③
「見つけたよ……トロット」
山登りを明日に控えた宿で、ユッポはカガミに向かって呟いた。これは、末の弟を描いたものだという。カガミの上では、人間に見えた。
人形は、ユッポを長女として弟と妹が三体ずつある。トロットは、ある程度乾いた板材を保管する、天窓付きの部屋がお気に入り。よく、そこで昼寝をしているとか。おっとりとした甘えん坊なのが、末の妹ティピカと似ているらしい。聞きだしたわけじゃないのに、ユッポは進んで話した。工房裏の森から木を切り出して製材することもあったとか、乾燥の段階を追って材の置き場が変わるとか、ユッポ自身は、聞いただけであろうことまで。特に言葉を返さなくても間が持つから、僕としては楽でいい。
「みんな、元気かなあ。カガミ、全部みつかるといいな!」
声の笑顔。カガミの存在が、思いがけずユッポを励ましているように見えた。
「全部のカガミと、パパと。一緒に家に帰れたら……きっと、みんな、すご〜く……よろこぶよね……」
喋りながら舟漕ぎになり、ユッポはそのまま眠ってしまった。カガミを立て掛けた椅子にもたれ、床に座ったまま止まった感じだ。
さっきまで喋っていたと思うと、やっぱり呼吸の動きがないのは違和感がある。生き物なのか、物なのか……人形だとわかっているのに、ユッポは物だと納得しない自分がいた。
少し迷って、僕は布団に入った。別に、ユッポをそのままにしておいたって、風邪など引きはしないだろう?
「鈍色も銀色に変えて その瞳は空を見た
明日は恵みの晴天か 雨か どっちかな」
あいにくの曇り空を、陽気に歌うユッポ。歩く間にずっと歌っていられたら、普段の僕は苛立っただろうが、今はこの歌が命綱だ。
山道の寒さは、当然ながら厳しい。視界を埋めるのは雪と岩と土だけ。殺風景で心も冷え込む。工房にこもっていた僕が旅慣れているはずもなく、どんどん体力が削られた。
フィッテルと比べて、工房を構えたヘミオラの冬は雪深い。寒さに慣れたつもりでいたが、同じ大陸でも山は別格だ。人の歩く道が整っていても、気候まで人向きに整うはずないじゃないか。
気を紛らせてくれる歌を、なんだか懸命に聴いてしまった。
「雨空に少しうつむいて その瞳が落としたのは
……
セコ、全然しゃべらないね」
不意に歌をやめて立ち止まると、ユッポは軽い身のこなしで僕を振り向く。十何歩も歩いてやっと追いついて、距離の開きに気が付いた。もとから大して喋っていないと、事実を言うのが億劫だ。
きちんと呂律が回るか、確認くらいはしてみるか。
「あごが、カクカクだね。えーっと……サムいの?」
「は、話には聞いていたが……この寒さは、尋常じゃないよ」
大きく声を出さないと、言葉が崩れそうだ。
「ジンジョーじゃない……?」
「ふ、普通じゃないってこと」
言葉の解説は、ずいぶん簡単に出来た。頭はまともに機能しているらしい。
「そっか、ジンジョーってふつうのことなんだ。すごくサムいんだね。たしか、眠くなっても、眠ったらだめなんでしょ? 大変なことになるんだよって、パパが言ってた。……セコ、起きてる?」
それは、もっと非常時の話だろ。歩いている奴に言うことか? 目の前でひらひら振る手も見えている。内心で思っても、言葉を返す気力はなかった。歩き続けながら「起きてるよ」とだけ、溜息混じりに言う。
僕の隣を歩きながら、ユッポは何やら考え込んでいた。
「サムいときは〜……ええと、」
歌うように、妙な節をつけて独り言をこぼす。
それから、「いっぱい、服を着ればいいんだ!」と言って、僕の肩に何かをかけた。覚えのある色の布。
「これ、ユッポの上着じゃないか」
短いマントのような形の上着は、どんな体格でも着られるから、落ちはしない。でも僕は足を止めてしまった。
一歩前で、ユッポが雪を背景に笑っている。大人の服を仕立て直したらしい、やけに襟の大きなシャツが眩しい。
「ちいさいけど、少しはアッタかいかなって」
「でも、それじゃユッポが寒い……あ」
睡魔が、きていたのかもしれない。
言ってしまったことに、自分で衝撃を受けた。目に映るユッポの表情が、普段の穏やかな無表情に戻る。
人形であるユッポが、気温を感じられるか? 冷たい上着が答えに思えた。
「村のほうは、アッタかいんでしょ。もうちょっと、がんばろ」
再び歌いだして歩くユッポの後を、僕は黙って歩いた。口走った言葉を、撤回することができない。
いくつもの曲が流れていく中、自分達を俯瞰で見ている気分になった。人形の歌に助けられて歩く僕は操り人形のようで、峰を連ねる山々は師の掌だ。
何を考えるでもなく、さっきユッポにかけた言葉は本音だった。無意識の内に僕は、ユッポを師に会わせたいと願って、旅の助けになろうとしている。反対に助けられているのが、みっともないけれど。
相変わらず、空は一面の灰色だ。ユッポに情が移ってきている僕は、まともなのかと目を凝らしても、ずっと、飽きるほどに灰色だった。
「雨空に少しうつむいて その瞳が落としたのは
……
あれ?」
一通り知っている曲を歌ったのか、また七色の瞳が回ってきた頃、寒さが和らいできた。そろそろ町が近いんだ。
何を見つけたのか、歌をやめて立ち止まるユッポは、じっと遠くを見ている。その小さな肩に上着を返した。
「ありがとう、もう大丈夫だよ」
自然と礼が言えた自分に驚きながら、同じ方向を見る。
ダルは鉱石の採掘が主な産業だ。町の周辺には、古い坑道が崩落してできた、巨大迷路のような陥没地帯がある。道の脇に広がるそれの中に、ひとりの少年がしゃがみこんでいた。
「よかった。もう、あごもカクカクしてないね」
僕の様子を見てから、少年の方に目線を戻し、ユッポは急に大きな声を出した。
「ねー、どうしたのー?」
村の周りは地熱が高く、雪が少ない。しっとりとした地面を蹴り、ユッポは身軽に走っていった。しゃがみこんでいる少年は、調子が悪いようでもなし、自分の定位置にいるだけだろう。何が気になるんだ。
「どうしたのー?」
最初の呼びかけで、少年は思いきり肩で驚いていたけど、二度目は知らんぷりをした。顔をひざに伏せたのは、あっちへ行けという意味か。
構わず、ユッポは何かを語りかける。少年は顔を上げたけれど、目線を横に逸らしたままでいる。遠巻きでは、ふたりが何を話しているか、わからなかった。ただ、ユッポを煙たがっているように見える。ああ、小さな親切大きなお世話という、ことわざがあったっけ。
きっと、「どうしたの?」のひとことで、道中いくつもの面倒に巻き込まれるのだろう。半ばうんざりしながらも、僕は旅を続ける気なんだなと思った。
両手をばたばたしたり、顔を覗き込だりして、ユッポは熱心に少年と向かい合っていた。
そのうち、少年はきちんと顔を見合わせて何か言った。僕が待っているのを指摘したのだろう、ユッポが大袈裟な仕草で慌てている。道へ戻ろうと駆け出すユッポに付いて、少年も軽い足取りでこっちへ来た。
「こんにちは……」
うつむき加減の挨拶に、僕は一応「こんにちは」と返すが、もう夕刻だ。言うなら「こんばんは」じゃないのか?
「あは、ふたりとも、夕方なのに。こんにちは、だって」
「……へへ、明日から気をつけるよ」
ユッポの笑い声につられて、少年は子どもらしい笑顔を見せた。つい動かない表情と比べてしまう。客観的に見ている分には、声色からユッポの表情を錯覚することはないようだ。山道での微笑みは、寒さが見せた幻か。
薄暗くなってきた道を村へと歩く中、僕だけが切り離された世界にいた。
「ユッポは、寒くないの?」
元気すぎる旅人に、少年が素朴な疑問を投げかけた。ユッポは、まるで土地の者であるかのようなのだ。普通なら、僕と同じく凍える。
「へいきだよ。アツいのもサムいのも」
羨ましい限りだ。会話には参加せずに溜息をつく。生身の人間じゃ、限界がある。
「あ、やっぱり、あんまりアツいのはだめかな……」
訂正するのは、ごく普通の事柄に聞こえる。少年は、自分も暑いのは苦手だと笑った。身に馴染んだ気候の方が、楽に決まっている。
でもユッポが言った熱さとは、火のことなんじゃないだろうか。知識として、雪は冷たいもの、火は熱いものと覚えている。そして、自分が燃えやすい木で出来ていることもわかっている。今は、たまたま話が噛み合っているんだ。
村に入ると、ちらほらと行き交う人々は、雪の少ない町と同じく機敏な動きをしていた。住居を据えて人が住む所は、比較的気候が穏やかだから、僕も縮んでいた背中が伸びた。それで温度の変化に気付いて、ユッポは「村はアッタかいんだね」と感想をもらした。
「ダルは山の恵みの村だもん。いいところだよ」
村への愛着を示しながら、少年の声は暗い。ひょっとしたら、内気な性格で人と話すのが苦手なのかもしれない。何か話そうとすると、言葉を探しているうちに時間が過ぎ去る。幼いころ、僕はこういう子どもだった気がする。少年はきっと、子ども達の輪にうまく溶け込めなくて、居場所を探してあんな所にいたんだ。ユッポは見ただけで、その淋しさに気付いたのか?
「これから、もっといいところになるよ」
励ます声とガラスの瞳に、少年に声をかけた理由は見えない。
「友達、できるかな」
「こんにちは、って言えばね」
僕の口からこぼれたのは皮肉だったが、夜へと移りゆく夕闇に「こんにちは」なんて、益々おかしい。ユッポも少年も声を立てて笑っていた。
傍から見ると、僕はこの少年のようなのかな。ユッポに励まされて、すっかり元気みたいだ。