④
宿の場所を教わって、少年とは別れた。ダルは観光地じゃないから、この時間でも幸い空き部屋があった。客が珍しいんだろう、にこやかに迎えてくれる。ただ、燃料には限りがあるから、部屋にはストーブがない。布団に潜り込んでも、手足の先が温まるには時間がかかる。ひどく寝付きにくかった。
まったく、寒くないのが羨ましい。寝返りついでに目を開ける。すると、隣のベッドにいるユッポが、今日は起きていた。足に布団をかけて座っている。夜になって晴れた空には月が出ていたが、背後の窓から光が入っている。虚空を見つめる横顔は、暗くて表情がわからない。
「……眠らないのかい?」
人形は、眠るものなのか。裏に隠した質問を、ユッポは鋭く察したらしい。
「わたしも……わたしでも、夢は見るんだよ」
ひとつ先の、夢を見ると語ることで、眠るのだと伝える。しゅんと下を向いて悲しそうだ。
「眠って、元気になって、明日に行くの。夢を見ながら……」
元通りに顔を上げ、ユッポは暗闇の中に何かを探した。師を思い出しているのだと、なぜか僕にもわかった。
「パパ、元気なかった。夢を見たくないって、だから、夜ふかしするんだって。わたし達より遅くまで、起きてるみたいだった」
「夢、か」
いい夢ばかりじゃない。繰り返し悪夢を見るのなら、眠りを先延ばしにしたくもなる。
師の元気には興味がないから、ユッポのことを聞いてみる。今日、起きているのには理由がありそうだ。
「ユッポは、どんな夢を見るんだ」
うーん、と言葉をまとめながら、ユッポの顔は上を向いた。
「夢って、楽しいものだよ。なんでパパは夢を見たくないのか、今までわからなかった。でも……わかったの」
「怖い夢だったのか?」
「ううん」
ひざに顔を伏せて、首を横に振る。きっと布団は乾いているけど、くぐもった声は泣いているみたいで胸に刺さる。
「きっと、楽しい夢。パパがいたころの思い出だもん。でも、思い出だって、わかったから。今は、パパがいないから……」
戻れない過去か。淋しい今よりも、ずっと幸せだった頃を見たんだ。現実が思い出を打ちのめし、目が冴える。そんな思考回路、人の手が作るなんてありえない。
ああ、もう、認めるしかないか。ユッポを、人形として観察するのが難しくなっている。
「セコは? 眠れないの?」
「まあ、こう寒いとなかなか、ね」
「サムがりさんなんだ」
顔を上げたユッポの言葉には、子ども扱いされた気分になった。だけど腹を立てるよりも、恥ずかしくなった。
今さっき、少しはユッポを心配したはずだったのに。実は心配されていたようじゃないか。
かすかな違和感に気付いて身を起こすと、布団の上にユッポの上着がかかっていた。
「やっぱり、それじゃ、ちいさいね」
笑い声が哀しい。
冷たい隙間風が堪えるけど、僕は布団から出た。心が温かくなった気がしたから、小さな肩に上着をかけ返すことで、ぬくもりを返せればと思った。
「ありがとう、心配かけたね」
「だいじょうぶなの?」
「うん」
面と向かって話すと、旅の始めから気になっていることを聞きたくなった。しばしの沈黙を挟んで、言葉をまとめる。
「……どうしてそんなに、他人のために頑張るんだ?」
「え?」
質問を受けて固まると、急にユッポがただの人形に見えた。ぱかぱかと、瞬きをしている。
「ひとのために何かするのって、わるいこと?」
「それは……いいことさ」
「だよね、だからだよ」
ユッポは自分に言い聞かせるように何回か頷いた。善行そのものが目的ということか。
「いい子にしてたら、人間になれるんだって。わたし、パパのいいつけやぶっちゃったけど、きっと悪い子だけど。誰かのために、何かをするの。いつか、人間になれるように」
なるほど、おせっかいの理由がわかった。古いおとぎ話のようなこと。いい子にすれば願いが叶うと刷り込まれ、本気で信じているんだ。
確かに、ユッポの行動に感謝する人、助けられた人はいる。僕もそのひとり。
だけど、この先ユッポが人間になることはないだろう。なれるはずがないという、現実を抜きにしても。
僕は、窓のほうを見て口を開いていた。
「何か……引っかかるな」
どうかしてる。こんな指摘をしたところで、何も変わらないのに。
外はすっかり雲が流れて、星を光らせている。こんもり積もった雪が、月光を受けて青白く浮かび上がっていた。窓に映るユッポは、僕の横顔をじっと見ている。
「何でも手伝ってあげるのが、いい子というわけじゃないんだよ」
苦手の計算を、他人にお願いする子どもがいた。自力でやってはじめて意味のあることを、ユッポはすんなり引き受け、奪ってしまった。
「本当にその人のためを思うなら、手を貸さないのも時には必要なことだ。言われたままに動くんじゃなく、もう少し……考えた方がいいよ」
ヘミオラでは、水夫の危機を救った。
メイズでは物取りを捕まえたが、当初は悪人の手助けをしそうに駆け寄っていった。
ダルでは孤独な少年の心を溶かし、明日への勇気を奮わせた。
いいことも、悪いこともあったけれど、ユッポが選ぶ道はいつも、ひとつだった気がする。
「今までのユッポは、自分のために人を助けていなかったかい?」
たぶん、無意識だった。いい子であるため、人間になるため。それは、ユッポ自身のための善行。だから行き過ぎる。結果として、おせっかいになるわけだ。
「じぶんの、ために? うーん……むずかしいよ〜」
「すぐには、わからなくていいさ」
僕の指摘は、ユッポのためになるだろうか。叶わぬ願いへの期待を、いたずらに膨らませてしまうだろうか。不安が頭を掠めると、僕は自分の目に向かって言い聞かす。ユッポは人形だ。人形なんだ。
「さあ、もう遅い。おやすみ」
おせっかいのままでも、それはそれ。作られた思考回路を確かめるだけ。
「……うん。おやすみなさい」
ユッポは考える素振りをして、やがて布団にもぐった。
繰り返し悪夢を見るなら、眠りを先延ばしにしたくもなる。僕は、眠ったことを後悔した。
夢の中で、僕は親に手を引かれる子どもだった。そのころ暮らした町には、古くから劇場があって、色々な演目が披露された。何度も、連れて行ってくれとせがんだ記憶がある。
美しい世界。舞台上で、あるいは袖で演奏される音楽や、きらびやかな衣装。明かりに照らされる虚構が、僕をどうしようもなくひきつけた。
「いいなあ。すごいなあ」
家路につけば、空を眺めながら劇場を思い起こした。星など見ていない。頭の中で、いつの日かその舞台に関わる自分を想像していたんだ。
「ぼくも、つくってみたいなあ」
やめてくれ。夢なんだ。かつて思い描いた未来じゃなくて、これは今の僕が眠って見る夢。何を目指すと言っても、大人がなれるといいねと言った時代のことなんか、掘り返さないでくれ。
強く願っても、夢の中の小さな僕は、にこにこ笑っている。
「ぼくにも、作れるようになるかな?」
どうして忘れることができないんだろう。憧れたのは芸術家に近く、成長するにつれ大人が良い顔をしなくなる職業。諦めたはずだ。
親と繋いだ手を大きく振って、楽しげに話す自分を叩いてやりたい。そんな将来は来ないんだよ。師の作品と出会い、家具職人を志し……もう、独立したんだ。僕は○○○にならなかった。
「いつか、もっと綺麗な──」
いい加減、目を覚ましてくれ。
顔に何かの感触がある。僕はやっと朝を迎えた。
「あっ、セコ起きた。だいじょうぶ? うーん、って言ってた」
ユッポの指先が頬に触れて、手袋の感触がむずむずする。目を開くと離れて、もっと冷たい空気が顔全体を覆った。
「大丈夫、妙な夢を見ただけさ」
布団から身を起こすと、ユッポは「ミョウ?」と首を傾げていた。変な夢を見たんだと訂正して、お互いに朝の挨拶を交わす。動き出すことで悪夢を振り払えるかと思ったが、なかなか上手くいかない。今日は促されるまま、ひとり朝食をとるために食堂へ向かった。熱いお茶でも飲もう。