59・突然の雷雨と消えた天使
朝と呼べる時間帯が終わりに近づいても、アズナイルは目覚めない。
ヴィクトリアとルーカスはつきっきりで、レオナルド、レグルス、セリオスの三人は交代で、一つの変化も見逃さないように見守っていた。
◇◇◇
明日からまた憂鬱な日々が始まるかと思うと気が重いノリス。
食欲もあまりないのだけれど、食べないと母親が心配するのでダイニングに降りていったのだが。
「母上、おはようございます」
「おはよう、ノリス。よく眠れたかしら?」
「はい。まあ、なんとか……。父上と兄上は? まだお休みですか」
父のノーマンは昨夜帰りが遅かったからまだ寝ているのかも知れないが、兄のノートアは週明けの休日はいつも父の代わりに出仕しているので、もう起きていないといけない時間なのにダイニングにその姿はない。
「お父様はね、あなた達が休んだあとに、また王宮から呼び出されたのよ。王妃様がお戻りになられたそうだから、しばらくはゆっくりできると言っていたのにねぇ。ノートアも夜明け前に大臣から呼び出されて、もう出掛けたの」
王妃様が戻られた? まだあと一週間ほど先だと聞いていたのに……。
でも、そうか。それならこちらの問題も解決してもらえるかも知れない。
解決の糸口が見えたノリスは、久しぶりに食欲も湧いてきた。
「そうでしたか。それにしても、夜明け前に呼び出された兄上は災難でしたね。今日は出仕の日だったのに、朝まで待てない案件でもあったのでしょうか」
「詳しいことは分からないのだけれど、邸の売却申請があったのですって。だから行かないわけにはいかないけど、いくら二十四時間受け付けているからと言って、何も夜明け前に出さなくてもいいと思わない? 何をそんなに急ぐ必要があったのかしらね」
「そうですね」と返しながら、頭をよぎった嫌な予感を振り払おうとしたノリスだったが、うまくいかなかった。
考えすぎだといいのですが……。
◇◇◇
「あれっ? お〜い、ノリス〜、おはよう〜」
休日だというのに、珍しく外出しているノリスを通りの向こうに見つけたクルスは大きく手を振った。
エルトナなら、わざと無視して走って逃げるふりをして遊ばれるのはいつものことだが、ノリスは違う。冷たいようでも、友達と認めている者には優しいのだ。
律儀に立ち止まって待ってくれている。
「おはようございます。また石拾いにでも行くのですか」
「違うよぉ。な〜んか殿下のことが気になっちゃってさぁ。顔でも見に行こうかなぁ〜って。ノリスは?」
「……ハァ、ショックです。まさかのクルスが同じ事を考えていたとは」
それほど優しくもなかった。
「え〜、そんなこと言ってぇ、本当は嬉しいんでしょう? 僕達気が合う」「雨でも降らないといいのですが」
「ちょっと〜、それどう──」
バリッバリバリバリィィドッオオォォォーーン!!
「ギャャアァァァ!!」
薄曇りだった空が一瞬で真っ暗になったと思ったら、凄まじい轟音が響き渡った。
次いで、大粒の雨が叩きつけるように降り出して、通りを歩いていた人々が大慌てで建物の中へと避難していく。
「ほっ、ほらぁー! ノリスが変なこと言うから! 僕達も早く王宮に──って待ってよ! どこ行くの!? そっちの道は──待ってってば!」
空を見上げて、嫌な予感が直感に変わったノリスは王宮とは反対の方向に走り出した──直感が当たらないでほしいと願いながら。それに戸惑いながらもクルスは後を追う。
少し走ると前方に不思議な光景が見え始めて、二人は思わず立ち止まる。
「ね、ねぇ。あそこって……サーフィニアちゃんのうち、だよね?」
激しい雨に打たれる周りの家は霞んで見えにくくなっているのに、プラント邸だけははっきりと見える──というか、そこだけは雨が降っていないのだ。
呆然と立ち尽くす二人の目の先に、邸の中から見慣れない若い男が出てきた。
誰だろう? と考える間もなく、その男が手にしていた物を認めると、ノリスはギュッと目を瞑り、クルスは驚愕に目を見開く。
「ね、ねぇ!? あれって!……」
それは、空き家である期間をできるだけ短くするために、王都内で売りに出された家の前には必ず設置することが義務付けられている、人目につきやすい赤のリボンで繋げられた三本の赤いポールで──ノリスの直感が当たってしまったことを示すには十分すぎた。
「たたた大変だ! 殿下に知らせないと!!」
「その前に正確な情報──クルス!!」
振り向きもせずに猛スピードで駆けていくクルスを追いかけるよりも、やはり正確な情報を入手する方が先だと、ノリスも張り付いていた足を動かして、男の元に向かった。
◇◇◇
休日の朝の訓練が終わると、いつものように自分の部屋のテラスから、この五年間一度も開くことのないクラリスの部屋の窓を眺めていたエルトナは(ストーカーではない)突然響き渡った轟音に思わず首をすくめた。
「おわっ! 急に来たな。予兆なしかよ……」
雨の匂いは敏感に感じ取り、降られる前に部屋に戻ったが、直後に降り始めた雨にけぶるクラリスの部屋を振り返る。
そういえば、あいつの親、昨日から留守にしてて、戻るのは今日の夕方じゃなかったか? マズいな。行くか?……だけど避けられてるしなぁ。
ハァーっとため息を吐いた時に、二つ目が落ちた。
〈──! ──!!〉
躊躇している場合じゃない! 外套を手に取ると庭を横切り柵を乗り越え、勝手知ったる隣の家に素早く忍び込む。
玄関から行かなかったのは、主がいなくても自分は入れてもらえないことが分かっていたからだ。
子供の頃から、万が一のことが起こったときのために様々な救出経路をシミュレーションしておいてよかった。万が一のことがまさか雷だとは思っていなかったが。
クラリスは雷が大の苦手だ。両親が不在の今、怖くて震えて泣いている。
あの場所で。と思った通り、クローゼットの中からくぐもった声が聞こえてきた。
小さな泣き声と──。
エルトナは小さく笑ってから、コンココンとノックを三回。そして「お呼びですか? お姫様」と囁きかける。すると、離れていた時間などなかったのだと思えるくらいに真っ直ぐに、プラチナブロンドの天使が腕の中に飛び込んできた。
「ナー! 遅いぃ!!」
胸に顔を埋めて泣きじゃくるクラリスをエルトナは思いっきり抱きしめて、その髪に顔を寄せる。そうして、忘れられない、忘れたことなどない甘く優しい香りに包まれると──自分のバカさ加減がよく分かった。
この温もりと、五年ものあいだ離れていられたなんて、信じられない。
あの日に戻れるのなら……着替えなんてどうでもいい、クラリスを一人にするなと。アズナイルだからと安心せずに、すぐに迎えに行けと。想いも告げずに高を括っていたバカな男を殴りつけに行くのに。
こんなバカな男より、クラリスを傷つけることなく幸せにしてくれる男は山ほどいるだろう。だけど──。
「ごめんな」
腕の中の大事な温もりがビクッと揺れて、琥珀色が恐る恐る見上げてくる。
何を言われるのかと、不安に揺れる瞳をしっかりと受け止めて──
「俺は、」「──。──、──!!」
……。嘘だろ? 冗談だよな? 今、ものすごく大事なところなのに……。
邸前の通りを、クルスが大声で叫びながら駆け抜けていった。
優秀なエルトナの耳はそれを拾う。クルスもそれが分かっていたから邪魔を──
一大事を教えてくれたのだろうが。
「ああぁー! ッソ! クラリス、悪い。話はまた今度だ。アズナイルの元に」
「もういい! 結局エルトナは、私なんかより殿下のことが大事なのよね! バカトナ! もう二度と」「アホか! お前より大事なものなんてあるわけないだろう!! だけど今は──。……お前の大切なお嬢様に何かあったらしいぞ?」
そう言った途端、腕の中の温もりが消えた。
「何かって、何?」
……。俺、お前より大事なものなんてないって言ったんだけど? そこは?
「ねぇ、お嬢様に何があったのよ」
何だよ。お前の方こそ、俺よりもサーフィニア嬢のことが──
「エルトナ。適当なことを言って誤魔化すつもりなの?」
ハァ……。嫉妬している場合じゃないな。
「適当なことじゃない。クルスが言うには──いいか? サーフィニア嬢に何かあったのは間違いないだろうが、あいつはかなり慌てていたから情報に信憑性はないぞ? だから落ち着いて聞けよ」
「わかったから、早く教えてよ」
「……サーフィニア嬢が売りに出され」「何ですって!!」「だから落ち着けっ」「冗談じゃないわ! そんなこと許さない!」
と叫ぶが早いが、クルリと背を向けて駆け出そうとしたクラリスの手を掴み取る。
「待て! どこに行く気だ」「お嬢様の家に決まっているでしょう!」
そりゃそうだろうな。だけど。
「いや、家に行くよりも王宮の方が情報が集まりやすい。待ってろ、馬車を用意するから」
「そんな悠長なことしていられないわ! ナー、お願い。馬で連れて行って」
お前は本当にズルいよなぁ。俺がお前の頼みを断れないのを分かっていてそう言うんだから。
チラッと見た窓の外は、止む気配のない土砂降りの雨が降り続いている。
エルトナは少し考えたが、馬ならクラリスを外套とマントで包んで、この腕の中にしっかりと抱きしめたまま王宮まで行くことができる。
よし! 馬に決定だ。
◇◇◇
慌てたおかげで王宮に一番乗りしたクルスだが、どれだけ激しい雨に打たれようと少しも冷静にはなれなかったらしい。
ノリスとエルトナの期待を裏切ることなく、衰えを知らないテンションのまま、アズナイルの部屋に飛び込んだ。
「でででで殿下ぁぁ! たたた大変です! サッ、サーフィニアちゃんが売られましたぁぁーー!!」
急に暗くなってきたなと思っていたら、空が破れたような雷鳴がとどろき、一瞬の間もおかずに爆発的な落雷の音が鳴り響いた時、誰もが耳をふさいで目をギュッと瞑る中、ヴィクトリアだけは期待の眼差しをもってアズナイルを振り返って見たが、その瞼が持ち上がることはなかった。
王宮を揺るがすほどの激しい爆音が響いても、未だ目覚める気配をみせないアズナイルのことが心配で、食事も喉を通らないロイヤルファミリーとルーカスは、アズナイルの部屋で外よりも暗く沈み込んでいたのだが、そこにクルスが飛び込んできたのだ。
ノックもなしにいきなり部屋に転がり込んできて、大声を上げながらそこら中に水しぶきを撒き散らすクルスに驚くしかない。
そんな中、誰よりも早く一連の出来事を、順を追って拾い出したレグルスの顔が青くなる。が、少なくともプラント男爵夫妻はそんなことをするはずがないと思い直す。聞き間違いだ。
そう思って問いただそうとした時、背後でガシャン! と大きな音がして、みんなが一斉に振り返ると、そこには──鞘から抜いた剣を支えにして──アズナイルが立っていた。
「プラント男爵夫妻が、そんな真似をするはずがない。ニアは売られたのではなく、攫われたんだ。クルス、場所はわかっているんだろうな? 今すぐ、そのふざけた奴のところへ案内しろ。叩き斬ってやる!!」
王都中の者が震え上がったであろう、あの凄まじい落雷にも目覚めなかったアズナイルが、サーフィニアの危機の知らせにはあっさりと目を覚まして、さしものヴィクトリアも呆れて言葉が出ない。
「クルス、肩をかせ」
「えっ……えっと……」
ここで漸く部屋の雰囲気がおかしいことに気づいたクルスはキョロキョロと周りを見回したが、驚くことが立て続けに起こりすぎていて、誰もクルスの戸惑いに気づかない。
ど、どうしよう。ぼ、僕、サーフィニアちゃんがどこにいるのかなんて、知らないよぉ。
「どうした、クルス。早く肩を」「無理じゃ」
ただ一人、クルスの戸惑いに気づいたものの、ヴィクトリアが何とかするだろうと思って黙っていたルーカスは、一向に動き出さないヴィクトリアにしびれを切らして、クルスに助け船を出した。
「ルーカス先生……。邪魔をしないでください」
「邪魔じゃと? 自分の姿をよう見てみぃ。剣の支えなしには立ってもおれんもんに、何ができるというんじゃ?」
「できる、できないは関係ないんです。クルス、もういい。先生も、これ以上邪魔をするつもりなら」「遅くなりました。殿下、サーフィニア嬢の居場所が分かりま、した──とにかく、心配はいりませんので座って話しましょう」
プラント邸の前にいた男から話を聞き出したノリスが、やっとのことで王宮にたどり着いてみれば、目的の部屋はなかなかに緊迫した雰囲気が漂っていて、アズナイルの様子もおかしい。どうやら一人では立っていられないようだ。
父上が呼び戻されたのは、これだったか。
「どこだ、ニアはどこにいる」
「それを今からお話しますので、ソファにお座りになってください」
「ノリス! ニアはどこだと聞いている! 早く言え!!」
剣を支えにして立っていたのは明らかだったのに、一瞬で間を詰められたノリスは驚きに気を取られ、崩れ落ちそうになるアズナイルの腕を取りそこねた。
その腕と体を受け止めたのは、たった今到着したばかりのエルトナだ。
「あっぶね」
有無を言わさず、アズナイルをひょいと肩に担ぎ上げたエルトナは、スタスタと部屋を横切ってソファに落とした。
「ハァ、どうしたアズナイル。心配いらないというノリスの言葉が信じられないのか? 何があったかは知らんが、居場所だけ分かればいいってもんでもないと思うぞ。それにサーフィニア嬢にはセバスチャンがついてるだろ。少し落ち着け」
軽いめまいを起こしていたアズナイルは、ソファに背と頭を預けて目を固く閉じたまま上を向き、浅い呼吸を繰り返す。そうして最後に一つ、深く長い息を吐き出した。
「あいつの力が及ばないこともある……。だが、エルトナの言うとおりだ。ルーカス先生、失礼しました。ノリスも、すまない」
落ち着いたアズナイルの声だけが聞こえる部屋の中。扉の横にそっと置かれた外套とマントの塊の中では、クラリスが息を潜めていた。
部屋に入るやいなや『動かないで』と囁いたエルトナに置いて行かれたが、言われなくても動けそうにない。
何? 何が起こってるの? ニアって……お嬢様のことよね?
殿下は、どうしてあんなに怒っていたの。エルトナに窘められるくらいに、何をそんなに取り乱していたの……。
行きつきたくない恐ろしい考えが浮かんだクラリスも、めまいを起こしそうになっていた。




