61・悲しいときほど
《プラント領=おにぎり》のクルスは、満面の笑みで寝室の扉を開いたが、目の前の光景に一瞬、顎が外れた。
「ちょちょちょちょっとー!! エル──トナ? だよね? だ、だめだよぉ!」
クルスの焦ったような大声に、寝室に残っていた三人は何事かと背後から覗き込んで──やっぱり顎を外した。ルーカスを除いて。
いつの間に入り込んだのか、クラリスがいただけでも驚きなのに……。
目の前にいるのは、シクシクと泣いているクラリスを膝の上に座らせて、プラチナブロンドの髪を撫でながら、でろっでろに甘い顔と声で慰めているエルトナ。
に、よく似た《他人の空似男》……だろうか。
「エッ、エルトナ? だよね!? ロ、ローゼンシュタイン嬢は殿下の婚約者だよ! そそそんなことして……大問題になるよ、早く膝から下ろして!!」
「対外的にはそうだが、実際は違う。クラリスは生後三ヶ月の時から俺のだ。問題など全くない」
──しかし『俺のだ』と言ってこちらに向けた顔は、見覚えのありすぎる口の悪い氷の貴公子のそれだった。にしても、文句があるのか? といいたげな、冷たく見られがちな薄いスカイブルーの瞳と、壊れ物を扱うような仕草で髪を優しく撫で続けている大きな手とのギャップが激しくて、どこから突っ込んだらいいのか分からない。
しかも、生後三ヶ月の時からって……ヤバい人確定だ。
当のエルトナからしてみれば、先ほど悲惨な目にあったので思いっきり癒やされたかっただけなのだが、泣いてはいるものの、恐る恐る引き上げた膝に大人しく座っているクラリスが可愛すぎて有頂天になっている。
五年もの間、クラリス不足に陥っていたのだから、そりゃぁもう! だ。
有頂天男は誰も何も言わないのをいいことに髪を一房すくい取り、口をつけようとしたが、突然部屋の温度が上がったような気がして顔を上げると、無表情のアズナイルの髪の毛が真っ赤に染まりながら、一本残らず逆だっていく様が目に入った。
ヤベっ、調子に乗りすぎた!──てか、何だあれ!?
とにかく急いですくった髪から手を離すと、アズナイルの髪もすぐに元の黒髪に戻ったので、ホッと息を吐いたエルトナはクラリスを促す。
「ほら、クラリス。アズナイルに言うことがあるんだろう?」
涙をこぼしながらうんうんと頷いたクラリスが、涙に濡れた瞳でアズナイルを見上げた。エルトナは、その瞳を隠してしまいたい衝動に駆られたけれど、ここは我慢をする場面だと自分に言い聞かせてぐっと耐える。
扉の横に放置されていた時、クラリスは気づいてしまった。
アズナイルが取り乱して怒っていたのは自分が原因だと。
──殿下はお嬢様のことが好きだったのに、婚約者候補の一人である私が、どちらにもベタベタとくっついていたせいで想いを伝えることができなかったのね。それでイライラしていたところに、お嬢様がいなくなった、なんて聞いたからあんなに取り乱していたんだわ──。
これは、完全なる思い違いである。とまでは言えないが、一要因にしか過ぎないということをクラリスは知らない。だから、
「殿下、ごめんなさい。私、知らなくて……。本当は、殿下のことなんて全然好きじゃないんです。ごめんなさい」
なんて、素直な本音がするりと口をついて出てしまう。その結果、
……。うん。知ってたけどね? そういう言い方をされると、俺が一方的に振られたみたいに聞こえないかな? いや、別にいいけどね、絶対に勘違いをするやつが出てくると思うのは俺だけか?
と、アズナイルが思った通りのことが起こってしまった。
「フッフォッフォッ。アズナイルよ、残念じゃったのぉ〜。こぉ〜んなにかわいいお嬢ちゃんから振られおって──おお! そうか、そういうことじゃったか。やはりあっちのお嬢ちゃんは間違った方向に突き抜けよったんじゃな。なるほどのぉ」
ルーカスは長い髭を撫でながら、うんうんと頷いた。
今思い返してみても、あの時のサーフィニアの様子はどこかおかしかった。ルーカスとしてはサーフィニアにアズナイルを推していたつもりだったが、彼女はそれに気づいておらず、逆に親友で婚約者候補のクラリスを推しに回ったのだろう。
しかし、他に好きな人がいたクラリスにはそれを受け入れることができなかったのだ。これを疑う余地はない。
現に、謝罪をしている場面だというのに、その人の膝の上から降りることはなく──アズナイルは振られた形になってしまっているのだから。
というのが、学園での出来事を知らないルーカスが導き出した答えだ。
うんうんと一人で納得した様子のルーカスに、一同は顔を見合わせたが誰もが首を振る。意味がわかる者はいないと判断したアズナイルはルーカスに問いかけた。
「先生『あっちのお嬢ちゃん』というのはサーフィニア嬢のことですか」
「勿論じゃよ。いやな、わしゃお嬢ちゃんにも幸せになってもらいたくての、一生懸命アズナイルを推したことがあったんじゃが、推せば推すほど話が噛みおうておらんような気がしとったんじゃ。それでも最後には『頑張ります!』というたから安心しとったんじゃがのぉ。やはり間違った方向に頑張りよったんじゃな? やれやれじゃ」
どういうことだ?……まさか──とアズナイルが再び口を開くよりも、クラリスの方が一足早かった。
「先生、それはいつ頃の話ですの?」
「ん〜、ちょうど一週間前くらいかのぉ」
それを聞いたアズナイルは、やはりそういうことだったのかと、やりきれないような、でも少しホッとしたような変な気持ちになった。
王宮での一件のあと、ニアの態度が急によそよそしくなったのは、先生が余計なことを──いや、俺を推してくれたんだ、そんな事を言ってはいけない。
……が、推し方が下手だったんじゃないのか? だからニアは誤解して、あんな態度を取らざるをえなくなってしまったんだ。ニアは、すすんで俺から離れようとしたわけじゃなかったんだ!
これは、完全なる思い違いである。と言える。少なくともあの時点では、サーフィニアは自ら距離を置く決意を固めていたという事実を、アズナイルは知らない。
一方でクラリスは──。
一週間前と言ったら、お嬢様から私が殿下の正式な婚約者に決まったと聞かされた頃ね。……お嬢様は一体何を頑張ろうとしたのかしら?
えーっと。先生は、お嬢様にも幸せになってもらいたくて殿下を推した、のよね?
多分……殿下がお嬢様を好きなことを知っていたから。
まあ、できればお嬢様の気持ちも考えてほしかったけど、王族となら問題ないだろうと思ったんでしょうね。
だけど、殿下はいつの間にお嬢様のことを──あっ! 数年前にプラント領に視察に行った時ね? エルトナも王都にいなかったからよく覚えているわ。
そういえば、あの朝、自分から殿下に声をかけたお嬢様に少し驚いたのよね。
あの時は、初めて会うはずなのにって思っていたから。
それで、顔見知りなら一緒にサロンでランチを、と何度も誘ったんだけど頑なに断られたのよ。
自分で始めたことだけれど、かなり気まずかったから一緒に来てほしかったのに、『おじゃま虫にはなりたくないわ。ほら、王子様を待たせちゃだめよ』って、毎日笑って送り出されて……。
『白馬に乗った王子様、ついにゲットじゃない。やるわねぇ』
ふと、お嬢様が言っていた言葉が頭に響いた。
そうだ。あの時いいことがあったんだって、すごく嬉しそうに笑って、不自然なくらいにはしゃぐその姿に、私たちは違和感を覚えたんだっけ。あれって……。
何かが引っかかったクラリスに、遠い記憶が蘇る。
お嬢様が子供のように可愛がっていた猫が亡くなった時──『老衰なんだから仕方がないよ。大往生でしょう? 動物病院の先生も、こんなに長生きした猫は初めてみたって言ってたもん。私はその子の育ての親だよ! すごいでしょう! 偉いでしょう?』
なんて言って笑って、どう見ても、愛猫を亡くした悲しみに沈んでいるようには見えなかったのに、それから少しして体調を崩したお嬢様は、ひと月ほど私達にも会おうとはしなかった。
思えば、お嬢様はいつも悲しいときほど明るく笑って、みんなに心配をかけないようにしていたけれど、結局は体調を崩して────さっき、ノリス様はなんと? お嬢様の体調が優れない、って言わなかった?
体調を崩したの? どうして? いつも笑っていたから分からない。
悲しいことがあったなんて──
『クラリス様を待っておられたのですね?』『おじゃま虫にはなりたくないわ』
あぁぁ……嘘よ、嘘だわ! だって! だって、そんなこと……。
たどり着いてしまった答え──恐らく、正解──に、頭が真っ白になる。
「──、──ス。クラリス!」
「ハッ、えっ、な、なに?」
パンドラの箱を開けてしまったクラリスは、深い穴の中に落ちていきそうな感覚にとらわれていたが、エルトナの声に引き戻された。
「……何を考えている?」
「べ、別に何も?」
「そうか。ならいいが、一つだけ言っておくぞ。お前は何も悪くない。こんな事になったのは、拗ねてぐずぐずしていた俺のせいだからな? そこは間違えるなよ」
きっぱりとした口調でそう告げるエルトナのスカイブルーの瞳には、心配の色が滲んでいる。
……すべてお見通しってわけね。だけど、あの話を聞いた時、直接あなたに問いただしていれば、あんな馬鹿な真似はしなかっただろうし、こんな事にもならなかったかも知れないの。そう言っても、あなたは譲らないでしょうから……ごめんなさい、甘えさせてもらうわね。
クラリスは、エルトナの膝から滑り降りながら不機嫌な顔をつくる。
「そうよ? 全部エルトナのせいよ。あなたが──ハァ、もういいわ。大体、お嬢様がいないのは分かっていたのだから、私までこんなところに来る必要なんてなかったのに……。皆様、お邪魔しました。ごきげんよう」
「クラリス、待て! 帰るなら送っていく。まだ雷が」「結構よ。今日はお父様の代わりにお兄様が出仕しているの。一緒に帰るから大丈夫よ。あなたはこれからお仕事でしょう? ついてこないでね」
アズナイルにカーテシーをしてから優雅な足取りで部屋を出たクラリスは、パタリと締めた扉に背を預けて小さく口を開いた。
「私も、あなたのことが一番大事よ──男の人ではね……」
◇◇◇
閉まった扉を心配そうに見つめていたエルトナの頭から、春色の花びらが吹き出し始めたように見えた背後の三人は──どんどん人相が悪くなっていく。
ルーカスが後ずさりを始めるほどに。
(((おい! プラント公国が誕生するかも知れないっていう王国の一大事に、お前は何やってんだ! 俺たちを差し置いて、一人だけ幸せに浸るなんて許さんぞ! 膝の上に座らせてイチャイチャとか──今度は俺たちが見せつけてやるからな!!)))
少しの建前と大きな本音が入り混じった背後からの不穏な気配などものともせずに、幸せな気分に浸っていたエルトナは、部屋を出たクラリスが一つ下の階に降りた途端に、猛ダッシュで走り去って行ったのには気づかなかった。
◇◇◇
「のう、のう、のう! もうええじゃろう? 春ボケ坊主のことは。それよりも、胸にしまっとるその面白そうなもんを早う見せてくれんかのぉ」
ルーカスはノリスの袖をクイクイっと引っ張る。
引っ張られたノリスはちろっとルーカスを見て──やはり追い出したほうがいいのではないかと思ったが、確かに転移は便利で、この先必ず必要になることは分かっていたので諦めた。
「これは殿下宛の封書です。先生にお見せするかどうかは殿下次第ですので、大人しくお待ちください」
なんじゃあ、ケチ坊主め。わしゃ内容よりも封書自体に興味があるんじゃよ!
「プラント邸の前にいたという男からか」と尋ねながら、アズナイルは封書を受け取る。宛名もなければ、ひっくり返しても送り主の名前も書かれていない。
それでも、間違いなくセバスチャンからだろうと思って開いた手紙はプラント男爵からのものだった。
〈アズナイル殿下へ〉と書かれた手紙には、体の具合をとても心配していること、それから、娘を助けてくれたことへの深い感謝の念が丁寧に綴られていた。
しかし、未だ目覚めぬ娘に妻の心が限界を超えたため、領地に引き上げることにしたこと。今は、お礼も言わずに王都を去ることを許してほしいという謝罪の言葉。そして最後は、いつか娘が目覚めたら、その時に改めて感謝の意を伝えに参ります。と締めくくられていた。
未だ目覚めぬって……。ニア、どうして……?
手紙を握りしめたまま力なく腕を下ろしたアズナイルの顔は白く、声をかけるのも躊躇われるほどだが、側近としては何が起こっているのかを知っておく必要がある。
「殿下……。手紙を拝見してもよろしいですか」
躊躇いがちなノリスの声にアズナイルは手紙を差し出したが、受け取ったノリスはすぐに困惑した表情になる。その手紙──紙には何も書かれていないのだ。
「……。これは一体、」「見してくれ!」
了承もされていないのに、ノリスの手からルーカスが紙をかっさらう。
「ほぉほぉほぉ! やっぱりの! いやはや、あの兄さんはほんと〜にすごいのぉ。わしゃ弟子入りしようかの?」
エルトナとクルスは先ほどからずっと置いてけぼりをくらっていて、何が何だかさっぱり分からないが、白紙を奪われたノリスも訳がわからない。
「「「どういうことです?」」」
首を傾げる三人をぼんやりと見ているアズナイルに、ルーカスは紙をひらひらさせながら問いかけた。
「アズナイルよ。これには何が書かれておった?」
面倒臭い……。読めば分かるだろう? ああ、そうか──だったら「ノリス、読んでやってくれ」俺はそれどころじゃない。
「殿下、そうしたいのはやまやまですが、いくら私でも白紙を読むことはできません」
「はぁ? 何を言ってる。白紙だと?」
冗談に付き合ってる暇はないと言おうとしたアズナイルを制して、ルーカスは得意げに胸を張った。
「これにはの? 指定した相手にしか読めん術がかけられておる。わしも随分と練習をしたんじゃが、どうにもうまくいかんかった。これほど」「殿下、一体何が起こっているのです? その手紙にはなんと? 教えていただかなければ手のうちようがありません」
ほっ!? まだ話の途中じゃぞ! んーもう、わしゃ知らん!!
珍しく怒ったというか、拗ねたというか。とにかく機嫌を損ねたルーカスは、プラント領まで一人で転移してしまおうと思ったが──すぐに、そうはできない事情があるのを思い出したので、取り敢えず……厨房に転移した。




