表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

詩感

作者: I.me



詩について今の自分の考えを書くと決めてから、どこから書こうか、何から書こうか。そんな事を思いながら、これを書き始めた。


はじめに、これは私の個人的な主観であり、感覚であり、ただの感想。詩はこういうものだ、なんて事を言いたい訳じゃない。はじめになってないなんて事は言わないで下さい。


私が物書きを始めて、多分九年かそこら。いつから書き始めたとか、正直よく覚えていない。ただ、言葉と向き合った瞬間みたいなものがあった事は覚えている。だから、いつから書こうか、何から書こうかと思った。


私が書き始めた頃は、ケータイ小説なんてものが流行ってしばらく、そして落ち着いた頃だと思う。その辺も、何となくな感覚。そんなものがあるんだと、いくつかあるサイトで、一番初めに見たサイトで愚痴みたいな日記みたいな、小説なんてものとは程遠い物を綴って公開した。ジャンルは、よく分からなかったから、その他だったはず。その時の事は、今でも鮮明に覚えている、内容は覚えていないけれど。ただただ、自分の気持ちとか考えとかが、どこかの知らない誰かに見られてしまうということに、恥と照れが入り交じり身体が妙に熱くなっていた。公開して直ぐについたPV数に、少し怖くなったのも覚えている。顔も見えないどこかの誰かが、私の書いた物を覗き見たという事実を覗き見た感覚だった。


それからいくつか書いて、短いものばかりだったから、ジャンルはその他とか童話とか純文学なのかなとか。色々思いながらジャンルを決めていたけれど、三つ目かそこらの書いたものにもらったコメントで、「これはこのジャンルじゃないと思います、詩とかなのかな」と、内容ははっきり覚えていないけれど、こんな感じのコメントをもらった。それからジャンルについて少し調べた、純文学って何なのだろうとか、童話ってなんだとか、小説ってなんだとか。その時は、詩の事なんて頭に無かった。ただ、自分の書いているもののジャンルが分からなかった。だから、名前のある登場人物が出てこない短い物を、詩とした。それは、コメントで詩なのかなって言われたのが頭に過ったからそうしただけで、自分で詩だと感じたからそうした訳じゃない。今でもこの感覚は少しある。詩に、分類される文章なのかなって。この時よりは、詩を意識して書いているけれど。


これは初めに伝えた方がいい事だったかも知れないけれど、私は最近まで本という存在とは縁を遠ざけてきた。それは恐らく、必要最低限以上に関わって来なかった。教科書だって、碌に読んでこなかった。丸めて棒としたり、居眠りの衝立にはよくしたけれど。読書感想文も書いたはずだけれど、何を読んだかも覚えていなくて賞を貰ったことを覚えているくらい。教科書なんて読んだのは、授業中に当てられた時に読んでその場で考えを答えたり、みんなと一緒の問題を解いたりする時くらい。ずっとスポーツとか外で遊んでばかりだったし、家に居る時はゲームをしたりしてばかりだった。周りも本を読むような友達も居なかったし、読んでも面白いなんて思った思い出が一つだって無い。勉強なんて高校三年生の夏位しか、ちょっとはしたなと思う時期が無い。本当に、無茶苦茶して過ごしていた。その無茶苦茶は、ここには到底書けるものでは無い。その理由は趣旨がズレるからということに、しておいて欲しい。そんな風に生きて来たからか、本はつまらない物だと思っていた。私は本を馬鹿にしていた。だから奇妙な事に自分が物書きをする様になって、「小説っぽくない小説を書こう」と、手探りに書き続けていた。そんなものでも見てくれる人は居たけれど、その時はまだ気紛れに書いているだけだった。小説っぽくないものを意識して書けば書く程に、自分の知識が無いことを思い知っていって。


小説って何だって、夜な夜な考えていた。そんな時期に書いた「人守の星」って詩。書き終わって見た時に、本当にこれを自分が書いたのかって、それが感想だった。だってそれは、それ迄に私が書いた物とは明らかに質が違ったから。その詩に、私は魅せられてしまった。気持ち悪いけれど、自分で書いた詩がきっかけで、私は文章と真剣に向き合い始めた。


多くの物書きをしている人は、恐らく何かの本に触れて、こんな小説を書いてみたいとか、こんな詩を書いてみたいとか、好きな文章や作家が居たりとかがあると思うけれど、私の場合はそれが無い。でも、私はその詩に詩を感じた。これは詩だと、初めて思った。そこで初めて、詩って何だってなった。調べると、詩に型はなく作者が詩だと言えば詩、という感じだった。


この時の私は、小説っぽくない小説を書くだなんて、小説を殆ど読んだ事も無いのに、無知で馬鹿で思い上がっている型破り気取りの型無しだった。譜面通りに弾いても面白くないとつけ上がる奏者と同じ、無知で可哀想なものだった。今では少し、マシになったと思いたい。


ここまで書いて、漸く前置きがかけた気がするし、まだ足りていない気もする。が、ここで詩について戻そうとと言うか、書き始めようと思う。


現代詩と言うか、そういうジャンルなのかは分からないけれど、この一年現代詩手帖や詩のコンテストなど、全てを見た訳では無いし全てをそうだと言うつもりも無いけれど、多くの詩は型破り気取りの型無しだと感じた。詩にルールは無いけれども、詩を感じるものには型が必ずあると感じる。その型については、種類分けとか分類分けが細分化し過ぎていて説明出来るものではないけれど、自分だけの型を作ろうとして詩の型を知ろうとしている人が少ないんじゃないかなって。先に書いた、型破り気取りの型無しや、譜面通りに弾いても面白くないとほざく馬鹿のように。先ず譜面通りに弾けるようになりなさいって言う人が、詩の世界では居ないんじゃないかなって。勿論私も、未だに譜面通りになんて弾けて無いとは思うけれど。それでも二百作以上書いて、進歩は見られる。その中で少しづつ、自分の型が滲み出る感覚。だから私の書いたものは、名を伏せても私の書いたものだと分かるはず。


現代詩というものに触れてから、詩を書き始めた人には違和感が無いのかもしれないけれど、私みたいな端から見た感覚では根本からズレているように感じる。詩にルールは無いし、好きなように書けばいい。これは間違いじゃないとは思うけれど、少し違う気もする。


私も誰かに詩の書き方を教えてくれと言われたら、好きなように思った事を書けって言うし。とりあえず書けって、それしか無いから。小説とかなら展開がとか、構成がとか色々あるんだろうけれど。先ず書かないと分からないから。あ、でもそれは小説も同じなのかな。だから余談になるけれど、詩を教えるとか詩の書き方教えるとか言うものを嫌悪します。教わりたい人は止めないけれど、個々の自由だし。とりあえず書けって内容に、わざわざ金を出して勝手に搾り取られて下さい。書きたいなら書け、それだけです。


話が逸れたので、少しづつ戻していきます。私は本は読んでは来なかったけれど、漫画だったりアニメやジブリ、映画に音楽も雑食に聴いてきたので、本以外のものからは何かしら蓄えられていたと思う。そしてここ最近になって、漸く本を読むようになったので、まだ数えられるほどしか読んでいないけれど、好きな本とか作家について。太宰治さんの斜陽を読んだ時の事はとても印象が残っていて、文章の底が見えないというか、対峙して背中を取れないと言うか、そんな印象を受けた。


あまり長くなってもあれなので、詩についてだとやっぱり最果タヒさんの詩は凄いと思う。本とか詩なんて読んでこなかった私ですら名前を聞いた事があったから、とりあえずこの人の詩集はいくつか読んで、夜景座生まれが好みだった。説明なんて要らないくらい、一目見て凄さが分かる詩人だと感じます。そして、詩と言えば現代詩手帖。プロの詩人を目指そうとすれば誰もが通る詩の雑誌?なのかな。これまで私はネットのコンテスト等には参加していたけれど、現代詩手帖には応募していなかった。理由は怠惰とか、詩人になりたい訳でもないし、雑誌に載りたい訳でもないとか色々あったけれど、一番の理由は郵送しないといけないから。


これが本当に面倒で、でも詩人だと認めてもらえればもっと見てくれる人が増えるし、仕方ないなとどんな詩を書く人が関わっているのかって調べると、その時一番初めに見たのが松尾真由美さんという詩人の方でした。そしてこの人の詩を見て、やっぱりプロの詩人は凄いってとても喜んだのを覚えている。こんな詩を書く人達ばかりなんだと、この人を切っ掛けに私は現代詩手帖へ応募した。クソ面倒だったけれど郵送した。何故今時郵送のみなんだとかブツブツ言いながらも郵送した。


そして現代詩手帖自体を読んだことが無かったから、本屋を巡って巡って巡って巡って、こんなにも無いのかとどこにも置いていないながら漸く見つけて買って開いた現代詩手帖に感じたのは、苛立ちすら起こらない虚しさと呆れだった。と言うか、初めのページから暗号みたいな詩だとされる文字並んでいて、?の連続だった。その他も、これは詩なのか?という感想の連続で自分の理解が全く追いつかなかった中で唯一、井上法子さんという方の詩があったことで、私の正気は保たれた。この人の詩が載っていなかったら、そのまま売りに行く勢いで価値を感じ無かった。投稿作品から載せる作品を選ぶ撰者も松尾真由美さんは関係無かった事もあり、私の気持ちは途方に暮れた。月評?は担当されていたのだけれど。その後も毎月目を通しては見るものの、?が浮かぶものばかり。自分の感覚が可笑しいのかと、普段本を読む友人や読まない友人様々に、現代詩手帖賞が載っている月号を見せて回ったけれど、私の感覚とそれらとの感想は似たようなものだった。感想の中には言葉がキツすぎてここには書けないものもあった、私も同感だったけれど。よく現代詩は難しいと言われるらしい。その通りでそれらの友人にも難しいと言われた。でもその難しいは、凄さを見た時の見上げた難しいじゃなくて、建前で言う見下した難しいだった。俳句や短歌に対する難しいとは訳が違う。


でも悔しさは無かった、それらは私の感じる詩では無かったから。ただ、これがプロの詩人への登竜門という認識の賞であるということは、その詩が公に現代に書かれた詩の代表になるわけで。でもその詩を見た一般の感想は少なくても十数名が全く同じ意見で、見下したものだった。これは詩なのかって、これが詩なのかって、これが一番優とされるのかって。作品も作者も悪くないのに、あれは選ぶ側の責任が大き過ぎる。小説では芥川賞や名だたる賞がいくつもあって、メディアにも取り上げられて。同じように中原中也賞や現代詩手帖賞含めいくつか賞があるのに、全くと言っていいほどこれまで目にも耳にもしなかった訳が、この時理解出来た気がした。


本屋に行っても詩集が置いてある事も少ないし、置いてあったとしても本当に少しだけ。小さな本屋も大きな本屋も関係なく。内情は分からないけれど、この状況は詩の賞で作品をちゃんと選べていないからと感じた。好みや感情で選べるのは撰者の特権だけれども、詩に仕える事柄として多くの人に見てもらえるような流れを作るように選ぶのは撰者の責任だと思う。努力や頑張りなんてものを、評価の基準に加えないで欲しい。それらは当たり前のことだから。そんなものが評価の一部に入っていることが低レベル。入り口の狭さで誤魔化さないで欲しい。詩の業界の内情がどうなっているのかは分からないけれど、選ぶ側の責任は重大だと感じた。


だから歴代の現代詩手帖賞の詩人とその撰者を遡って見た。ここで自分の感覚を信じても良いと確信出来る事実に気が付いた。私が先に書いた一目見て凄さが分かる詩人だと言った最果タヒさんを現代詩手帖賞に選んだ撰者が、私が詩に本腰を入れる切っ掛けとなった松尾真由美さんだった。


この事実を知った時は、人間の感覚って本当に凄いと思って信じられなかった。そして最果タヒさんと同時に賞を貰っていた望月遊馬さんという詩人の方も、もっと人気があっていいはずの詩を書いていた。


最果タヒさんの詩は流星群みたいな詩、望月遊馬さんの詩は丁寧できめ細やかで滑らかなクリームみたいな印象の詩、松尾真由美さんの詩は曲線自体というか雫とか流水の流れそのものみたいな、私の語彙力では説明出来ないくらいに文章の質が違う詩を書いていて。そしてこの人の凄いところは、それをSNSで公開している所だと思っている。あんなにも凄いものが書けて、選評を務めるほどの人なのに、詩を知ってもらうこと、見てもらおうとする事にも努力している所。埋もれてしまわないように、知ってもらう努力をしていることに本当に感謝している。だってこの人が詩を公開していなかったら、私は詩を蔑ろにして見下して高を括る所だった。この人が詩を公開していなかったら、私は恐らく詩を書くことを馬鹿にしていた。また本を読んでいなかった頃へ逆戻りするところだった。だから本当に感謝しかない。


私は人には恵まれていて、私の書いた詩を見たのを切っ掛けに詩に興味を持ってくれた方が居て、わざわざ私の作品や参加したコンテストの他の作品まで見てくれた。その方は本も読むし映画や音楽と趣味も多彩。しかしそこでもやはり、賞に選ばれていたものや他の作品に、詩を感じないというものだった。私はこの時、猛烈に悔しく、申し訳無い気持ちでいっぱいだった。私は有名な訳でもないし、公に認められている存在でも無い。そんな人間の、しかも人気の無い詩を偶然にも触れてもらえたのに。この奇跡的な機会を、私達詩人は無駄にしてしまった。この人の期待を裏切ってしまったと。この時本当に、自分でも信じられないくらいに顔を上げられなかった。この事から私は思った、先ず詩を知ってもらう事が大事だけれども、現状の詩を知ってもらったところで人が離れていくだけじゃないかと。幸いにも、この方は私の作品を追ってくれてはいるけれど。この方にも、本当に感謝している。


詩に興味をもった方が、例えば最果タヒさんや遡って中原中也さん等から現代詩手帖やその他の詩に触れてもらったところで、詩を感じてもらえる気がしない。思っていた物と違うと感じられてしまう。書いている私ですら、そう感じるから。もし私が詩を書いていなくて、最果タヒさんや中原中也さんから現代詩手帖の流れで読んだら、そのまま詩に触れることなんて辞めてしまうもの。と言うか、私は詩を書いていたとはいえ、現代詩手帖を初めに手に取ったから、その流れが容易に想像出来る。


一般の方が想像する詩と、詩の業界でいう詩との隔たりがあり過ぎる。詩に人気が無いなんて事は無い。むしろ書いている人は沢山居るし、こんなにも曲に歌詞を乗せて歌っている人が居る。勿論、詩と歌詞が別物だと言いたいのも分かるけれど、詩には人気がある。


歌詞の事なら、詩とはまた別のものだからって言われそうだけれども、より多くの人に届くようにした形でしょ。詩の朗読から詠うことから歌う事へ発展した形でしょ。聴きやすい聴かれやすい触れやすい形になったものでしょ。勿論細かく言えば違うのかもしれないけれども、何だか詩を書いている人の中には、歌詞を見下しているように感じる。私の感覚だけれど。いや詩と歌詞は違うから、また別物でしょみたいな。私達の書いているものとは違うから、のような。比べるものでも優劣をつけるものでも無いけれど、並べた時に多くの現代詩は歌詞に劣っていると感じる。と言うか、歌詞も現代詩か。現代の詩って意味で。とて、詩の中にも私程度が見ただけでも凄く良いと感じる詩がある。多くは無いし、むしろ少ないけれど。


まだ詩を見始めて一年、本を読み始めて数年。それはこれからも多くなるから、他にも見つかると思うけれど。でも、現状詩は瀕死。本屋にも置かれないし、メディアにも取り上げられない。知ってもらう機会も少なければ、触れてもらう機会も無い。知ってもらったとて、現状の現代詩と言われる物だと去られてしまう。ただでさえ、他に面白いものも沢山ある。歌に音楽、映画にアニメ、漫画にゲーム、動画だって。


それでも私が詩を推すのは、短い言葉の中で物語も音も情景も全てを詰め込めるから。多くの娯楽で溢れている中で、仕事や生活の日々に追われる中で、不意のひと時に景色を変えられるから。詩と言うのならば一節だけでも詩を感じられるものにして欲しいし、私もそれを目指してる。


だから私は、現代詩手帖に載っていたりするダラダラとした長い詩とされているものに吐き気をがする。日記もどきの様なものや、短編小説にまで辿り着かなかったような文章、意味不明な文字の羅列。何を見せたいのかも分からないし、何を見たらいいのかも分からないし、何を見ているのかも分からない。ただページを埋めるように言葉が使われているように感じる時もある。ただその中に混じって、本当に良い詩だって感じるものがある。私はそういうものを、埋もれさせたくない。


ここまで現代詩手帖を悪く言ってしまっているけれど、ここにしっかりしてもらわないと本当にこのままじゃ詩は触れられなくなると感じるから。現状名の通った賞で、誰でも応募出来るの大きなものは現代詩手帖賞で、あとは詩集を出版していないとダメだったりするから。ここで理解して貰えるものを選ばないと、ただ選ばれた人の自己満足になる。狭い入り口を通れただけの人になる。詩は置いてけぼりで、触れて貰えない。だって皆には歌詞があるもの、詩の朗読に力を入れている方も居るけれど、歌や歌詞があるもの。数々の歌声があって、更に素敵な歌詞で溢れかえっているもの。悪く言いたいのでは無く、しっかりしろと言いたい。どうせ詩なんて誰も見ないし読まないなんて、言いたくないし言われたくないし言わせたくない。でも現状は書いている本人がどこかの片隅で思ってるし、言っちゃってる人もいる。


私の見つけた宝物を蔑ろにしないで欲しい。知ってもらう努力、見てもらえるような努力をして欲しい。手に取ってもらえるような場に、皆の視界に入るような場に、手に取って貰った時に離されないように、触れてもらった時に離さないように。


私はこれからも詩を書きます。詩人として認められたり、雑誌に載らなくたって、私の書いたものを見ようとしてくれる人がたくさん居るから。離したくないし、離されたくない。だって、その人達に恩返しをしたいから。ずっとずっと応援していくれている人に、ずっと良い景色を見せてあげたいから。


最後に、現代詩手帖を悪く言うように書きましたが、これだけ長く続いている素晴らしい本だからこそ、勿体ないという考えからです。こんなにも続いているのは、作っている方々の努力の賜物だから。だからこそ今一度、詩に仕える事柄として勝手な期待と願いを込めて書きました。気を悪くされた方々申し訳ないです。そして最後まで読んで下さり、ありがとうございます。これからも詩が沢山溢れて、詩が読まれることを願って。


I.me








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] I.meさんの詩に対する情熱や愛情が強く伝わってくる作品だと思いました。ふと自分の身を振り返った時、自分はこんなにも文学にきちんと向き合っているだろうか、と。 私も小説を書いていますが、正直…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ