78・天国の先には地獄の門
「ニア……」
男爵夫人からもう一度名前を呼ばれたけれど──父親である男爵の話は黙って聞いていたものの──ニアは顔をあげようとしない。
話を聞くまでは俺も男爵夫人に腹を立てていたが、聞いた後ではここにいる誰よりも一番納得していると思う。
俺のことで怒ってくれているニアの気持ちは嬉しいが。
「ニア、私はいじめられたなんて思っていないよ? これは本当に必要なことだったんだ。そしてニアの母親である男爵夫人にしかできないことだったと思う。だから、」「殿下、ありがとうございます。わたくしももっと良い案がないか考えればよかったのですわ。殿下にも失礼なことを……申し訳ございませんでした」
そう言ってくれた夫人の顔色は悪いままだ。
これだけ憔悴しきっているところを見ると、夫人も何かしらの大きな力を使っていたのかもしれない。
恐らく、声を出せなかったり動けなかったりしたのはそれによるものだろう。
だけどそれ以上に、この実験を行うと決めた時点で、相当なストレスを抱え込んでしまっていたのではないだろうか。お腹を痛めて産んだ最愛の娘が消えてしまう可能性だって、ゼロではなかったはずだ。
それでも決行したのは、そうなる前に止められるという自信があったから?
ニアは天使なのだから、夫人も──と考えていたら、退出するためだろうか、ソファから立ち上がろうとしていた夫人がバランスを崩して倒れかけた。
「リリィ!」「母様!」
両肩を支えていたサンデールは慌てて片方の腕を前に回して、アマリリスがそれ以上倒れないようにグッと力を込める。
セバスの腕の中から、文字通り飛んでいったサーフィニアも──父親と一緒になって支えているつもりなのだろう──ドレスにしがみついていた。
「母様! 座って!」
額を押さえながら再びソファに腰を下ろしたアマリリスは、ひどい頭痛とめまいに、本当はこのソファでもいいから今すぐにでも横になりたい気分だったのだが、拗ねていたのに母親の体調を気遣って飛んできてくれた娘の気持ちが嬉しくて、無理やり口角をあげる。
「ありがとう、ニア。もう大丈夫よ」
サーフィニアは青白い顔で微笑む母親を見て泣きたくなった。
ニアが母様を……。
「母様、ごめんなさい。ニアが治してあげるからね」
膝の上によじ登ったサーフィニアはアマリリスの両頬を小さな手で包み込むと、額をコツンと突き合わせて「母様が元気になりますように」と呟いている。
部屋に一瞬緊張が走ったものの、サーフィニアに変化は見られないことが分かると、そのいじらしく可愛らしい姿に男たちはメロメロだ。
ああ、俺も次はあんなふうに──冗談です。ケガをしないように最大限の努力をしているところです。みなさんも気を落ち着ける努力をしましょう!
サーフィニアの白金の髪が輝きながらふわりと揺れると、まるで波が伝わるようにアマリリスの髪もふわりと揺れる。
幾度かそれが繰り返されると、アマリリスの頬には赤みが戻り、艶を失っていた髪もツヤツヤとしたきらめきを取り戻した。
「ありがとう、ニア。本当にもう大丈夫よ」
再びそう言って微笑んだアマリリスは、サーフィニアを抱いたまま立ち上がる。
「今日はいろいろと疲れさせてしまってごめんなさいね。母様も疲れたから、一緒におやすみしましょうか」
「はい、母様! 母様と一緒におやすみします!」
「うふふ、何年ぶりかしらね? ニアと一緒に眠るのなんて」
ものすごくうらや──微笑ましい光景だ。けれど、唯一の味方がいなくなる。
あとに残るのは殺気立った男衆だけ。マズいぞ! と思っていたら。
「セバス、あとは任せたわよ?」
「はい、奥様。お任せください」
って会話が……ん? あれっ? 味方じゃなかったんですか!?
『申し訳ございませんでした』という言葉の裏には、あの実験にはニアと俺を引き離すことはできないのだとみんなに知らしめる為のものでもあったから、敢えて『失礼なこと』も言われたのだと思っていたのですが……。
拡大解釈しすぎでしたか!?
ほんの一瞬だったけど、男爵夫人から冷やかな視線が飛んできて焦る。
キラリと光ったセバスチャンの瞳からは命の危機しか感じない。
ヤバい、マズい! 何か──あっ、
「ニ、ニア! まだデザートを食べていないよ?」
「あっ、そうだった! 母様〜、ニア、デザートが食べた〜い」
ごくごく微かな複数の舌打ちが聞こえてきたのは……気の所為、ですよね?
◇◇◇
俺の目と鼻の先には、ニア・パラダイスが広がっている。
今度は俺の膝の上によじ登ってきたニアが、デザートの一つである桃のババロアをスプーンですくって食べさせてくれていて──とうとう天国に来ちゃったかな?
状態になっているのだ。
「はい、あ〜んして?」
スプーンでもすくえないくらいに蕩けきった顔を晒しているのが自分でも分かる。
この世のものとは思えないほど可愛らしさ全開の小さな天使が『あ〜ん』って、自らも小さな小さな口を開いて手本を示してくれるのだ。
ここを天国と呼ばずして、どこを──ナンダアレ……。
ローテーブル島を挟んだ対岸では、地獄の門がバックリと大きな口を開いている。
激しく燃え盛る業火の中には、この世のものとは思えないほど恐ろしさ全開の悪鬼が──いーち、にーぃ……四体も。
どうやら俺は焦るあまり、ただいたずらにほんの僅かな時間稼ぎをしただけで、既に開いていた地獄の門をさらに大きく広げた挙げ句、大量の油までそそいでいたようだ。
泣いても笑ってもどうせあの門に引きずり込まれるのなら──
よし。今は全力でニア・パラダイスを堪能しておくことにしよう!
◇◇◇
ズダァーン!! ガァハッ!!
訓練場についた途端、セバスチャンから地面に叩きつけられた。
倒れたままの体勢で左腕をねじり上げられ、意識が飛びそうになる。
「お嬢様に、何をした?」
けれど、そうはさせない絶妙な力加減で攻めてくる。
「……ック……ハッ、ハァ、な、なにも」「嘘をつくな」「グゥッ!」
左手の小指がミシリと音を立てる。
「この指輪を使って何かしただろう? 俺たちの目を誤魔化せると思うなよ」
この言葉に、サンデール、アクトゥール、スヴァイルの三人は目を瞬かせた。
(俺たち……って、私たちのことか?)
(そう、でしょうけど……何のことでしょう?)
(さっぱり分かりませんな)
それもそのはず、あの時指輪から放たれた光は、アマリリスとセバス。それからアズナイルにしか見えていなかったのだから。
勿論、サーフィニアにも見えていたはずなのだが、彼女はアズナイルと離れ離れになるかもしれないという恐怖で光に意識は向いていなかった。
「ほ……ハッ、ほん、とに何も……グッ……や、やめ……」
頭の天辺から薄くスライスされていくような感覚に強い吐き気を催す。と同時に、めまいと耳鳴りも襲ってきて脂汗がにじみ出る。
なん、だ、これは──逃れたくても逃れられない苦痛に押し潰されそうだ。
やっと足の先を抜けたと思ったら、今度はまたそこから始まって……。
何はなくても、とにかく俺を再起不能にしなければ気が済まないのだろうか?
真っ暗な闇の底へと沈みゆく意識の中で最後にそう思った時、あいつの魔力が少しだけ流れ込んできて、無理やり浮上させられた。
力の全く入らない体の胸ぐらを掴まれて起こされる。
「お前がお嬢様に指輪を嵌めさせたのか」
「嵌めてもいいと言ったのは俺だ」
「答えになってない。その言い草だとお嬢様が自分で嵌めたように聞こえるが?」
「……嵌めてみたいと言ったのはニアだけど、それを許したのは俺だ!」
セバスチャンの鮮やかなブルーの瞳が燃え上がると、キィィーンと耳鳴りがしはじめて、またあれが来るのかと身構えたが、
「嘘はついていないようだな……。だったら先にそう言えばいいものを──スヴァイル」
セバスチャンは申し訳程度に、俺の服に付いたホコリを払うと肩をトンと押した。
力の入らない体はそのまま後ろに倒れかかったけれど、素早く背後に回り込んだスヴァイル殿に支えられる。
それは助かったが──おい! 何が『先にそう言え』だ! 何も聞かずにいきなり投げ飛ばしたのはお前だろう! と、喉元まで出かかった言葉は飲み込む。
スライスされるのは二度と御免だからな。
息を整えて、支えてくれているスヴァイル殿にお礼を言おうとしたら「どうされます?」と聞かれた。
……もう……勘弁してくれ。
体中が痛くて頭が回らないんだよ! 執事のくせに、主語を抜かすな!
「スヴァイル〜、いくら殿下でもそれじゃあ何のことか分からないよ? ちゃんと教えてあげなきゃ。ドリンクの話ですよ、殿下。立ったまま飲むか、一度座ってから飲むのかとスヴァイルは聞きたいんです。あと三人──でいいんだよね? セバスチャン。セバスチャンは今日はもう──OK。ということで、殿下はこの後俺たち三人の相手をしないといけないからドリンクを飲んでおかないと、ですよ?」
…………アクトゥール殿、いろいろ待ってくれ。
あと三人って、ここにいる三人? 男爵も!? ていうか『今日はもう』って何?
明日もあるってこと!?
「返事がないね? じゃあもう時間がもったいないから立ったまま飲んでもらおうか? 先ずは俺からでいいよね?」
本当に──時間がもったいない! 朝から次々と山のように問題が起こって、心も体もとっくに限界を超えているんだ! 早く休ませろ!
スヴァイル殿が差し出すドリンクをひったくるように受け取ると、一気に流し込んで剣を構える。
さあ、どこからでもかかってこい!
ドリンクを飲んで体力も気力も十分だったけれど……。
力では勝てないので、アクトゥール殿から繰り出される剣は受け流し、間髪を入れずに攻め込んでいるのだが……攻め込んでも攻め込んでも切り返される。
いつだったか、セバスチャンから『今のあなたでは、アクトゥール様も倒せませんよ』と言われて──ただの捨て台詞だと本気にはしていなかったけど、それでもそう言われたことが悔しくて剣の稽古のレベルを上げた。
魔力も上がっているはずなのに、まだ一本も取れていない。
息を整えながら構えなおす。
落ち着け、相手をよく見るんだ。とにかく攻めていれば、そのうちどこかに隙ができるはず。そこを、
「ハァ……俺はもういいや。手加減しながらだと余計ストレスがたまる。次は? スヴァイル?」
……はっ!? 今なんて?『手加減』とか聞こえたよう──わーっ!!
前置きも何もなく、いきなり振り下ろされた剣をギリギリでかわしたアズナイルは「チッ」っと小さな舌打ちをした人物を信じられないといった表情で凝視する。
「スヴァイル……。いくらなんでもそれはないぞ? 殿下が傷つけばニアにも被害が及ぶんだ。気持ちは分かるが無茶はするな」
「お言葉ですが旦那様。お嬢様はあれ以上小さくならないと証明されたではありませんか。ならば少しくらい斬りつけてもよろしいのではないでしょうか」
おいおいおい! 何を丁寧に恐ろしいことを言っているんだ!
ブンッ! って空を切る音が聞こえる勢いで来ておいて、少しで済むはずがないだろう!
「スヴァイル〜。ニアは大丈夫かもしれないけど、この事がニアに知られたらどうなるかなぁ? スヴァイルの剣で殿下が傷を負ったってなれば……う〜ん、軽く見積もってもひと月は口を聞いてもらえないんじゃない?」
「ぬっ!? そんな──」
ガキィン! ガキィン!
「坊っちゃま。そんな意地悪を言うお口にはお仕置きをしなければなりませんな」
「フフーン。やれるもんならやってみてよ」
アクトゥールとスヴァイルが打ち合いを始めて、助かったと思っていたアズナイルだったがトントンと肩を叩かれて、もう一人残っていたことを思い出す。
「私のお相手もお願いしますよ、殿下。と言っても剣を握るのは久しぶりですので、どうぞお手柔らかに」
そう言って微笑む男爵に笑顔を返そうとした口元が引きつる。
先の二人よりも更に全く隙がないのだ。
構え自体は王宮騎士団が模擬戦を行うときの最初の構え通りで、お手本になりそうなくらいに正統なものなのだが、ギラギラと燃えている瞳は《実戦に慣れている》と思わせる剣士の目──どういうこと!?
ハハハハハ……。疑問はすぐに消え去って、もう乾いた笑いしか出てこない。
なぜかって?
「あっ、その前に」と言って男爵は、俺にとって本日三本目となるドリンクを差し出してきたからだ。『お手柔らかに』済ませる気など微塵もないらしい。
結局、なんだかんだで一番時間をかけて俺を潰しにかかった男爵も、終いにはこう呟いた。
「フム。アクトゥールの言う通りだな。私は利き手を封印したから更にストレスがたまってしまった」
「でしょう? こんなんじゃ眠れませんよ? 久しぶりに三対一でやりますか」
「いいですな。是非そうしましょう。セバス、異存はありませんな?」
「もちろんです」
もう俺なんかには興味が失せたというか、まったく相手にならず本当にストレスがたまってしまったというか。
セバスチャン対男爵チームで始まった実戦さながらの模擬戦は──もうもうと舞い上がる砂埃の中から剣が激しくぶつかり合う音と、飛び散る火花が見えるだけで見学もできない。稽古に活かすことはできなくても見ておきたかったのに。
諦めて目を閉じると、あっという間にすべての機能が省エネモードに切り替わる。
休息を求める疲れ果てた体と白んでいく意識の中で思ったことは、兎にも角にも、俺の世界一かわいい天使ニアには、人外の強さを誇る獰猛──化け物──魔王軍団──えーっと……そう、屈強な四神の守り神が付いているから大丈夫ということ。
ふあぁ〜……なんか忘れている気もするけれど、もう寝ます。おやすみなさい。




