89・次から次に ②
とにかく、邸から一歩も出さないようにとスチュワートにきつく言いつけていたのに、ほんの少し目を離した隙に逃げられたと報告が入り、誰かさんのせいで溜まりに溜まっていた仕事を放り投げて追いかけてきたのだが、一歩遅かったようだ。
しかしまだ間に合う! はず……。誰かさんの姿はここにはない。
「ライリー! さあ早く!」
「だ、だけど! 僕はサーフィニアちゃんと婚やく」「まあまあまあ! 賑やかなこと。いったい何の話で盛り上がっているのかしら?」
「「おっ、王妃様!?」」
ドイル親子の声が被る。
ライアンはクラクラと目眩がしたけれど、ここで倒れる訳にはいかない。
「お、王妃様におかれましては」「いや〜ねぇ。堅苦しい挨拶なんかいいのよ、ライアン。それより、何の話をしていたか聴きたいの。『サーフィニアちゃんと、こ・ん・や』なんですの? ライリー」
「あっ……い、いえ……」
にこやかな表情とは裏腹に、目がこれっぽっちも笑っていないどころか凄まじい圧まで感じて、ライリーは何だかマズい展開になって来ていることにようやく気づいたが、蛇に睨まれた蛙よろしく言葉が出ない。
ライアンも息子と同じ気持ちなのだが、助け舟──というか、ここを切り抜けなくては商会の存続に関わると思い、なんとか平静を装いながら一歩前へ進み出る。
「恐れながら王妃様。実は《今夜》サーフィニアちゃ──嬢をうちの晩餐会に招待する予定になっておりました。それで」
「あら? サーフィニアちゃんとライリー、二人きりの晩餐会なの?」
「ちちち、違います! めっ、滅相もないことでございます!」
ヴィクトリアの表情が少しずつ厳しさを増し、ライアンの乗った助け舟が沈みかけた時、最後の砦とも言える小舟が静かに控えめにすべり込んできた。
「王妃様。晩餐会ではなく、食い倒れパーティーですわ」
「……食い、倒れパーティー?」
突然割って入った声と、聞き慣れない言葉にヴィクトリアの圧は少し緩む。
「お話の途中で誠に申し訳ございません。しかしながらこの騒動の原因はわたくしにあるのです。今夜の食い倒れパーティーにサーフィニア様もご招待する予定でいたのですが、わたくしが父と兄にもう少し丁寧に説明していたら、このような誤解を招くことにはなりませんでした。申し訳ございません」
深く頭を下げるライラにヴィクトリアの圧は跡形もなく消え去ったけれど、何度頭の中で繰り返しても品よく聞こえない謎のパーティーに、大事なサーフィニアを行かせても大丈夫だろうか? 今この場で自分が断った方がいいのでは? だけど、勝手にそんな事をしたらアマリリスに怒られるかも……でも、だけどぉ──と苦悶するあまり、今度は眉間にシワが寄ってしまっている。
その背後で、ヴィクトリアが大爆発を起こす前にタイミングを見て話に割って入ろうと構えていた者たちは、ライラの登場に〈よかった。彼女ならうまくやってくれる〉と安心していたのだが、消えた圧の代わりに眉間のシワが出現したのを見て──次に来るのは《あれ》だと恐怖に怯えていた。
そんな一同の中からナイトよろしく颯爽と抜け出したのは、もちろんこの男。
「ライラ嬢、そのような聞くからに楽しそうなパーティーを私抜きで進めようとしていたなんて、淋しいではありませんか。ひとこと相談しておいてくだされば、ライリーも《とんだ勘違い》をしたまま乗り込んでくることもなかったでしょうに。さあ、私も手伝いますから、早く邸に帰って準備を始めましょう」
《チャンスは絶対に逃さない》がモットーの、ノリス・ウェルシータ。
「えっ!? いえ、あの……」
少し離れた場所から事の成り行きを見守っていたライラは、今回の出来事をまだ完全には把握しきっていないけれど、王家が──少なくともヴィクトリアとアズナイルは、サーフィニアを手に入れようとしている。
そんな王家の怒りを買えば、ドイル商会はぺしゃんこだ。と考えていた。
知らず知らずのうちに王妃ヴィクトリアの逆鱗に触れそうになっている兄や、今まさに窮地に陥っている父のためだけではない。
大勢の従業員たちのためにも自分が動かなければ。
と進み出たところへ、厄介な者が食い付いてきて焦る。
「あ、あの、ウェルシータ様? 失礼ながらご自分の立場をお忘れですか? アズナイル殿下がいらっしゃるのにお側を離れて……ましてや、侯爵家のご子息がパーティーの準備の手伝いなど、なさるものではございませんよ?」
「構わん。ノリス、行ってきていいぞ」
「そうか? じゃあ、俺も行こうかな。『食い倒れパーティー』とやらが気になりすぎる」
「駄目よ。エルトナは残りなさい。パーティーよりも大事な話の方が先です」
側を離れても構わないと、アズナイルからノリスに出された許可に便乗しようとしたエルトナだったが、ヴィクトリアに引き止められた。
「じゃ、じゃあ! ベルビアンナちゃんと僕が代わりに行ってこようかな!」
「お断りします」
「い、いえ! ボルトナー様もシラー様も是非いらしてください!」
大事な話に自分は関係ないだろうと手を上げたクルスにはノリスが速攻で断りを入れ、ノリス一人で来られたら大変なことになる! と思ったライアンは縋るような視線を二人に送ったが……。
「よろしいのですか? あれが本物だとお気づきになられたのですよね? クルスの前でその話をしたら、あっという間に王都中──いえ、国中に知れ渡ってしまうでしょう。殿下の話が纏まる前に、側近の私のそんな話が広まってしまうのはいかがなものかと思いますし……何より、あのお方が黙っていないと思いますよ?」
そっと耳元で囁かれて凍りつく。
顔を向けなくても分かるヴィクトリアの興味津津な視線も怖いが、だからといって、伯爵家の令息・令嬢に対してのお願いを撤回するような真似も躊躇われる。
とうとう頭が真っ白になったライアンは、一昨日から積み重ねられていった一生分の不運を背負いながら、底なし沼に埋もれゆく自身の幻影を見ていた。
しかし、もう残るのは片方の耳だけとなった時、思いも寄らないところから、間延びした天の声と、それを遮るような焦った声が聞こえてきて浮上する。
「わたくしはぁ、申し訳ありませんが遠慮しますわ〜。プラント領内を散策してみたいのでぇ、スザークさんに案内を」「ハイハイハイ! 僕。僕が案内します! スザークさんより僕の方が隅から隅まで案内できるよ、ベルビアンナちゃん!」
そんなわけはないのだが、食い気に負けている場合でもない。
一方、こうなることは分かっていながら、ちょっと怖そうなノリスに、ちょっと気になるクルスがいじめられるのは可哀想だし、なんとなくライアンのことも気の毒に思っていたベルビアンナは、親友であるライラのことはあっさりと見放した。
〈だってぇ、ライラはぁ、自分で切り抜けられるでしょう〜?〉と。
「もうその辺でいいかしら?」
一件落着したような、しないような井戸端会議の場に呆れたような声が落ちる。
「待ちくたびれたわ。ねぇ、ライラちゃん。悪いけど食い倒れパーティーは明日にしてもらえない? 今日はうちも忙しくて、マンダレー様とクラリスちゃんにもいてもらわないと困るのよ。あなたも含めて他の方々には後日話をするから、今日のところは自由に過ごしてもらって構わないわ。では王妃様、話し合いを始めましょうか。これ以上モタモタしていてまた邪魔が入ったらたまらないわ」
「ええ、ええ。大賛成だわ、アマリリス!」
言いたいことだけを言ってサッサッと踵を返し去っていくアマリリスに、嬉しそうにいそいそとついていくヴィクトリア。
更にその後ろを並んで歩いていくアズナイルと、サーフィニアを抱いたセバス。
楽しそうに小声で会話しながら最後尾を歩くエルトナとクラリスの一行をひとまず見送ったネイサンは、頭は動かさずに視線だけをそっと辺りに走らせた。
ベルビアンナとの初めてのデート? を絶対に逃したくないクルスの姿はすでになく、ノリスからは〈お前も来るなよ〉的なオーラを感じたので、さらなる助けを求めてキョロキョロしているライアンと視線が交わる前に移動を開始する。
「王妃様とアズナイル殿下をエルトナだけに任せてはおけませんので、私も失礼させていただきます」
〈昨日の友は今日の他人。ライアン殿、申し訳ありません〉
と、胸の内だけで頭を下げながら。
◇◇◇
「それでは、私達も帰りましょうか」
ライラの手をさり気なくも素早く取って歩き始めるノリス。
未だぼんやりと、サーフィニアの姿を隠してしまった扉を見つめ続けるライリー。
最早なすすべはなく観念しかけたライアンだったが、はたと思い出す。
「お待ち下さい、ウェルシータ様! パーティーは明日にするようにとアマリリス様がおっしゃってくださったので、家のものだけで準備をする時間は十分にございます。ですから、ウェルシータ様もご自分の時間を大切にお過ごしくださいませ」
いつの間にかノリスと婚約して……させられていた?
という事実を、娘に説明する時間がほしかったライアンだが──
「ありがとうございます。勿論そうさせていただきますよ。ライアン殿にも時間ができたようですので、じっくりと話を進められますね。ああ、それから『ウェルシータ様』など他人行儀で堅苦しいので、私のことはどうぞ《ノリス》とお呼びください。さあ、ライラ嬢。帰りましょう」
──そんな事をされては、あと一歩で《正式に婚約できる》というところまでこぎつけた罠……もとい、作戦が、頭の良いライラにひっくり返されてしまうかもしれない。
可愛い子リスを自分の腕の中に囲い込むまでは、何れ間違いなく義父上と呼ぶことになる男であろうとも、今は従うわけにはいかないノリス。
なんせこの子リスは逃げ足が速いから、そうそう時間をかけてはいられないのだ。
まあノリスのことだから、思い通りに事が運んでも素直に従うかどうかは……。
にこやかな表情で歩を進めるノリスの隣から〈話を進めるってなに! どういうこと!〉と視線で説明を求めてくるライラに、力なく首を振ることしかできなくなったライアンは、もぬけの殻状態のライリーの背中を押し進めながら考える。
先ほどノ、ノリ……ウェルシータ様は『私達も帰りましょう』と言っていたな。
ということは……ま、まさか! このまま居座ってしまう気じゃなかろうな!?
いやいや、落ち着けライアン。いくらなんでもそれはないだろう?
アズナイル殿下の筆頭側近が王都を離れるわけにはいくまい。
もしかしたら今晩くらいは泊まりたいと言われるかも知れないが、そこはなんとかお断りして──
「ライアン殿。あの話がうまく纏まれば、ドイル商会の商売について一つご提案があるのですが……そうなると今日のところは時間が足りませんね。一泊させていただけるのなら話は別ですが、そういうわけにも参りませんでしょうから」
「商売についての提案。とは、どういったものでしょう?」
〈やった! 断る手間が省けた!〉と上向きかけたライアンの気分は、娘の発言により急降下。商売熱心な娘の気持ちは嬉しいが、今だけは「余計なことを聞くんじゃない!」と言いたいところだ。
「フフ、さすがはライラ嬢。私が提案したいのは《あのチョコレート》に関するものなのですけれど……興味はおありですか」
チョコレートと聞いた瞬間、ライラは小さく拳を握った。
なんてこと! これは大チャンスよ! 初めてあのチョコレートを食べたときから色々調べてみたけれど、何も手がかりを得られていないんだもの。
発売元も取り扱っているお店も何一つ分からずじまい。
だから、このチャンスを逃すわけにはいかないわ!
「勿論です。是非ともお聞かせ願いたいものですわ。小さな邸ではありますけれど、商売上、遠方からの急なお客様にも対応できるようにと、客間は毎日整えてあります。このような状況にはメイドたちも慣れておりますから、何も心配されることはありませんわ」
「それは私にとっても願ったり叶ったりですね。と言っても自分のことは自分でできますので、私は《今後について》ライラ嬢とゆっくり話ができればそれだけで満足ですよ?」
そう言って、ノリスは自分の手の中にあるライラの細い指先を一瞬キュッと握りしめた。
ライラはライラで、つい先程まで状況が飲み込めずに困惑と僅かな苛立ちを見せていたけれど、謎に包まれたチョコレートの秘密に迫れるかも……という喜びに溢れたコバルトグリーンのつぶらな瞳をキラキラと輝かせながら、嬉しそうに微笑むノリスを見上げている。
そんな姿が一層ノリスを燃え上がらせ、自ら《飛んで火に入る夏の虫》になってしまっていることにも気づかずに。
ちなみにライアンはノリスが嫌いな訳ではなく、やはり爵位の違いが気になっているのだ。
普通の侯爵家でも気が引けるのに、ノリスは宰相家の子息。
嫡男ではないにしろ、ライラが苦労するのではないか、結婚しても実家の家業を手伝いたいという願いが聞き入れられないのではないか……と。
ライラにベタ惚れのノリスが、苦労をかけたり──するような輩は率先して容赦なくぶっ潰すだろうし──願いを叶えてあげないことなど何一つあるはずもなく。
ただの取り越し苦労だったよ。
と笑って話せるようになるのは、まだまだ先のお話。




