プロローグ
「ハァ、やっと着いた。疲れたぁ」
「お前なぁ、運転したのは俺。お前は乗っていただけだろう?」
「まあまあ、お兄さん。今日はお嬢様のお祝いですから」
そう、今日は私の(遅ればせながらの)還暦祝い。
で、兄の運転で私達四人は秘境の温泉へとやって来た。
四人というのは、とーこ、あき、はるの三人と私、なつ。
みんなとは私が十二歳の時に出会ってから、もう半世紀近くの付き合いだ。
とーことはるは二つ、あきは三つ私より年下で、何故かみんな私の事をお嬢様と呼ぶ……。
「だから、外ではお嬢様って呼ばないでっていつも──」
「……お嬢様」
そんな呟きが聞こえて振り返ると、今晩お世話になる宿の主人らしき人が、目と口を大きく開いたまま立っていた。
えーっと、そうですよねぇ。こんなおばあちゃんがお嬢様なんて、そりゃあ驚きますよね。
遠い目をする私を尻目に兄が挨拶をすると、慌てて私達を迎え入れるべく丁寧に挨拶をされ、受付を済ませると部屋まで案内してくれた。
途中聞いた話によると、セバスチャン(そう呼んで欲しいと頼まれた)が一人で営んでいるこの秘境の宿は、私達を最後に閉館するとのこと。
とてもそうは見えないけど、明日の七十歳の誕生日を機に閉める事にしたそうだ。
◇◇◇
案内された部屋はこじんまりしていたけど、綺麗に掃除されていて気持ちが良かったし、大きな窓から見える紅葉の美しさが目を楽しませてくれる。
足を伸ばして真っ先にお茶と茶菓子に手を出していると、お風呂は夕食前か後かという話になった。
前派と後派二対二で揉めていると、部屋の外からセバスチャンが声を掛けてきた。
「今日はとても天気がいいので、夜は満天の星空が見られますよ。食後の冷たいデザートも露天風呂にご用意できますが……如何でしょうか」
勿論、満場一致で食後の入浴に決まったのは言うまでもない。
デザートは何かなぁとワクワクしていると、ふと思い出した。
(セバスチャン、明日七十歳になるって言ってたなぁ。てことは古希か)
「ねぇ、みんな。今晩の私の還暦祝いの席に、セバスチャンにも着いてもらってもいいかな? 明日古希を迎えるって言ってたし、ここも閉めるって事だから、おめでとうございますとお疲れ様でしたって言ってあげたいなぁと思って。これも何かの縁だと思うからさ。どうだろう?」
これまた満場一致で、いいね! 頂きました。
早速セバスチャンに伝えると、最初は遠慮していたけど「男一人では肩身が狭いので、是非とも一緒に」と兄にも強くお願いされると、何故か少しウルッとしながらも嬉しそうに頷いてくれた。
その直後に、セバスチャンが小さく小さく「アクトゥール様」と呟いたのをなつは拾っていた──
(あく、とーる、さら?……灰汁・取る・皿……あっ、煮物? 晩御飯の話か。煮物なんだろう。治部煮がいいなぁ)
──かなりいい加減に。
夕食は最後の夜だからか、大蔵ざらえとばかりに食べ切れない程のとびきり美味しいご馳走が並んだけど、お楽しみの露天風呂とデザートが控えているので、お酒は軽く食前酒だけで済ませた。
初めて会ったとは思えないくらいにセバスチャンもみんなに溶け込んでいて、特に黒一点だった兄は大喜び。
「温泉にも一緒に行きましょう。な〜んかセバスチャンとは昔からの知り合いというか……変なんですけど、懐かしい様な感じがして。だから、温泉で星見酒でもしながらもっと語り合いませんか」
と熱心に誘っていた。
◇◇◇
お腹いっぱいで、ワイワイキャーキャー騒ぎながら向かった天然の露天風呂は、木立を抜けた先で静かに湯けむりをあげていた。
天然の露天風呂だから男女別にはなっていない為、みんな水着を着用している。
満天の星空の元、予めクーラーボックスに用意されていたのは──チョコレートムースと抹茶のアイスクリームの間にたっぷりのベリー、更に一番上にはベリーソースがかかっている甘くて冷たい意外な美味しさのデザートだった。
「あ〜 なんかもったいないね、これが最後だなんて。二年後三年後のみんなの還暦祝いもここでやりたかったね」
「俺の三年後の古希の祝いも、ここがよかったなぁ」
「じゃあ、その時はセバスチャンに臨時でオープンしてもらう?」
「それもいいですね」
なんて、セバスチャンも笑ってる。
最高の夜に、すごく楽しそうなみんなの笑顔。
宿に戻っても、幸せな夜が続く──はずだった。
最初は、お湯がチャプチャプと音を立てただけだった。
風が強くなったかな? と思う間にも、どんどん大きくなる音と跳ねるお湯。
「えっ、何? 地震?」
「やだ、怖い!」
はるが私にしがみついてくる。とーことあきも手を握り合っていた。
「慌てないで。だけど、急いでここを離れましょう」
セバスチャンの鋭い声に、露天風呂から出ようとみんなで立ち上がったけど、あっという間にうねりが大きくなって、それが渦を巻きだしたかと思うと──
次の瞬間!
まるで、湯船の底が抜けてしまったかのように、踏みしめていた足元が消え失せた。
繋ぎあっていた手も解けて、みんな溺れそうになっている。
「落ち着け! 泳いで渦から離れろ!」
と叫ぶ兄の声に、子供の頃から共にお転婆三昧で過ごしてきた三人は体勢を立て直して泳ぎ始める。
ただ一人泳げない私は、それでも何とか渦から逃れようともがくけれど、流れが速くて早々に体力が尽きてきた。
みんなが無事なら、もう……それでいいや。意識も薄れかけてきた。その時──
「お嬢様!」
あまり聞き慣れない声が聞こえた。
誰……そんなに悲痛な声で、叫んでいるのは……誰?
「なつ!」
兄の大きな声が聞こえて、一瞬戻る意識に──こっちに向かって泳いでくる兄とセバスチャン。それから、温泉の淵近くで動きを止めた三人の顔が見えた。
だめ、来ないで。みんな、逃げて!
それは声にならず、意識と共に渦に飲み込まれていく。
両の手が、強くしっかりと握られているのは分かったけど、それが誰かを確かめる事はできなかった。
閉じられた瞼の裏に、まばゆい光が差し込む。
見えているはずなどないのに、何かが、キラキラと輝きながら底の方に沈んで行くのが分かった。
そして、それを最後に──全てが、闇に消えた。