②
どうしてかな。もうすぐそこにパパがいるのに、あのドアを開けようか迷った。
でもね、セコが「行っておいで」って言ってくれたから、わたしはドアを開けられたんだ。アッタかい手が、またわたしに勇気をくれた。
パパ。なつかしい、パパ。長いいすを集めて、ベッドがわりにしてる。となりの小さな棚には、水さしとコップが置いてあるけど、水は少しも減っていない。
わたし……どうして、だまってるの? どうして、ドアの前から動けないんだろう。パパにあやまらなくちゃ。約束、やぶったんだもの。そう思うのに、立ったまま小屋の中を見まわした。柱に、地下の階段にあった絵がかけてある。寝たままでも、パパから、よく見える場所。
「よく、来てくれたね。待っていたよ」
かすれた声はやさしくて、ほっとした。それで、やっと声が出せた。
「パパ!」
すぐそばに行くと、ほっぺがへこんで、うでとか、ゆびが細くなってるのがわかった。そうだ、パパはビョーキでやせたんだ。
「いいつけ、やぶってごめんなさい。わたし、パパをさがしたの。ふねにのって、海をわたって……セコが、いっしょにさがしてくれて……」
声がふるえちゃう。サムくなんてないのに。だって、パパの言葉を聞くのがこわい。家でいい子にしてたら、よかった? そうしたら、みんな元気でいられたの?
パパのビョーキも、あのひとが、みんなをこわしたのも、わたしがわるい子だったせい?
とちゅうで話すのをやめてしまったわたしに、いつもと同じように、パパは笑いかけてくれた。今、ここにいてくれるだけでいいって。
ただ、何かが……ちがうかんじがした。パパは、だれに向けて笑ったんだろう。
見ているほうをたどったら、あの絵だった。今日は、いつもより悲しそうに見える。
「私は、もうじき死ぬ。皆を、悲しませたくなかった。一度は、姿を眩ませた。だが……やはりお前にだけは、そばにいてほしかったんだ」
パパの方に顔の向きを戻したら、細くて長いためいきをついていた。
たぶん、いつかこんな日がくるのはわかってた。パパが、「私がしんでも泣いてくれる人はいない」って、言ったときから。
だから、わたしはいい子でいようとしたの。その日までに、人間になるために。
いい子らしいことをすれば、それがだれのためでも、かまわないって思ってた。だれかのために、何かをするって言うのに、ココロの中では自分のためだったって、気がつかないでいた。
セコが、それじゃだめだって教えてくれたんだ。おかげで、わたしはほんとうのいい子に、みんなのお姉ちゃんになれるように、がんばれたけど……おそかったのかなあ。
「ごめんなさい、わるい子で。まだ、人間になれなくて。いっぱい考えて、いろんなことをして、ここまで来たけど……わたし、まだ泣くってことができないの」
パパ。わたし、涙がほしいよ。
しぬってどういうことなのか、わたしは知らない。どんな意味の言葉なのか、セコに聞いたこともなかった。こわいことのような気がして。
でも、パパがしぬとき、そばで泣くひとがいれば、パパにとって少しのあんしんになるんだって思うの。今は、わたしがそのひとでなくちゃならなかったんだよね。ここには、わたしとパパだけだもの。あの絵のひとは、いないもの。
人形で、ごめんなさい。ベッドの横で、床にひざをつける。パパの目を見ると、こんどはわたしに向けて笑った。
「ありがとう。やっぱり、優しい子だ」
言葉に出したわけじゃないのに、パパはお別れにほめてくれたようなかんじがする。細くなった手を伸ばして、わたしの頭に置く。パパの手は、セコよりちょっとつめたい。頭をなでるのは、これがさいごだよって言ってるみたい。どうして?
パパは、帰りたくないんだ。わたしは悲しくなって、布団のはしをにぎって声をかけた。
「帰ろうよ……みんな、家で待ってるんだよ」
わるい子で、ごめんなさい。うそをついたの。家にはアンバーも、ビッテも、ティピカもいない。みんなが待ってるって、ほんとうは言えない。でも、みんなが元気なら、パパはうれしいはずだから。
「すまないね……もう、壊れてしまったんだよ。私の幸せは」
布団の上におろした手はぐったりして、疲れたみたい。サミしい顔をするのは、わたしのうそがわかるから? 家があんなになったのを、あのひとに聞いて知ってるのかな。
「ずーっと、昔のことなんだ。気が付くのが、遅すぎた」
そうか、わたしが生まれるよりも前に、パパのしあわせはこわれちゃったんだ。ムウタも、コーダも、トロットも、待ってるのに。わたしだって、パパといっしょに、あの家でくらしたいのに。みんながいっしょでも、パパはしあわせじゃないんだね。パパのしあわせ、どこに行っちゃったんだろう。
「……パパ。わたしには、何ができる?」
悲しい。サミしい。ムナしい。
覚えた言葉をならべたって、ぜんぜん足りなかった。パパにはもう、帰る元気もココロもないんだ。いやだ、帰ろうって、いくらでも言いたいけど、がまんしたの。
きっと、これがパパのため。
わたしの言葉にちょっとびっくりして、パパはまた笑った。そばにいてくれるだけでいいっていう声は、さっきより小さい。目は、しっかりわたしの目を見ている。
そうしたら、あの家にわたしとパパのふたりきりだったときのことが、頭の中にうかんだ。アンバーとビッテが生まれるより前。昔のココロをホウムるんだって、パパは、庭に箱を埋めていた。
「お前達と生きるのは、私の新たな幸せだ」
そう言って、わたしがサミしくないようにって、急いでみんなを作った。
ずっと忘れてた。みんないっしょの毎日はすごく楽しくて、パパも楽しそうだったから。
ホウムるって言葉の意味は、オハカに埋まること。もう、いなくなること。お別れ。
「ユッポ」
「なあに、パパ」
パパは、ひとつだけ、おねがいがあるんだって、わたしに言う。
「お前の、その美しい目を、私と共に葬ってほしい」
その声で、わかってしまった。もう会えなくて、ホウムることになる。それが、しぬっていうことなんだ。
どうすれば、こうならなかったんだろう。パパは、いなくなっちゃうんだ、もうすぐ。
悲しい、サミしい……痛い。痛いよ。
「まだ、泣けない目だよ。それでもいいの?」
大きくうなずくパパを見ながら、わたしはふしぎに思った。この目はガラスでできていて、オハカに埋めたって、涙は流せない。
小さな小さな声が、さいごに聞こえた。
「私にとっては……お前の、その目が、全てを満たしてくれる……ふたつぶの、涙だ」
そうして、パパは動かなくなった。
「パパ?」
呼びかけても、何も言わない。眠ったのとは、ちがう。すぅすぅ、聞こえない。
ここにいるけど……いないの?
「……わかったよ、パパ。わたしの涙は、ずーっと、パパといっしょだよ」
聞こえたかな。
前に、パパはわたしの目をほめてくれたよね。命の色をしてる、きれいだって。目のおくのほうを見て、笑ったね。
ムウタ、コーダ、トロット、ごめんなさい。また、パパを連れて帰れないの。ここまで来てくれたセコと、いっしょに帰ることもできないの。
だけど、パパのためには、こうするのがいちばん、いいみたい。
わたしは、ふるえる手を、自分の目にのばした。




