70・もう一人のニア
ニアと別れてから落ちるように進んだ先に、膝を抱えて蹲る人影を見つけた。
何者だろうかと気配を探ってみたが、知っているようで知らない、知らないようで知っている……不思議な感じがしただけで、何者なのかは分からない。
ただ一つ分かったことは、ここに来るまでニアはこの声に苦しんでいると思っていたのだが、声の主もまた嘆き悲しみ苦しんでいるのだということ。
かすかに震える細い肩を怖がらせないように、そっと話しかけた。
「ねえ、君。どうして泣いてるの?」
一瞬ビクッとはねた肩はそのまましばらく固まっていたけれど、膝を抱えていた腕をそろりと解いて、涙を拭いているようだ。
そうして、サラサラの黒髪を片耳にかけながら、ゆっくりとこちらに振り向いたその顔は──ニアに似ている気もするが、全くの別人にも見える。
別人に見えたのは、その大きな瞳も《黒》かったからだと思う。
「……誰?」
涙に濡れた大きな瞳と首を傾げる仕草が──色こそ違えど──ニアにそっくりで、俺は今、もう一人のニアと向き合っているのだと感じた。けれど、
「俺は……アズナイル。君は?」
「私は《なつ》よ」
俺のことが分からないらしい『なつ』と名乗った少女に、軽いショックを受ける。
絶対にニアだと感じるのに、俺のことを忘れているのか、本当に知らないというのか……。それに《ミーニア》ならまだしも《なつ》って誰だ!?
この時、もしかしてニアは二重人格者なのか? と考え始めていた俺は、このあとに訪れる衝撃の事実なんて知る由もなかった。
◇◇◇
まさか「君は二重人格のうちの一人なの?」と聞くわけにはいかないから、ここへ来るきっかけになったことを、もう一度聞いてみる。
「えっと……なつ? 君はどうして泣いてたの?」
「だって、ここには誰もいなくて……一人ぼっちなんだもん」
一人ぼっちで……淋しいから泣いていた? いや、違う。聞いたこっちまで胸が苦しくなるようなあの泣き方は、それだけが理由じゃないはずだ。
「それが理由なの? じゃあどうして君はこんな所に一人でいるの?」
「だって……上にいる子が……」
「上にいる子って、ニアのこと? ニアがどうしたの?」
「ニア?……もうちょっと長かった気がするけど、なんかそんな名前。あの子は私がいると困るんだって。邪魔者なのよ……私は」
……あれ? この子もニアのはずなんだけど、なんかイメージが……と思いつつも、今は質問を重ねるしかない。
「どうして困るんだろう? ニアは誰かを邪魔者扱いするような子じゃないんだけどね」
「そうなの? じゃあ邪魔者ってまではいかないのかも知れないけど、とにかく困るらしいの。だってあの子──あっ、これ内緒ね? 王子様が好きみたいなんだけど、身分が違いすぎるんでしょう?」
ブフォォっと吹き出しそうになったのを既のところで止める。
こっ、あっ、えっ!?
……ハァァ……待て待て、落ち着こう。告白されたわけじゃないんだぞ?
あくまでも『好きみたい』と言ったんだ。それも、ニアであるなつが言っただけで、サーフィニアであるニアは言っていない。……ハァ、ややこしい。
「だから、付き合うのは無理だって分かってるのよ、あの子も。だけどね、私がいたら、友達でさえもいられなくなるばかりか、嫌われるって思ってるみたいなの」
確かに、ニアもそんなことを言っていた。『私のことを嫌いになる。もう友達でもいられなくなる』って……途中で遮ったけど。
「私はバツイチだからダメだって」
「……バツイチ?」
聞いたことのない単語に首を傾げる。
「うん、バツイチ。……えっ、知らないの? ああ、そっかぁ、あなた外国人なのね? 目は青いけど髪が黒いから日本人かと思ってたわ。カラコンじゃないんだ。あっ、バツイチってね、一度結婚したんだけど別れちゃった人のこと、離婚歴のある人のことをそう呼ぶ──あれ? ちょ、ちょっと! 息して、息!」
バッシバシっと激しく背中を叩かれて逆に息苦しくなったので、手を掴んでやめさせる。すぐには声が出なかったから。
聞いたことのない単語の次は、意識が吹っ飛びそうな言葉が次々と聞こえてきて──意識だけの状態の今、意識が飛んだらどうなるのだろう? と、どうでもいい事が頭に浮かんですぐに消えた。
もっと他に考えることが──というより、頭の中を整理しないと、酸欠か爆発で命を落としそうだ。
えーっと……。上にいる──いや、ニアはルシファード王国に住んでいる十二歳の女の子で、目の前にいる《なつ》は……やはり同じ歳くらいに見えるけど、り、離婚歴のある、なんて言ったっけ? あっ、ニホンジン? ということは、つまり…………どういう事?
考えても全然分からない。
首をひねったままの俺の片方の手がクネックネッと動いた。見ると、なつの手を掴んだままだったことに気づく。
が、そこから視線を逸らすことも、手を離すこともできない。
今や、ニアのイメージはガラガラと音を立てて崩れ去ったあとなので、顔を上げ、なつの顔を見るのが怖いのだ。黒い髪、黒い瞳のなつの顔を見てしまったら、ニアが消えてしまうような気がして。
「アズ……」
そんな意気地なしの俺に、なつが小さな声で呼びかける。無視するわけにもいかずノロノロと顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、かわいい眉をキュッと寄せて、心配そうにこちらの様子を窺っている──ニア、だった。
あぁ、自分のバカさ加減に腹が立つ。
何がイメージだ。そんなの、俺が勝手に作り上げただけのもの。
どんな姿形だろうと、どんな性格だろうと、根本的なものは何も変わっていない。
いや、変わっていないのではなく、これがニアなんだ。
顔だけが好きなのではない。性格が好ましいだけではない。勿論、どちらも好きなんだけど、俺はきっと、ニアの魂が好きなんだ──ニアの魂に惹かれたんだ。
そのことに気づいたら、この先に何を聞いても何が起こっても、この手を離すことだけは絶対にありえないのだ。と、改めて強く思った。
「よし。なつ、ニアのところに行こう。俺がついてるから大丈夫。一緒に行こう? 君たちは、二人で一人なんだから離れていちゃダメだ」
掴んでいた手を優しく握りなおして、自分の方に引き寄せたが……。
「無理よ。ここからは出られないの……多分、あなたも、もう出られないわ」
……はいぃ? 何だって!?
来る時は落ちていくような感覚だったから上を目指してみたけれど、すぐに壁のようなものに阻まれたので横に進路を変えたが、またしても阻まれた。逆も然り。
ここがどん底なのか、これ以上は下にも行けず……というか、せまっ!
えっ? すごく狭いんですけど!?
いやいや……あれっ? 出られないのに何で入れたんだよ!
「ねっ、出られないでしょう? あの子は私を隠しておきたかったのに……どうしてここへ来たの? 帰れなくなるって思わなかった?」
そんなこと──そういえば『帰ってくるわけない』とニアは言っていたけれど、こういう意味だったのか!? そんな……
ダメだ、必ず戻ると約束したんだ! 何とかして──
「ねえ、それよりあなたもここで一緒に暮らしましょうよ。ここ数日は友達の声も聞こえなくて、本当に淋しかったの」
「……それは、できない。必ず戻ると約束したんだ。……彼女に、伝えたいこともあるからどんなことをしてでも帰らないと」
「んー、だけどいま無理をしなくても、そのうち出られると思うのよね、私は」
「そのうち、じゃダメなんだよ」
何を根拠に出られると思っているのか『そのうち』がいつなのかも、俺には見当もつかないというのに……彼女は彼女、だから分かるというのだろうか?
「んーと、何かね? 近づいてる感じがするの。あの子が気づく時が」
「何に?」
「王子様と結婚したら、何れは王妃様にならなきゃいけないってことによ」
ん? そうは決まっていないと思うが。
うちなんかは王子が三人もいるから、誰が王位を継ぐかもまだ──待てよ、父上はあの時なんと言っていた? 確か……そうだ『光の子が現れたら次代を担う者の妻として、王妃として迎える』と言っていたな。
ニアが光の子であることは、もう間違いないと思う。あの白金に輝く髪がその証拠だ。だけど……。
「えっと、それはどういう意味かな? ニアは……王妃様にはなりたくないってこと?」
「そうよ、あの子は面倒くさがり屋だからね。王妃様になんて《絶対に》ならないわ! そうしたら、私はかえって好都合でしょう? バツイチの転生者なんて、絶好の言い逃れに使えるもの。その時が来れば、私たちはここから解放されるのよ? 無理せずともね」
「…………」
にっこりと微笑むなつを見て、頭が痛いどころか、割れそうになってきた。
もう、ヒビくらい入ってるんじゃないか?
ハァァ……。ガンバレオレ、マケルナオレ、カンガエロ〜。
ええーっとぉ……王妃様にはなりたくないんだな? 別にいいぞ、俺も王位なんて全く狙ってないし、どちらかといえば俺も面倒くさがり屋だからな。
そんなことよりも『絶好の言い逃れに使える』って言った時には、すっごい嬉しそうに、ガッツポーズを取っていなかったか? それほど嫌なんだ……王妃になるのは。
まあ、それもどうでもいいけど、その言い逃れは、俺がニアを妻に迎えるにあたっては、一切通用しないからな?
バツイチも転生者なら問題ないというか……二重人格者ではなくて転生者だったのか。古い本で読んだ時にはまさかと思っていたけど、本当にいるんだ。
とはいえ、ここにいる《なつ》は前世の記憶として存在しているだけのものなのだろう。
おっと! 謹んでお詫びと訂正をしなければ。
先ほど、バツイチも転生者なら問題ないと言いましたが、正しくは、現にバツイチだろうが、バツイチが二つだろうが、例え夫がいようが、奪ってでも妻にします。の誤りでした。
あっ、最後の部分はオフレコで。
あと一つ、何か引っかかったんだけどな……。
ああ、あれだ『ここ数日は友達の声も聞こえなくて』ってやつだ。
前世の記憶だから、その友達とやらも実体はないと思うけど……。
「ねえ、なつ。友達って誰? 声しか聞こえないの?」
「そうよ、声しか聞こえないの。私はここから出られないからね。友達は三人いるのよ。はるでしょ、あきでしょ、それからとーこ。私たちはとっても仲良しなの」
「……そうか、仲のいい友達が《三人》もいていいね」
「うん!」
なるほど……。三人の友達……とは偶然か? うん、偶然だ、偶然。
そうではないにしても、ここから先はもう俺の管轄外。
聞かなかったことにして、とにかく早くここを出よう!
「ニィ──」あっ、あと一つ大事なことを聞いていなかった。
「ニアは王妃様になりたくないだけで、王子様と結婚する気はあるんだよな?」
「う〜ん……。身分的に無理なのは分かっているようだから、どうかなぁ。私をここに閉じ込めたのは、せめて友達でいたいってだけの事だから。……だけど、性格的に無理だと思うの。王子様が他の人と結ばれたら、きっと姿を消す──」
「ダメだ!! そんなの許さない!」
姿を消す!? 俺の前から? それで、前いた世界に戻るとでも──
「二アァ! 二アァ! 聞こえたら返事をしてくれーー!」
嫌だ、ダメだ、そんなの耐えられない! 誰か! 誰かっ!!
『万が一の事が起こった時には……私の名を……』
そうだ──セバス!
「セバスチャーン!!」
アズナイルがセバスの名を叫んだ瞬間、胸ポケットから飛び出した《折り鶴》が大きく羽を広げた。アズナイルはなつの手を握りしめると、飛び立とうとする折り鶴の尾にしっかりと掴まったのだが……。
壁をぶち抜いて狭い部屋を飛び出した時には、握りしめていたはずのなつの手は消えていた。
俺じゃダメなんだ。ニアでないと、なつを──ニアの心を一つにできない。
なつ、待ってて。必ず君をニアの元に呼んであげるから!
アズナイルはそう固く心に誓いながら、サーフィニアの待つ光の元へ、折り鶴とともに上っていった。




