38・君に会いに ②
はっきり言って、天馬をなめていた……なめ過ぎていた。
まともに街道を走れば、あの森からたっぷり丸一日はかかる。
そこを天馬で空を駆けるのだから、もしかしたら夕方には着くのではないか、と思っていたが……。
東の空が薄紅色に染まり始めた頃には、遥か遠くに迷いの森が見え始めて、驚きと喜びが一度に襲ってきた。
上空からだと、広大な──とまではいかないが、狭小でもないプラント領を守るかのように、グルリと取り囲んでいるのがよく分かる。
(もう直ぐだ。ニア、やっと君に会える)
空から降ってきた天使を、この腕に抱きとめてから一年。長かった。
手紙のやり取りはしていたが、それが余計に、すぐには会えない距離なんだと思い知らされて。愛しさだけが募っていった。
今回を逃せば、また一年待たなければならなかっただろう。
そうならなくて本当に良かった。
復旧作業の途中なのは心苦しいが、もうすぐ新しい橋も完成する。
川を凍らせて安全を確認したあとすぐに、山小屋に避難していた作業員達も全員無事に救出した。
みんな疲れ切った顔をしていたが、あのドリンクのお陰で体調不良を訴える者もいなかったのは幸いだった。今は家族の元で心を癒やしている事だろう。
……と、少し言い訳がましい事を考えていたら、遥か遠くに見えていたプラント領はもう目の前、と言っていいほどの所まで来ていた。
高度もかなり下がったようで、奥の方はもう見えない。
それから程なく、迷いの森の少し手前で地上に降り立ったアデル達からは、背に生えていた翼が跡形もなく消えてしまった。
「ああぁ、もったいない。また、帰りにも生えるかなぁ」
「さあな。あんなに不思議で十分な戦力にもなるドリンクを、簡単にあげますともくださいとも言えないからな。それより、また『せーの』で行くのか」
「わぁ! 懐かしい〜。珍しくノリスに褒められたんだよね」
「……あれ、褒められたのか?」
この二人は、上空でもずっとこんな調子だった。
風を受けっぱなしだったというのに、喉は渇かないのか?
ワァワァ言い合っているうちに、するりと森の中に入ってしまっていて『せーの』の事などすっかり忘れているようだ。
「殿下。今回は先触れも出せない状況でしたので仕方ありませんが、それでも訪ねるにはあまりにも早い時間帯です。どこかで朝食を済ませてからの方がよいと思いますが」
「おぉ、そうだな。昨年みんなで行った店、朝食も出してるって言ってたぞ。お前は行かなかったけど、結構美味かったぞ」
それを聞いて、ニアが体調を崩した時の事を思い出す。
だから、なおさら──。
「いや、俺は折角の機会だから領内を散策してみる。お前達は、そこでゆっくりしてくるといい」
(散策なんか絶対しないぞ。賭けてもいい、男爵邸に直行すると)
(私もそう思います。一人にする訳にはいきませんね)
エルトナはネイサンと目で会話して……クルスにもちらりと視線を送る。
(キリッとした顔で頷いているが……あれは絶対分かってないな)
「殿下を一人にする訳にはいきません。我々もお供します」
案の定──アズナイルはチッ! と舌打ちしそうな顔をして、クルスは、えっ、朝食は? と驚いた顔をしている。
散策どころか脇目も振らず、まっすぐ前だけを見つめるアズナイルを先頭に、斜め後ろには俺とネイサンが前を行く背中から目を離さないように控え、その後をしょんぼりとしたクルスが付いて来る。
いや、クルス。一応俺達は護衛騎士だからな?
「アズナイルは、サーフィニア嬢から離れないだろうし……俺達は何をします?」
「私はまた、セバス殿に稽古をつけてもらおうと思っています」
「僕は、おにぎりとカレーライスが食べたい」
視線は前方から逸らさないが、耳は後ろの声を拾う。
セバス……チャン。そう言えばいたな、あの大魔王みたいな奴。
いつもニアにべったりとくっついて、俺にだけ苦いドリンクを──
「なぁ、今までにセバスチャンの話って出た事あったか?」
「はぁ? 普通にしてただろう……してなかったか?」
「思えば、あまり話題にあがらなかったような気もしますね」
「僕は、鮭のおにぎりがいいな。カレーにはゆで卵をのせるんだ」
何かが引っかかるが……覚えのある道のずっと先に男爵邸が見えてきて、それどころではなくなった。
あそこにニアがいる。と思ったら、他の事はもうどうでもいい。
「あの、殿下……そろそろこの辺りで休憩にしませんか」
「そうだな。そこの木陰で一休みしようぜ」
「僕は、おにぎりとカレ──」
「お前は、いい加減におにぎりとカレーから離れろ!」
冗談じゃない、やっとここまで来たのに。少しでもニアの近くへ。
「お前達は休んでいろ。俺は、もう少しだけ先に行く」
(ほれみろ! 言わんこっちゃない!)
(エルトナ……どうしましょう)
(やっぱり、殿下も早くおにぎりが食べたいんだ)
((違うから!))
朝早いのは分かっている。だけど、もう少し、もう少しだけ。
せめて、あの樹の下まで。
「あああああのっ、殿下、本当にもう、勘弁してください!」
「アズナイル! 落ち着け。気持ちは分かるが、焦るとサーフィニア嬢に嫌われるぞ」
「そうだよ、おにぎりにも逃げられちゃうよ!」
やっとあの樹の下まで来たのに『嫌われる』という言葉が足を縫い止める。
大きな樹を見上げ、邸を見つめる。先触れも出さず、急用がある訳でもない。ましてや……婚約者でもない令嬢の家に、こんなに朝早くから訪ねて行くのは礼儀知らずもいいところだ。
分かってる、分かってるんだそんな事くらい。
でも、それでも……それでも早く会いたい。
(ニア、ニア……ニア!)
手紙の中だけで呼び合う名前を、心の中で何度も呼んだ。
すると、バァァァンと邸の扉が開いて、白いかたまりがまばゆい光を放ちながら、一直線にこっちに向かって飛んで来るのが見えた。
「レオン──アズナイル殿下!」
「ニア──サーフィニア!」
ニアの声以外、一切の音が聞こえなくなる。
他の誰にも呼ばせない『レオン』が、文字ではなく『音』になって心に響く。
そうして、一年前……スローモーションで腕の中に落ちてきた天使は今──風よりも速く──トンッという軽い衝撃とともに腕の中に収まった。
会いたくて会いたくて堪らなかった小さくて柔らかな温もりを、潰さないようにそっと抱きしめる。
そして気付く……やけに温かい事に。
まさか、熱が! 確認しようとパッと身を引いて──サッと上を向くと、そのまま急いでマントを外し、それでニアを包んだ。
俺は何も見ていない。ニアの(薄手の)しししし寝衣姿なんて!
そして、もっと大事な事に気付く。
バッ! と振り返ると、三人は腕で目を隠している。
それの意味するところは──考えた瞬間、頭の中が沸騰した。
お前ら、見たのか! 俺の天使の──
「お嬢様ぁぁぁ!」
大きな叫び声が聞こえると、三人は目の前の腕を一斉に下ろした。
「殿下! ご無事です……あれっ、サーフィニア嬢、いつの間に?」
「なんだ、さっきの光は。アズナイルは大丈夫か?」
「目が、目がぁ、もうダメだぁ、なんにも見えないよぉ」
どうやら三人は、あのまばゆい光に耐えられなかったようだ。
つまり、ニアの姿を見たのは俺だけ──俺も見ていない!
だから、えっと……そろそろ目を開けろ、クルス!
「お嬢様! 何という格好で外に出ているのですか! しかも裸足で!」
マリアベル殿の怒声に、えっ? と下を向くと、裸足の指先がちらりと見えて── 一瞬で消えた。
「お嬢様、私に余計な力を使わせないでください。殿下が殿下でなかったら、今頃跡形もなく消し去っているところでしたよ」
ジロリと、氷よりも冷たそうな視線を浴びせられたけど──これは、俺が悪いのか? 勿論、ニアだって悪くない。
(早朝に来てしまった事には敢えて蓋をさせてもらうが)不可抗力と言ってもいいのではないだろうか。
「セバスチャン! 殿下は悪くないでしょう? 私が──」
「お嬢様、いくらこの国の王族だからといって、婚約者でもない令嬢を抱きしめたり呼び捨てにするなど、あってはならない事なのですよ……次は許しませんから。しかし、すぐにマントで隠したのは『当然の事』ですが、一応合格ラインギリギリに留め置いてあげましょう」
あっ、そっち……申し訳ありません。そして、ありがとうございます──じゃない! また勝手に俺の天使を横抱きにして!
クルリと背を向けて歩き出したセバスチャンに心の中で悪態をついていると、その背からニアがちょこっと顔を出して『ごめんなさい』と手を合わせたのが見えた。
「こんな朝早くから、人騒がせな!」とマリアベル殿からも睨まれ、俺達は、いたたまれない気持ちで立ち尽くしていたが……。
あれ? ちょっと、待って。俺達放置ですか!
去っていく二つの背を見つめ愕然とする。
ネイサン達の助言を無視した俺が完全に悪い。
いくらでも謝りますから──だから、
「命拾いをしましたな」
(ウワッ!)
「「ウオッ!」」
「ギャァァァァ!」
突然後ろから聞こえた声に、振り向きざま飛びながら後ずさる。
そこには、右手に持った鎌をポンッポンッと左の手の平に打ち付けながら、無表情で佇むスヴァイルがいた。
「セバスが許さねば、このスヴァイル、縛り首も覚悟のうえでしたぞ」
それはつまり……それで俺を仕留める気だった。という事ですか?
という心の声は、スヴァイルに聞こえるはずもなく。
「さあ、さあ、お早いおつきで大変でしたが、部屋の準備はできております。旦那様は朝の支度の途中で、奥様はまだお休みになられていますが……仕方ありません。ご案内致しましょう」
歯に着せる衣など持っていないのだろう。
俺達を追い越して邸に向かって歩き出したスヴァイル殿に、こちらに非があるとは言えあんまりな物言いだ!
と思ったネイサンが身を翻す。
よせ! と思ったけど、俺のせいでこんな事態を引き起こしているだけに躊躇する。
「スヴァイル殿! お言葉で──おっ、おさ、お騒がせ致しまして、も、申し訳ありません。お世話になりますっ!」
ネイサンの態度も口調もすぐに軟化した。理由は簡単だ。
少し先の道から、ゴロゴロと音が聞こえる。
猫が喜んでいる訳ではない。
頭上に、稲光が見え隠れする暗雲を浮かばせた何かの化身二体と、スヴァイルの肩越しに目が合ってしまったからには──四人は揃って、きれいに、深く──頭を下げる事しかできなかった。




