⑤
ユッポが動かなくなった日から、もうすぐ一年になるだろうか。僕は、ヘミオラの工房で、家具職人として忙しい日々を送っている。戻ってすぐは気が塞いでいたし、しばらく留守にしていたこともあり、仕事が軌道に乗り始めたのはここ半年のことだ。
家具や建具の修理依頼は、波があれども尽きることは少ない。まれに、離れた町から依頼が舞い込むこともある。
突然、工房に大きな届け物があって、驚いたこともあったな。大人ふたりがかりで運んできたのは、覚えのある揺り椅子。手紙が添付されていた。
「お久しぶりね、セコ。元気にしているかしら。あれからも、孫は椅子を揺らして遊んでいるけれど、何も問題はないわ。なのに、今回そちらに送ったのは、頼みたいことがあるからなの。息子家族はどうしても私が心配で、何度も同居できないか相談を重ねたわ。私も、賑やかな生活も悪くないかしら、なんて思い始めた。ふたりめが出来たから、育児を手伝ってほしいなんて言うんだもの。それで、あの椅子と一緒にお引っ越しする方法をみんなで考えたの。どうか、手のひらに乗るような小さな椅子に、あれを作り替えてくれないかしら。同じデザインの新しいものでなく、あの椅子から小さな椅子にしてほしいの。それなら、花瓶の横にでも飾っておけるでしょう」
テクマスマで出会った、おばあさんからだ。家族で共に暮らすことを、決めたんだな。
思い出と共に暮らす方法を思いついたのは、孫だったそうだ。柔軟な発想に舌を巻く。
ただ、それでは素材がたくさん余る。こちらで処分してしまうのも、淋しいような。
代金は先払いで、ずいぶん気前良く貰っている。何かオマケをつけたって、バチは当たらないだろう。
おばあさんへと送り返した包みは、家族が想像しているより大きいはずだ。首を傾げながら開けた時、喜んでくれるといいな。ミニチュアの椅子と一緒に、子ども用の揺れない椅子を仕立て直した。
こんな風に、依頼に応じて工夫する仕事が出来ている。工房は目新しさで仕事が貰える時期を過ぎていたが、代わりに町に馴染んで来たようだ。この前は、彫刻したコートハンガーが売れて、自分でも驚いた。
それに、以前よりずっと、僕自身が町に馴染めていると思う。仕事が増えただけでなく、ここに暮らしていて楽しいからだ。
「おっ、セコ。いいところに来たな」
パン屋のマークは、少しは愛想のましになった客に笑いかけた。さては、新しいパンを試作したんだな。後で感想を聞かせてくれと、今日の買い物にはオマケがついた。
僕は、時々オマケが貰える常連客に仲間入りをしていた。そういえば、初めてのオマケも試作のパンだったな。皆が、帽子か扇子か、そもそも上下はどう見ればいいかと頭を捻る中、何を象ったパンなのか、僕にはわかったんだ。元気で明るい女の子をイメージしたパンは、ケープを模したもの。ユッポが着ていた、上着の形だった。柑橘の香りがよく似合う。
さあ、今度はどんな試作だろう。家に帰って包みを開くと、箱のような真四角のパンが出てきた。片手の上がいっぱいになるくらいの大きさだけど、軽い。切ってみたら中は空洞だった。バターの良い香りが広がる。好きな具材を入れろってことかな?
食事が済んだら仕事に戻る。ずっと根をつめて作業していると、深呼吸や伸び、小さな休憩が必要になる。
今は、手指も爪もどこも痛くない。あの時は、絆創膏や包帯だらけだったのにな。手元から離れた意識は、いつも決まって同じことを思い出した。
ユッポを抱いて、森の小屋から皆の家を目指した道。
瞳を失い、動きを止めた姉を連れて帰ったら、ムウタは怒るよな。トロットは、怒る元気もなくしてしまいそうだ。コーダは物陰に隠れ、口をきいてくれないかも。
「なあ、ユッポ。どうしてこうなったんだ?」
言葉をかけても、ユッポは黙っている。ぱくぱくと口が開閉するのは僕が歩いているからで、一歩ごとに脱力した足が揺れる。重さは変わっていないはずなのに、やけに軽いような気がした。
やりきれない気持ちは、家に着いて更に大きくなった。ムウタとトロット、コーダだけになった家では、すぐ寂しくなってしまったんだな。ムウタの修理に使った大部屋に、全員が一緒にいた。ひとつのベッドに一枚、カガミが置いてある。おのおのが使っていた所なのだろう。
建物の中は、とても静かだ。
待っていた三人が、僕を咎めることはなかった。温かく迎えてくれることもなかった。ユッポと同じく、皆が動きを止めていたんだ。
ここには誰もいない。家の主が戻ることもない。
残されたカガミのある部屋で、僕はしばらくぼうっとしていた。
みんな、いっしょ。これはこれで、そうと言えるのかもしれない。生きていてほしかったというのは、僕のわがままなんだろう。
でも、旅の中では、ユッポのお陰で笑顔になれた人達がいた。僕も変われた。
皆、ユッポのことを好きだったと思う。だから、悲しい。
「本当に……どうして、こうなったのかな」
答えの出せない問いを、声でも胸の中でも繰り返す。棚を寄せ集めた作業台は、使った時のまま。角のほうに、木屑がこんもりと集まっている。
まだ片付けてなかったな。急いでいたし、ここへ戻るつもりだったから。ユッポと一緒に。
ぱさ。微かな音を立てて、木屑に雫が落ちる。
ユッポの体は、そのカガミがあるベッドに横たえた。やっぱり遺影みたいだから、僕はずっと下を向いている。
「ユッポ……」
頬を伝って顎を離れて、落ちる瞬間まで涙は温かい。当たり前の事実が苦しい。こんなに溢れてくるのは、いつ以来だろう。
旅の出来事をひとつ思い出す度に、新たな熱がこみ上げてくる。関わった人々も、彼女を思い出すことがあるかもしれない。あの子、元気かなって。
木屑の山がだいぶ小さくなると落ち着いてきて、なぜだか急にお腹が空いた。そういえば、ユッポは美味しいお茶の味も知ることができなかったんだよな。
自分の空腹には、悲しみよりも怒りが湧いてきた。やっと、涙が止まりそうだ。
顔を上げかけた時、階段を上る音が聞こえた。重たい足取りで、この大部屋に来るまでに何度か転んだらしい。廊下は散らかったままだ。
「ハノン? 何か用か」
あいつの気配が部屋の入り口まで来たから、背を向けたまま問う。あまり顔を見たくないし、見られたくもない。
「親愛なる弟子へ」
「は?」
「この手紙を読んでいるということは、私の最期を見届けてくれたのだね。ありがとう」
淡々と語り出した声に横目を向けると、ハノンは何か便箋を読み上げているようだった。白い紙に隠れて、顔は見えない。
「そして、深く謝りたい。どこまでも君を振り回してしまった。こんなことで君を解き放てるかわからないが、私の埋葬はハノンに頼みたい。弟子達の作った、ドアの小屋の近くがいい。どうかこれからは、私の死をみとめ、自分自身の手と向き合ってほしい。職人であろうとするならば、ハノンが見つめるべきは、もう私ではない。追いかけてはならない。……なんだろうね、これは」
きれいに撫でつけてあった髪は、少し乱れている。足元に枯れ葉が付いて、膝が土に汚れているのは、森でも転んだからか。枝に掠ったような傷もある。
兄弟子は手を震わせて、便箋の向こうから顔を出した。目線は僕を向いているが、焦点が合っていない。口もとの笑みは感情からのものではなく、現実を拒む最後の砦に見えた。
「遺書……かな」
ひと言で、砦を攻め落すような言葉がこぼれる。お前に優しくする義理はない。
「そうだよね、まるで遺書みたいだ。こうなったら開けるようにって、前から預かっていたんだけど……この、一緒に入ってた封筒。これは、お前宛てらしい」
ハノンに託されていた手紙には、ひと回り小さな封筒が入っていた。宛名はセコの工房になっている。封をされたままだから、ハノンは中を見ていない。
「不思議そうな顔をするなよ、他人への手紙なんか読まない。自分に向けられた言葉だって……うまく、飲み込めないのに」
なんだか、憑き物が落ちたようだ。混乱で目が曇っているとしても、人形に向けて泣く僕を揶揄することもない。腹立たしい笑みを引っ込めて、悲しみで表情を歪めている。僕が封筒を開けてみる間も、ハノンは遺書を音読していた。
「フィッテルの工房は、セコに任せたい。工房として使うのも、誰かに売るのも彼の自由だ。人形を作る私に向けた憎悪の正体は知らないが、気の済むようにしてほしい。特に長く時間を共にした君たちへ、私ができるささやかな贖罪だ。許せとは言わない」
僕への封筒にも、およそ似たような文面の手紙が入っている。工房の権利を譲渡する書面も。
「私は、何かを作ることで、現実から逃げ続けた。人間の中でも、弱い存在だと思う。こんな人間を師と呼び、学んでくれた弟子達に、心からお礼を言いたい。ありがとう。本当に、ありがとう……」
親子そろって、ありがとうと言って旅立つのか。また目頭が熱くなるけれど、今はこらえた。ちょっとした意地。
「……そんなに辛いなら、全部読むことなかったのに」
ハノンがひとしきり泣いてからここへ来たのは、顔を見ればわかる。せっかく乾いた頬をまた濡らし、「うるさい」とむくれるハノンは子どものようだ。
「家具職人ペターに学ぶことが、俺の全てだ。失うとわかっていても、覚悟できるわけがない。さっさと独立したお前とは違うよ」
「別に……僕は、目の前で人形を作られることに、耐えられなかっただけだ。もう気にしていない。しかし……この工房を僕に、ね。どうしたものか」
この時ひっかかったのは、テクマスマでおばあさんに渡した銘紙。僕が、職人として得たつながりだ。大部屋を見回しながら、工房全体の様子を思い浮かべる。どうするとしても、ここを去る前に片付けをしよう。お化け屋敷と扱われたままじゃ、嫌だもんな。
改めてユッポを見る。カガミと比べると、少し違和感があった。これまで表情にばかり目がいったけれど、今は何が違うかわかった。ユッポの髪が、カガミよりわずかに長いんだ。
出会った時は、カガミと同じくらいだった。旅の間に伸びたのか。じゃあ、これからは?
もう、伸びないのかもしれない。希望が薄い中で、僕はまた、諦める勇気を持てなかった。そして新たな挑戦を決めた。
ヘミオラで職人を続けながら、仕事の合間に古い画材を掘り返す。それで、ガラスの絵付けを練習している。人形の目を作るには、それに向いた絵の具を使うから、少し勝手が変わるだろう。ガラス玉に筆を入れるのは、もう少し先のこと。
僕が瞳を作って、ユッポは再び動くのか? 動いたとして、それはユッポなのか? 布張りだって、直せるかどうかわからない。
疑問も不安も、考えるほどにわいてくる。そんな時は、決まって海の方を見る。彼女は今も、あの家にいるんだ。海の向こう、フィッテルの工房に。また、会いに行くからな。
「……よしっ」
手を動かす。自分に強いる没頭ではなくて。
手を動かす。お客さんのために、思い描く未来のために。
いつかユッポが目覚めたとしたら、どうしても伝えたいことがあるんだ。言いそびれた「ありがとう」を、真っ先に。
僕は諦めないよ。ユッポの髪は、今も伸び続けている。
「ふたつぶの涙」、ここで完結です。
最後までお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。




