47・帰りたい
〈……きて……〉
父王の執務室に向かっていたアズナイルは、サーフィニアの声が聞こえたような気がして足を止めた。
「殿下、いかがなさいましたか」
「いや、今──」
言いかけたところで、今度は袖口に何かが引っかかったような気がして、手を上げて確認するがなにもない。
けれど、嫌な予感がする。
「戻るぞ」「殿下! お待ち下さい!」
踵を返した俺に、ザードが焦ったような声をかけてくるが、一度ざわめき始めた心は落ち着かず、不安だけが広がっていく。
とうとう走り出した俺は、階段の手前で誰かとぶつかりそうになって慌てて避けた。
「アズナイル殿下、どうかされましたか」
驚いた顔でこっちを見ているのは、先程言伝を持ってきたツゥエル。
「部屋に戻る。父上は後回しだ」
陛下ではなく、敢えて父上と口にすると、ツゥエルをかわして階段を駆け上る。
「「お待ち下さい!」」
ザードとツゥエルが追いかけてくるが、待ってなどいられない。もっと早くに引き返せばよかったと後悔しながら、離れすぎた執務室への道をひた走った。
◇◇◇
その頃、レオナルドは──
さて困った……息子達がコソコソと隠し事をしておるから、意表を突いてやろうと思って来たが、何を話せばいいのじゃ?
舞踏会での挨拶や、デビュタント達に祝いの言葉をかけたりする事はあるけど、デビュタント前のご令嬢と差し向かいで話をした事などないレオナルドである。
いかん、このままでは弁の立つウェルシータの息子に追い出されるぞ! 何か、何かないか?……おっ? おお、そうじゃ!
「そう言えば、そなたはローゼンシュタインのクラリス嬢と仲が良いそうじゃな」
思いがけず、親友の名前が出てきた事にホッとするサーフィニアとは対照的に、嫌な予感がマックスを超えた側近達の顔色は悪い。
「陛下、そろそろお戻りになられないと……宰相が捜しておられるのではないでしょうか」
「分かっておるが邪魔をするでない。わしは今サーフィニア嬢と話をしておるのじゃ、のう? それで、どうなのじゃ? 学園でもいつも一緒だと聞いておるのだが」
学園の事まで!? 陛下って凄いのね──じゃなくて。
「はい、クラリスと──様とは、親しくさせて頂いております」
「おお、おお、やはりそうであったか! うん、うん。これからも二人まとめてよろしく頼むぞ」
「……二人?」
ベルビアンナとライラもいるから、三人なんだけど。
「そう、二人まとめてじゃ。クラリス嬢はアズナイルの婚約者候補じゃからの」
エルトナは「バカ、余計なことを!」と叫びそうになったのを既の所で耐え、ノリスはため息を飲み込み目を閉じた。
ん? 陛下は今なんて言ったの? クラリスと……レオンが何だって?
「……あのぉ」
「ん、何じゃ? うん? もしかして、聞いておらんのか? なんと! クラリス嬢も案外シャイなんじゃの。友達に婚約者の話をするのは恥ずかしいのかのぉ。ハッハッハッ、可愛いところもあるではないか」
場の空気を全く読まずに、ニコニコと一人楽しそうなレオナルドの前で、サーフィニアは固まっていた。
「そうか、そうか。これはもう、クラリス嬢に決まりかの」
クラリスに決まり!? まさか──計画していたことが足元から崩れ去っていくような感覚に、エルトナは目の前が暗くなりかけている。
「アズナイルも、もう十五じゃからの、そろそろ婚約者を一人に絞らにゃならん。クラリス嬢が最有力候補じゃったが、もう間違いなかろう。のう? そなたもそう思──どうした? 具合でも悪いのか?」
レオナルドはここでやっと、真っ青になっているサーフィニアに気が付いて焦った。
まずい、まずいぞ! サーフィニア嬢は病弱だと聞いておったのに!
アズのおらんうちに体調を崩されたりしたら……。
「へ、部屋を用意させよう! アズナイルが戻るまで、そこで少し休んでいなさい」
初めて聞く、自分にとっては衝撃的な話に固まっていたサーフィニアだったが『アズナイルが戻る』に反応して、急いでソファから立ち上がった。
「大丈夫です! あの……クラリス様は、とても素敵な方です。少し気は強いけど、優しくて友達想いで、可愛いし美人だし、侯爵令嬢で健康で……だから、あの……」
顔色は良くないけど、立ち上がって勢いよく喋りだしたサーフィニアに驚きはしたものの、安心したレオナルドは、もう一度ソファに座るように促そうとしたのだが、
「……その、私はもう帰らないと。失礼致します!」
挨拶もそこそこに急いで部屋を出ていこうとするサーフィニアを、扉の手前で慌てて捕まえる。
「ま、待て! 帰るのは、もう少し──アズナイルが戻ってからにしてくれ!」
「離してください! 両親が待っているんです!」
いかん! 今帰られたら、わしが追い返したみたいになるじゃないか! アズに怒られる!
「お、落ち着いて! とにかくソファに」
ご令嬢の腕を掴むわけにはいかず、ドレスを掴んで離さないレオナルド。すでに涙目で、なんとかその手から逃れようとするサーフィニア。最悪の事態に初動が遅れたエルトナとノリス。
しかしここで、レオナルドが入室してきてからずっと気配を消していたクルスが、何を思ったのか扉を開いた。
それにより、扉に背を預け、レオナルドの手からドレスを取り戻そうとしていたサーフィニアは支えを失う。
「危ない!」と、より強い力で引っ張られた繊細なドレスは──ピリピリピリーッと、か細い悲鳴を上げて──レースで出来た部分を一部手放した。
廊下に倒れこみそうになったサーフィニアは、騒がしい室内を警戒していたネイサンに助けられたため事なきを得たが、お礼も言えずに、ノロノロと嫌な音を立てたドレスを見下ろす。
花びらのような一枚は破り取られ、残ったうちの半分ほどは、床に向かって力なく垂れ下がっている。
少しでも可愛いって思ってくれたらいいな……なんて、バカみたい。
ただの友達なのに。最初から、釣り合わないって分かっていたはずなのに。滲んだ涙が零れそうになった時──廊下の向こうから駆けてくる足音が聞こえた。
「サーフィニア嬢!」
顔を上げると、焦った顔で疾走してくるアズナイルが見えたけど、あんなに会いたかったのにもかかわらず、今はショックが大き過ぎてどうしたらいいのか分からない。
名前を呼んでも何の反応も示さないサーフィニアに、不安が大きくなっていたアズナイルの目が信じられない物を捉えた。
「サー、フィニア、ドレスが……」
ハッ! そうだった、ドレス──嫌だ、こんな格好、見られたくない!
踵を返そうとしたサーフィニアは、慌てたせいでドレスの裾を踏んでしまい、今度こそ転んでしまった。
「サーフィニア!」「いや! 来ないで!」
激しい拒絶に、アズナイルの足が止まる。
なんで……どうして? 誰がサーフィニアを、こんな──
「何があった?」
男が四人もついていたのに、何故、こんな格好になったニアが廊下なんかにいる? 俺は、どうしてニアに……。
エルトナ達もネイサンも、国王が絡んでいるだけにどのように説明すればいいのか分からず、言葉が出ない。
肝心の国王は扉の影で息を潜めているし。
「何があったと聞いている!!」
心配とサーフィニアからの拒絶に、心を乱したアズナイルの魔力が漏れ出して、ピシッ! と足元から氷の膜が広がり始める。
「殿下!」(落ち着け! サーフィニア嬢が巻き添えになるぞ!)
エルトナに諭されて我に返ると、倒れ込んだニアの指先近くまで凍っていた。
フゥーッ、と深く息を吐いて、大丈夫だと言うように頷いて見せる。
一度目を閉じ心を落ち着けてから、もう一度サーフィニアと向き合おうとしたその時「アズナイル……」覚悟を決めたレオナルドが扉の影から出てきた。
その声に、折角落ち着けたアズナイルの心が再び揺れ始める。
「……父──陛下、どうしてこちらに? あなたに呼ばれて執務室まで出向いたのですよ? それなのに、なぜここに?」
「すまん。全部わしのせいじゃ」
「私を騙したのですか? 私を誘い出して、その間にサーフィニア嬢に、一体何を!」
父親とはいえ、陛下に掴みかかりそうな勢いのアズナイルを止めなくてはと、サーフィニアは大きな声を出した。
「違うの! 私が悪いの! 私が急に……あの、そろそろ帰らないといけないから、焦ってしまって」
帰るって、どうして? 帰らないでって、待っててって言ったのに。『はい』って……。
駄目だ。今はそんな事をいっている場合ではない。
頭を振って気持ちを切り替える。
「兎に角、その姿では──新しいドレスを用意させるから、部屋に入って、ね?」
手を差し伸べたけど、ふるふると首を振られた。
「サーフィニア……」
アズナイルの傷ついた表情に、サーフィニアもまた傷つく。
傷つけたい訳じゃない。だけど、時間が欲しい。
今は笑えないから。
「サーフィニア嬢、このままでは人が集まってきますから」
見かねたザードが声をかけるも、サーフィニアの反応は鈍い。
立ち上がりもせず、ゆっくりと辺りを見回している。
今は他に誰もいないけど、じきに騒ぎを聞きつけた者達がやって来るだろう。それまでに、この状況をなんとかしておきたいのだが。
一方、サーフィニアは周りを見回したことで、漸く皆の困惑した表情に気が付いた。
私、自分のことばっかりで。皆は困っているのに。
だけど、どうすればいいの? 足に、体に、力が入らない。
誰か、助けて……助けて……
(セバスチャン)
サーフィニアが小さく呟いた瞬間──何もない空間に光の扉が現れて、そこからセバスが出て来た。
「お呼びですか、お嬢──お嬢様!」
ルーカスの話も終わり、のんびりとお茶を飲みながらサーフィニアが戻るのを待っていたセバスは、その事をひどく後悔した。
廊下に一人で倒れ込んでいただけでも驚いたのに、だき抱えてよく見れば、ウエストの周りを飾っていたレースは破れて垂れ下がり、アメジストの大きな瞳は涙に濡れている。
セバスの漆黒の髪がユラリと揺れると、突然、
ゴゴゴゴゴォォゥーー! っと地鳴りの様な轟音が響き渡り、青白い炎が凄まじい勢いで辺り一面を覆い尽くした。
「陛下!」「殿下!」
ザードとネイサン、ツゥエルとエルトナが、いち早く飛び出して二人をその背に庇う。
今はまだ、暴れ回る炎が生み出す風圧だけで済んでいるが、目の前で──髪の毛を逆立て、鮮やかなブルーの瞳を燃え上がらせている男の心一つで、灼熱地獄に陥るだろうという事は想像に容易い。
「あなたは……」燃え盛るブルーの瞳が、アズナイルを捉える。
「奥様からお嬢様を頼むと言われたのに……何をしていたのです? 何を、どうすれば! こんな事になるのですか!!」
溢れる怒気に呼応するかの様に、青白い炎が少しずつ熱を帯びていく。
「セバスチャン! ダメ! やめて!」
「お嬢様、私は許せません。お嬢様を傷つける者は誰であろうと、この手で」
チリッと何かが燃える音が聞こえる。時間がない。
サーフィニアはセバスの服を握りしめ、必死に訴えた。
「悪いのは私なの! だから!……お願い、やめて。帰ろう? うちに帰ろう……帰りたい」
(……帰りたいよ)
「まっ! て……」アズナイルの伸ばした手は空を切る。
サーフィニアの消え入るような声を最後に、目の前にあった全てのものは、跡形もなく消え失せた。




