1話 「知り合う前から知っていて」
――世界が灰色に見えたのは、いつからだろう。
高校に入る前の春休み。ベッドから起き上がった僕――前田透は、部屋でため息を吐いた。
「……またこれか」
僕の視界は相変わらず黒くにごっていた。
見ている景色がモノクロだなんてどうかしている。そんなのは僕が一番わかっているけれど、認めたくない事実でもあった。
私服に着替えてリビングに行くと、食卓には誰もいなかった。当然だ、寝坊したのだから。
確か今日は小学生の弟の卒業式だったはず。通りで皆いないわけだ。
「……本当、心配性だな」
寝坊したというのに、机の上には書き置きが添えられていた。母親には感謝しかない。
「いただきます」
用意された朝ご飯を頬張って、味を噛みしめる。今日の朝は食パンとコーンスープ。真っ当な造り物だけど。うん、今日も変わらず美味しい。
明日から『ちゃんと』しないとな。と、寝ぼけた頭で考える。でもそれを実行できる気力は、夜になったら消えるだろう。
僕みたいな人間は、無気力でどうしようもないのだから。
「いってきます」
ドアに鍵をかけたのを確認して家を出る。
最近、僕の中で散歩がブームになりつつあった。……気まぐれなのが惜しいけど。
雲からのぞく夕焼けが、僕を叱っているような気がした。
◇◇◇
生まれつき僕は目を患っていて、何かと苦労して生きてきた。『変色症』と呼ばれるそれは、見るもの全てに色がつく珍しい症状――。
今も視界に映る景色が灰色に見えるのはこのせいだ。
言葉の響きはカッコいいけど、神経の病気だから性質が悪い。
症状の例としては文字に色が浮き出る、愛情や青春などと言った単語の味が『わかって』しまうなど。症状は様々だ。
僕の変色症は前者に近く、なおかつ極めて強い。幼い頃は自分自身が『普通ではない』と思い込んだほどだ。
その時からだろう、僕が地味な人間へと変わってしまったのは。
映画や音楽鑑賞も嫌いではないが、ジャンルによっては強い『色』が出てしまうので、今は読書という趣味に落ちついている。
他人の声を聞くより、自らの想像で動き出す物語が好きだ。
初日の出や桜並木を眺めるより、一人で部屋にいるのが好きだ。
その心地よさにおぼれた僕は、この数年間ですっかりダメ人間となり果ててしまった。
都心部に行くのなら相応のセンスは必須なのだけど、適当に選んだ服では笑いの的だ。
事実、僕を見たカップルや女子たちは、声を殺しながら笑っていた。
「ここは……」
周囲の声を無視して立ち止まる。左にはつぼみを付き始めた桜の木が。右には、洒落たカフェや服屋がずらりと並んでいた。
カフェならたまに読書で世話になっているのだが、服や化粧となれば話は別だ。
試しに僕は、全身コーデが展示されているガラスケースに近づいた。
黒メガネに紺色のコート。黒いパンツ(今で言うズボンのこと)にグレーのスニーカー。乱れた黒い髪はだらしなく、特に長い前髪のせいで視界がチラつくこともある。
「自分の顔を見るのは、久しぶりだな……」
白い息を吐きながら呟く。
それに、春が近づいたといってもまだ寒さは残っている。……僕は寒いのが嫌いだ。取り残されそうな気がして、苦手だ。
後ろからは早く帰ろうとせわしなく動く靴の音が聞こえた。
「――あ、雪だ」
呟いた一言。ある少女の声によって、思わず足を止めた。
空を見上げると、灰色の雲から雪が降り出す。僕はその冷たさを肌で感じながら、帰り道を歩いていく。
彼女もまた家族が待つ家へと帰っていく。その途中で、僕と少女を照らすかのように街灯の明かりがつき始めた。
今日は早くお風呂に入って寝よう。そうすればきっと、もうこの『灰色』な世界を見ないで済む。
そんなことを考えて、僕は家へと帰っていった。