6・エーデルは休みたい
結論から言うと……お嬢様ではなかった。らしい。
◇◇◇
ロータリーに着いたら馬車を降りてもいいという約束を、じっと大人しく守っていたクラリスとベルは、着くやいなや、マナーを守るほどの余裕はなかったらしく、素早く飛び降りると、その人を目掛けて転がるように駆けて行った。
「「あきぃ、あきぃ、あっきぃー、あぁーきぃぃー!!」」
その人の、驚きに見開かれた瞳はコバルトグリーンで、四人の中でも特に混じりなく真っ黒だった髪も綺麗な栗色に変わっていたが、それは紛れもなく《あき》だった。
「とーこさんに……はるさん?」
三人のうちの誰かには確実に会えるだろうと思っていたあきだったが、まさか二人同時に現れるとは予想もしていなかっただけに、そう呟くのがやっとで。
「そうだよ、そうだよぉ〜、はるだよ、とーこだよぉ〜」
「あき、会えて良かった! でもなんで王宮に来なかったのよ!」
正直、王宮ではお嬢様のことだけで頭が一杯だったクラリスは、あきのことを考える余裕がなかったと言うか、忘れていたと言うか……。まぁ、その事すら今はすっかり忘れ果てている。
「だって私は──私は今、ライラ・ドイルと言うの。子爵家だから今日のお茶会には招待されていないのよ。年齢的にもね。二人はお茶会の帰り、でしょう? お嬢様は?」
ライラに『お嬢様は?』と聞かれて、何から話せばいいのかと二人が迷っていると、
「お嬢様、お話中失礼いたします。ここで立ち話もなんですから、ライラ様も邸にお招きしては如何でしょうか」
馭者にロータリーをグルグル回っておくように指示した後、二人を追ってきたエーデルが助け舟を出してくれた。
「そうね、そうしましょう。あき、じゃなかったライラ、話せば長くなるの。今からはる──じゃない、あーもう! 兎に角、今からうちに来て!」
「そぅそぅ、今日はぁ、クラリスの邸にお泊りよぉ〜」
「えっ、泊まるの?……分かった、ちょっと待ってて」
ドイル子爵といえば、領地で栽培しているお茶や花をどんどん品種改良し、それらを使った新しい商品も次々に生み出しては販売まで手掛ける、やり手の実業家としても知られている。
王都にも、特産品や珍しい異国の品を販売する店を構えているので、名ばかりの伯爵家などよりもはるかにお金持ちだ。
ロータリーを通る全ての馬車に、珍しい薄青色のバラの花を一本ずつ手渡ししているスタッフは、その店の者たちだろう。皆、仕立ての良い制服に身を包んでいる。
きれいなバラと品のいい制服。
あの《センスゼロマークの旗》さえなければ完璧なのに。とクラリスが思っているところに、スタッフの一人に話しかけていたライラが戻ってきた。
「家の者に言伝を頼んできたから、安心して私を招いてもいいわよ」
(((……安心して、招く?)))
よく分からなかったが、これも聞けば長くなりそうな予感がしたので、疑問はさておき、丁度戻ってきたローゼンシュタイン家の馬車にみんなで乗り込んだ。
◇◇◇
ローゼンシュタイン邸に無事に帰り着いて、今日ほど安堵の深ぁ〜いため息を吐いた日はないだろうとエーデルは思う。
しかし、まだのんびりしてはいられない。
軽いランチを兼ねたお茶会に行ったはずなのに、殆ど飲まず食わずで過ごした挙げ句、何度も何度も泣き叫び……結局、カフェにも寄らずに直帰したため、急いでお茶の準備をしなければ、干物令嬢二名様が出来上がる。
干物令嬢たちと比べたら、ライラ様は《まとも》そうで良かった!
と、この時までは思っていたのだ。この時までは。
そのまま庭に出ることができるガーデンテラス付きの応接室に、三人を押し込──案内したエーデルは、ようやくホッと一息ついていた。
客室の準備はハウスメイドにお願いしたし、ディナーの追加のお願いに行ったときには『貴族のご令嬢が二名増えたところで、さして手間は掛かりませんよ』と、優しい料理長がにこやかに微笑んでくれた。
『三人でゆっくりしたいから、あとは自分達でするわ』と言われたので、お茶のおかわりの心配もしなくていい。
今日は本当に疲れた。お願いだから、もうこのまま何も起こらずに一日が終わって欲しい。
そもそも頻繁に話に出てくる『お嬢様』とは一体……。
顔どころか名前も分からないなんて、最早エーデルにとってそれは架空の人物、或いは新種の花か、幻のお菓子の名前なのではないか?
と思ってしまうのも仕方がない気がする。
ローゼンシュタイン侯爵令嬢であるクラリス様は、本当に可愛らしくもあり、美しくもあり、それでいて十歳とは思えないくらいの落ち着きを持っていた。
五歳上の兄、リゲル様よりもしっかりしているのでは? と思うこともある。
しかし、あの熱で寝込んだ日から、少し──いや、かなり性格が変わってしまったような気がしてならない。
などと、つらつら考えながらお茶を飲んでいると、仲の良いメイドのジュリアが休憩室に駆け込んできた。
「エーデル! ちょっと厨房に来てくれる? ドイル子爵家から料理人軍団が食材抱えてやって来て、うちの厨房と揉めているのよ!」
……あーあーあー聞こえませーん。とか言ったら駄目ですか?
◇◇◇
充分な広さがあるはずのローゼンシュタイン邸の厨房は、今やちょっとしたお祭り騒ぎ♪ だったらどんなによかったか。
料理人にとって厨房は聖域。特に、料理長にしてみれば自分の城。
と言っても過言ではない。……かも知れない。
そこへ他家の料理人達が食材まで抱えて押しかけて来たのだから、聖域は一触即発の状態に陥っていた。
つい先程、にこやかな笑顔をみせてくれていた料理長はもうどこにもいない。
「私達では力不足だと仰りたいのですか? そちらのお嬢様を満足させることなどできはしないと。まさかとは思いますが、ドイル子爵様は、このローゼンシュタイン侯爵家に喧嘩を売っておられるのですか」
料理長はプライドを傷つけられ、言葉遣いこそ丁寧ではあるものの、身体全体で怒りを露わにしている。
「とんでもございません! 確かに我々は主から仰せつかって参りましたが、それはローゼンシュタイン侯爵家の皆様を侮っているとか、ましてや喧嘩を売るなど、露ほどにも考えておりません! ただ、そのぉ……うちのお嬢様は、その、とにかくよく食べるのです……」
「よく食べると仰いますが、こちらには食べ盛りのご嫡男、リゲル様もおります。ご令嬢の食べる量などリゲル様に比べれば、せいぜい半分、がいいところでしょう?」
男性と女性の食べる量を比べても……とエーデルは思う。そもそも今回に限って言えば、体格も年齢も違う。
ライラ様は、クラリス様より一つ年下なので九歳。かたやリゲル様は、今年王立学院に進学される十五歳だ。
それでもわざわざこうしてやって来たのには、他にもなにか訳があるのだろうか?
「あの、それだけではないのです! その、あの、食べるスピードも速くて! その、なんと言いますか……」
「ローゼンシュタイン侯爵家では、晩餐会も月に数回開いております。お客様の食べるスピードに合わせ、滞りなくサーブをするなど容易いことです。食材に関しても、急な来客に備えて普段から多めに準備しております。そちらが心配されようなことは何もございません」
ドイル子爵家の皆様は、もう涙目だ。
それでも一歩も引かないところを見ると、我々には計り知れないことが起こりうるのかもしれない。
エーデルは、ここで割って入ることにした。
「分かりました」「エーデルさん!」
不服そうな顔を向ける料理長を目で制し、エーデルは続ける。
「少しの間、様子を見てみましょう。オードブルと──料理長、本日のディナーにアミューズは?」
「はい、お出しします」
「そう。では、アミューズとオードブルで様子を見てみましょう。食べる量までは量れませんが、スピードの目安はつくでしょう。九歳とはいえ貴族のご令嬢ですので、周りのスピードに合わせて召し上がることはおできになるでしょうが……」
確認の意味を込め、ライラ様の侍女らしき女性をちらりと見る。
ロータリーでライラ様が最後に声を掛けていた人物だ。
「エーデル様、ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。ライラお嬢様付きの侍女、マームと申します。私からも少しお願いしたいことがございますが、宜しいでしょうか」
「マーム様、よろしくお願いします」
いつも、一番近くでライラ様を見ている侍女の言う事なら、まず間違いないだろうと思ったけど。
「ではまず、ローゼンシュタイン侯爵様ご夫妻と、ご嫡男様は向かいの席に座られるでしょうが、是非、クラリス様もそちら側の席に。もう一人のご令嬢はそういう訳にもいきませんでしょうから、うちのお嬢様とはなるべく、できるだけ、席を離してご用意してください」
まさか、席順にまで口を出されるとは思ってもいなかった。
「……お嬢様方の席は、横並びで考えております。今日あったばかりとは思えないほど仲もよろしいようですので、席を離してしまうのは難し」
「エーデルさん! お話中すみません! 指示を頂きたいのですが!」
今度は、ジュリアの後輩メイドであるメアリが厨房に飛び込んで来た。
「……何事です?」
「あの! クラリス様が旦那様方との並びの席にして欲しいと。それから、ベルビアンナ様もクラリス様の隣がいいと仰っていますが、流石にお客様の席をそちらに用意する訳には……どういたしましょう?」
「…………」
どういう事? と首を傾げるエーデルの前で、マームは、そうでしょう、そうでしょう。ベルビアンナ様とやらは、よく分かっていらっしゃる! とばかりに頷いている。
分かるも何も、三人は今日初めてあった筈だけど?
もう今日は考えるのも面倒になってきたエーデルは、マームのオウムになることに決めた。
「クラリス様の席は旦那様方と同じ並びに。ベルビアンナ様の席は、ライラ様とできるだけ離して準備してください。それで宜しいのですよね? マーム様」
「はい。それが皆様の為です」
「…………」
すぐに準備して参ります! と去っていくメアリの背中を追いかけて行きたいエーデルである。
気を取り直して、他にも何かあるか尋ねると、出てくる出てくる。ちっとも少しなんかじゃない、お願いの数々……。
「次に、先程のお話にありましたテーブルマナーの件ですが、ライラ様は周りの皆様に合わせて食事ができる時と、そうでない時があります。今日は間違いなく後者でしょう。
ですから、アミューズを五皿──いえ、十皿。オードブルは、取り敢えず五皿。それらをカートに乗せて、できればライラ様の席の横に配置してください。サーブには私がつくとして……それとは別に、三名様分のカトラリー等を、別のお部屋に用意しておいてください。
それから、ローゼンシュタイン侯爵様ご夫妻が食欲のない時に、これなら食べられるという物を、ディナー開始から二、三十分が経過しましたら、そちらのお部屋でお出しできるように準備をお願いします。
ダイニングを出るタイミングとしては──絶対に断れない相手──王宮から急ぎの使者が来たということにしましょう。
うちの者達は、侯爵家の調理の手順を勉強させていただくかわりに、野菜の皮むき、皿洗い、なんなら翌日の仕込みでもなんでも言いつけて使ってください。
勿論、持ち込んだ食材も是非! 自由にバンバン使って頂きたいです。取り敢えず、こんなところでしょうか」
もう、どこから突っ込めばいいのかわからない。
ローゼンシュタイン家の者たちはポカーンと、ドイル家の者たちは、うんうん、是非是非と頷いている。
……そろそろ、気を失ってもいいですか?