。
とにかく彼は身体が強い。
そして、狩りが得意だった。狼の血を強く引いたというのは本当のようだ。
「ミランダ、これ」
「あら……! 熊じゃない!」
オルトは朝から出かけたと思ったら、大きな熊を狩ってきた。
一人でどうやって狩るのかはわからない。
オルトの数倍大きい熊を引きずって帰って来たのだ。
「もしかして、昨日毛皮が欲しいって言ったから?」
オルトは深く頷く。
オルトを連れて帰ってきてから一ヶ月。オルトはわたしにだけ懐いた。
修道院に暮らす人々を威嚇し、わたしの執事にも警戒し、わたしの側を離れない。
まあ、今までは一人で北の塔に閉じ込められていたのだから、これくらいは可愛いものだと思う。
そして、オルトはわたしの頼み事や願い事のためだけに、せっせと働いた。
わたしが「肉が食べたい」と言ったら、山に住む動物を狩り、「寒いから毛皮がほしい」と言えば、こうやって熊を狩ってくる。
「ありがとう。これでぬくぬくで眠れそうだわ」
わたしは礼を言うと、オルトが背を屈める。
これは、頭を撫でろという合図だ。
彼はわたしよりも身長が高い。座っている時は安易に撫でられる。だから、わたしは彼が座っているときにだけ撫でていた。そうしたら、いつの間にか撫でられに来るようになったのだ。
減るものでもないし、彼の髪は手触りもいいので嫌ではない。
オルトは満足そうに頭を上げると、太陽を見上げた。
「昼寝」
「そうね。そろそろお昼寝の時間だわ」
北の修道院に来てよかったことは、毎日同じ時間にお昼寝ができることだ。
それだけで、どれほど幸せだろうか。
イーサン殿下の婚約者だったときは、昼寝がしたくても社交や勉強でどうしても時間が取れなかった。
もっと早く、イーサン殿下に見切りをつけて、ここに来ればよかったのよ。
考え事をしていると、オルトがわたしをひょいっと抱き上げる。
これも日常茶飯事になってしまって、驚かなくなった。最初こそ驚いたけど。
わたしの部屋は修道院の最上階。
階段を上るのも大変なのよ。オルトが嫌がっていない以上、任せてもいいと思ったのだ。
はー、快適快適。
部屋に到着したオルトは、わたしをベッドの上に置いた。
そして、寝っ転がる私の足元に小さくなって座る。
「オルトも寝るの?」
「寝る」
オルトは短く言うと、小さく頷く。
もちろん、オルトの部屋は用意させている。
しかし、彼はそこを一回も使ってはいない。
なぜか、わたしの部屋で寝起きする。足元で小さくなって眠る。
「そこ、狭くない?」
「ない」
王都で暮らしていたときに特注で作ったベッドから、狭すぎるということはない。
飼っていた犬も、よくわたしの足元で眠っていたし、慣れている。
しかし、オルトは人間で犬ではない。ベッドの上でゴロゴロと転がりたくはないのだろうか。
「まあ、いいわ。おやすみ~」
わたしは彼に一言伝えると、彼の返事を聞く前に眠りについた。
寝覚めは最悪だ。
いつもならば、まどろみの中で起きるか起きないか、五回以上は悩んでから身体を上げる。
しかし、今日はそんな暇は与えてくれなかった。
オルトの唸り声が部屋中に響いていたから。
「グルルルル……」
「オルト、どうしたのよ?」
「音」
「音?」
わたしはふわりとあくびをして、窓の外を見る。
目の前に広がる光景に目を細めた。
馬車と兵の大群が修道院に向かってきている。
「あら。予定より早かったじゃない」
わたしが王都を去って、まだ一か月。
いつかこの日が来ることは予測していた。
一台の馬車の周りを兵が厳重に囲んでいる。
「オルト、あれは放っておいていいわ。相手にしていると時間を無駄にするから」
わたしはそれだけ言うと、もう一度ベッドの上に転がった。
ああ、眠りすぎて背中が痛い。
この痛みがまた最高なのよ。
オルトは何度か窓の外を気にしていたけれど、すぐに興味を失った。
馬の蹄の音が遠くに、聞こえる。それすらもわたしには子守歌のようだ。
うとうととしていると、足音が遠くから聞こえて来た。
そして、大きな音を立てて、扉が開いた。
「ミランダ・オロレイン! どういうつもりだ!」
怒号が部屋中に響いた。
「うるさいわ。少しは静かにできないのかしら?」
ベッドから起き上がる気にもならず、わたしはわずかに顔を上げただけで対応した。
それが、イーサン殿下の逆鱗に触れたのだろう。イーサン殿下は大股でまっすぐわたしの元まで歩くと、わたしの腕を掴んだ。
「婚約を破棄した相手に、なんのご用かしら?」
「言ったはずだ。君にはエミリアの補佐をしてもらうと」
「申し訳ございません。ご覧のとおり、婚約を破棄されたことを父に怒られ、修道院に入れられましたの」
イーサン殿下が顔を歪める。
正確には自ら進んで修道院に来たのだけれど、その辺はどうでもいい。
「しかも、王太子妃の周りで働く予定だった者たちが一斉に辞めた! 君の差し金だろう!?」
「あらあら。一介の令嬢にそんな力はありませんわよ」
みんな辞めてしまうと思っていたのよ? だって、わたしが見つけてきた人材だったから。
王太子妃となることが決まった十年前から、わたしの素晴らしきぐーたら生活への準備は始まっていた。
わたしの力なんてたかが知れている。だから、わたしはわたしよりも能力の高い人間を探すことに時間を割いたのだ。
書類整理に長けている者、計算能力の高い者、情報収集が得意な者……。
わたしって、人の才能を見抜くのは得意だったみたい。身分関係なく、能力のある人を採用していった。
すべては私の怠惰な王太子妃生活を送るために。
その計画が壊れて、みんなには手紙を書いておいたのよ。どうするかは自由だけど、王宮が嫌だったらいつでもいらっしゃいってね。
この様子だと、みんな辞めちゃったのかしら?
「おまえのせいで、母上にも怒られ散々だ!」
「あの可愛い彼女に頑張っていただけばいいじゃない? 王太子妃になると決めたのだから、それくらいの気合いはあるでしょう?」
わたしは何も悪いことはしていない。
ただ、一緒に仕事をする予定だった友人たちに、事情が変わったと手紙を書いただけだ。イーサン殿下は王太子妃の側で働く予定の者と言っているけれど、元々、わたしの元で働く予定だった者だもの。
主人が変わったら、退職を希望する可能性を考えられないのかしら?
イーサン殿下はわたしの腕を掴んで離さない。
「そろそろ離してくださらない?」
わたしが言うと、イーサン殿下の力が強くなる。
「痛いわ!」
女性の腕を掴む力じゃないわ!
すると、オルトがイーサン殿下の腕を掴んだ。
「離せ」
「……くっ!」
オルトが掴んだ手に力を加えると、イーサン殿下の手から力が抜けた。
わたしは慌てて、イーサン殿下の手から腕を引き抜く。
ああ、赤くなっているじゃない。痣になっちゃうかも。
「おまえ、嫌い」
オルトは短く言うと、イーサン殿下を軽々と持ち上げる。そして、部屋の端へと放り投げた。数名の兵士たちが抱き留めなければ、家具にぶつかっていただろう。
「オルト、だめよ。家具は全部お気に入りなの。壊れたら困るわ」
オルトはわずかに眉尻を下げた。
もし、彼に耳があったら、しょんぼりと下がっていただろう。
「バ、バケモノ……!」
イーサン殿下が下半身を震わせながら叫んだ。
オルトはその言葉に不服そうに眉をひそめる。
「バケモノじゃない」
オルトは大股でイーサン殿下の元へと歩いて行く。
イーサン殿下と彼を支えていた兵士たちは慌てて数歩後退った。
「オルトだ。ミランダがくれた」
オルトはジッとイーサン殿下を見つめる。
力の差は歴然。それはイーサンもわかっているのだろう。何歩か後ろに下がると、オルトを通り超してわたしを指差す。
「ミ、ミランダ! 用心棒を雇ったからって、いい気になるなよ!?」
「いい気だなんて。とんでもない。でも、修道士たちにも迷惑になりますから、さっさと出て行ってくださいね」
「馬鹿を言うな! おまえは私と一緒に王宮に戻るんだ!」
「いやよ。ようやく落ち着いたもの。……オルト」
オルトの名前を呼ぶと、オルトは心得たようにイーサン殿下の腕を掴む。
「離せっ! わかった。ミランダ、私の誘いを断ったこと、後悔することになるぞ!?」
「はいはい。とーっても後悔しておきますね」
「本当だ! あとから働きたいと泣いて縋っても私は絶対に雇わないからな!?」
「大丈夫です。働くのは嫌いなので」
「強がっても無駄だ!」
イーサン殿下は一通り叫ぶと、逃げるように修道院から去って行った。
本当に何しに来たのかしら?
逃げるように帰っていく馬車を窓から見て、わたしはほくそ笑んだ。
だって、この後のことは見なくても手に取るようにわかる。
王妃様は厳しい人よ。きっと、あのふわふわ頭を王太子妃に相応しくなるように教育しなおす筈。
私が十年で身につけたことを、結婚までできるとは思えない。
その前に音を上げるに決まっている。
想像するだけで、溜飲が下がった。
すると、オルトがわたしの側に跪き、わたしの手を取った。
「どうしたの?」
赤く腫れているわたしの腕に唇を落とした。そして、彼は上目遣いでわたしを見る。
綺麗な黄金の瞳と目が合って、心臓が跳ねる。
わたしはそれを隠したくて、慌てて腕を引っ込めた。
「これくらい大丈夫よ」
いつもどおり、わたしはオルトの頭を撫でる。
乱暴に。
なぜか、心臓がうるさかった。
「あいつ、嫌い」
「気が合うわね。わたしも嫌いよ」
「俺の、傷つけた」
俺の?
わたしが首を傾げる前に、オルトがわたしを後ろから抱きしめる。
「ちょっと!」
「ミランダは俺の」
オルトはわたしの首筋に顔を埋める。
ふわふわとした黒髪がくすぐったい。
心臓がいまだ早歩きしている。心臓がこんなに忙しなく動くのは初めてで、わたしはどんな顔をしていいのかわからなかった。
その日から、オルトはわたしの足元から横で眠るようになった。
気持ちよさそうに眠るオルトを見て、わたしはため息を吐く。
この拾いもの、失敗したかも。
少し幼さの残る寝顔。わたしは彼の額に唇を落とした。
FIN
お読みいただきありがとうございます。
息抜きの短編用に書き始めたのですが、楽しかったのでそのうち長編になっているかもしれません。
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