8・晩餐会の裏側とその後 ①
ディナーの席につく人数よりも、はるかに多いアミューズとオードブルを作る羽目になった厨房には、流石にこれ以上はないだろうと安堵の表情を浮かべるローゼンシュタイン軍の料理人と、それを、まだまだこれからですよ! 気を抜かないでー! と祈るように見ているドイル軍の料理人。
様子の違う両軍は、まるで見えない線で分けられているかのようだった。
そこに、給仕係の一人が飛び込んでくる。
「旦那様、奥様、リゲル様が別室に移られました!」
「よし! 予定より少し早いが準備はできている。これをすぐにお出しするんだ。ダイニングの方は少しペースを落として、」
「たたた大変です! ポワソンが残り一皿になりました! ぺッ、ペースが更に上がっています!」
また別の給仕係が、息を切らせて駆け込んできた。
思ってもみなかった知らせに料理長は驚愕して固まっているが、ダイニングは緊急事態なのだ。避難命令でもなんでもいいから早く指示が欲しいところ。
「料理長!」
焦った声に、ハッと我に返った料理長は、念の為に用意しておいたポワソン三皿を持たせたが──
(ソルベは何とかなるが、アントレのおかわりがきたら……間に合わない)
窮地に立たされた料理長は、苦渋の決断でドイル家の副料理長に目を向けると、頷きが一つ返ってきた。
「ライラお嬢様は、ソルベにフルーツをお出ししても意に介されません。果皮の硬い葡萄を持ってきていますので、それで時間を稼ぎましょう。アントレは……一皿毎にウインナーの山盛りを挟んでお出しすれば凌げると思います」
副料理長は確信を持ってもう一度頷いてみせたが、料理長は──俺の自慢のフルコースディナーに、アントレとしてウインナーの山盛りを?──とか思っているのだろう。口があんぐりと開いている。
気持ちは分かるが、背に腹はかえられない。料理長の英断を求む!
胸の前で両手を握りしめ、副料理長は必死の思いで料理長を見つめた。
そうこうしている僅かな時間にも「ラスト、一皿ですぅ!!」と悲鳴のような声が飛び込んで来る。
そうだ、悩んでいる暇はない! 個人の感情は捨て置き、一致団結してこれを乗り越えなければ、ローゼンシュタイン侯爵家と俺たちに明日はない! といった雰囲気になりつつある。気づけば、見えないわだかまりの線もきれいに消えていた。
「みんな、聞こえたな! ソルベのシャーベットに葡萄を添えて、ライラ様には別盛りの葡萄もお出しするんだ。特盛──いや、鬼盛で! あとは肉を焼く者と、ウインナーを炒める者に分かれて、とにかく焼いて焼いて炒めまくるんだぁぁー!」
ウオォォォォォー!!
料理人としてその雄叫びはどうかと思うが、厨房が完全に一つになった瞬間だった。
◇◇◇
戦いすんで日は暮れて。正しく、戦場の跡地のような厨房では、魂の抜けたローゼンシュタイン家の者たちが〈もし、ここを辞することがあっても、ドイル子爵家だけには行くまい〉と固く心に誓い、ドイル家の者たちは、ソルベからの参加だったので楽をしたはずなのに、不完全燃焼感を味わっていた。
「申し訳なかった」ローゼンシュタイン家の料理長が頭を下げ──
「あなた達の助けがなければ、とてもこの難局を乗り切ることはできなかった。己の慢心が招いた失態だ。本当に情けない……」──ガックリと肩を落とす。
「いいえ! この国で──いえ、この大陸中を探しても、こんな展開を予測できる人は、まずいないでしょう。我々は日々難題にさらされているので何とかなっているだけです。寧ろ、流石は侯爵家の料理人だと敬意を抱きました!」
グルメモンスター(お嬢様ごめんなさい)と初めて対戦したのにこの手際の良さ。
自分はどうだっただろうか? と振り返ってみても、到底このレベルには達していなかったな、と苦笑いがこみ上げる。
「因みに、ライラ様の朝食はどれほどご用意すれば」
そこはやっぱり気になりますよね。でも、大丈夫ですよ!
「想定される分の仕込みは、すべて終わっております。お嬢様方の今晩の話し合いの結果にもよりますが、恐らく、明日するべきことが決まれば(ダイニングに)長居はしないと思いますので、それほど心配されなくても大丈夫でしょう」
是非とも、副料理長の言う通りになってもらいたいものだと思いながら、何から何まで異例づくしだった今夜のディナーを振り返る。
ドイル子爵家の者たちの手を借りながらだったけど、なんとか乗り切った。
次回は、もう少しうまくやれる自信もある。
が、多分、ライラ様をお迎えすることはもう二度とないだろうとも思った。
今なら理解できる。こうなる事が目に見えていた子爵家としては、本当はクラリスお嬢様を招待したかったはずだ。
不測の事態によりそれが叶わなかった為、格上の侯爵家に対して失礼な行為にも当たりかねない料理人の派遣を敢行したのは、ドイル子爵家にとっても苦渋の決断だったに違いない。
残念だが、お互いにもう会うことはないだろうと思いながら、今日の健闘を称え合い、がっちりと固い握手を交わしたあと、ドイル家の者達は帰って行った。
因みにその後、酒場で偶然ばったり再会した料理長と副料理長は、あの時の話題で盛り上がり、今ではすっかり飲み友達である。
◇◇◇
「いやぁ〜、それにしても、実に良いタイミングだったな。王宮からの使者殿に感謝しなくては」
執事が用意した部屋に入り、ソファにドカリと腰を下ろしたところで、侯爵がやれやれと言った表情で呟いた。
「それで、使者殿はどちらに?」どう見てもこの部屋にはいない。
というか、王宮からの使者の前でこんな事を呟くようなことは勿論しないが。
「おりません」
「……おりません? まさか、もう帰られたのか!?」
「いえ、帰られるも何も、元々お見えになっておりませんので」
どういうことだと、三人は顔を見合わせる。
「ハロルド、分かるように説明して頂戴」
「はい、奥様。王宮からの急使というのはマーム様の提案です。ディナー開始後、折を見て発動するようにと。つまりは、旦那様方が疲れ果てた時点で。ということです」
なんだ、それは? 疲れ果てたら発動? まぁ、確かに疲れたというか、前代未聞の展開に驚きすぎたというか……。
なるほど、マーム殿はこうなることを見越していたというわけだな。
いや、それにしても本当に助かった。あのままダイニングにいたら、しばらくは食事の度に魘されたかも知れないからな。
侯爵があれこれ考えているところへ、卵スープの中にモチッとした麺や小さくカットした鶏肉や野菜を入れて蒸した物と、フルーツが運ばれてきた。
「おお! これは……流石はハロルド、私達のことをよく分かっているな」
「いいえ、旦那様。これもマーム様の提案です。食欲のない時でも食べられる物を用意しておくように、との事でした」
何っ!? これも? 事前の説明では、このようなことは何も……。
「ハロルド、この邸の主は私で間違いないか?」
「寝惚けるにはまだ早い時間ではありますが、間違いございません」
侯爵が子供の時から(その頃は執事見習いだった)ローゼンシュタイン侯爵家に仕えるハロルドは、なかなかに毒舌だ。
「では、邸を誰かに乗っ取られたとか……」
「早急に目を覚ましませんと、そうなるやも知れませんな」
「ハロルド、私に冷たすぎないか?」
「そんな事よりもハロルド、私は明日の朝食もここで頂きたいわ。お願いできるかしら?」
侯爵の発言は、愛妻により『そんな事』としてバッサリ切り捨てられた。
「畏まりました、奥様。旦那様とリゲル様は如何なさいますか?」
「そうだなぁ、私は──そうだ! 気分転換も兼ねて、庭の四阿でとるのはどうだろう? 春の花々が見頃を迎えているではないか?」
「いいですね、父上。爽やかな一日の始まりになりそうです」
親子で、いい案だと頷きあっているところへ「私は、ここがいいわ」と、水を差すような声が割って入る。
「お庭での朝食は確かに素敵だと思いますけど、春とはいえまだ朝は少し寒いですわ。風邪でも引いてしまったら、先日のクラリスの二の舞いですわよ。それに、うっかり見つかって、私達も一緒に、なんて事になったらどうなさるのです? 急使は何度もやって来てはくれませんよ?」
寒さよりも、それが最大の理由だろう! と思った侯爵とリゲルだったが、確かにありえすぎる話で怖い。
ディナーの様子を思い出して、ブルッと震える三人を黙って見ていたハロルドは、何食わぬ顔で脅──警告する。
「そういえば、クラリスお嬢様も元々お食べになる方でしたが《あの高熱》以来、満腹中枢が少しおかしくなっておられるように見受けられます。旦那様方も体調には十分お気を付けくださいませ」
「「「…………」」」
「そうだな、風邪を引いてしまっては気分転換どころではないな」侯爵は、こめかみを押さえる振りをして。
「そうでしょう? 油断は禁物だわ」侯爵夫人は、少し乱れた髪を整える振りをして。
「確かに。母上の言う通り、朝はまだ少し肌寒いですしね」リゲルは、落ちてきた前髪をかきあげる振りをして。
そっと、熱がないかを確かめていた。
先ほど《ブルッ》としたのは、原因が違うと思うのだが……。
「それでは、明日の朝食もこちらのお部屋にご用意させていただきますので、安心してやけどの心配のないディナー(スープのがぶ飲みで、口内が大変なことになっているのを見越し、適度に冷ましてある蒸し料理)をお召し上がりくださいませ」
軽く頭を下げたあと──明らかに色んな意味で安堵している、似た者夫婦、似た者親子をもう一度見て──やれやれと小さく息を吐き、ハロルドは部屋をあとにした。