3.最初ノ日曜日
日曜日の朝7時、すがすがしい光がわずかに開いたカーテンから門杜洸が眠るベッドにも差し込む。もぞもぞとまだ眠っていたい体を無理やり起こし、洸は大きく伸びをした。
「おはようございます。洸殿」
声がベッドの隣に置いている小さなテーブルから聞こえた。洸は欠伸をしながら聞きなれない声の主を探した。テーブルの上には充電ケーブルにつながったスマートフォンと英語の単語帳、そして黒光りした多足の虫、体調10㎝ほどのムカデ。
「お初にお目にかかります。あっしは―――」
ムカデのあいさつが終わる前に洸はベッドから跳ね起き、パジャマのまま自室を出た。
「洸、おはよう。どうしたんだい? 朝からバタバタと」
キッチンで朝ごはんを作っていた洸の父親・門杜海は部屋から飛び出てきた洸に声をかけた。その傍らで黒い人魂・ゴクがフライパンで焼かれているベーコンエッグを物欲しそうに見つめている。
「父さん、部屋にムカデが出たんだけど、殺虫剤どこにあったっけ?」
「テレビ台の右の棚だよ。僕がしようか?」
「大丈夫!」
父親の傍にゴクがいることに気付く余裕もなく、見つけた殺虫剤を片手に洸は自室に戻る。ムカデはまだテーブルの上にいた。洸は殺虫剤の噴出口をムカデに向ける。
「ちょ、ちょっとお待ちください! そんな物騒なものは下げてください!」
ムカデは懸命に体上半分を持ち上げて懇願し、自分は咬まないと洸に伝えた。ゴクは閉じられたドアをすり抜けて洸の部屋に入ってきた。
「落ち着け、洸。そいつはただのムカデじゃない」
ゴクの姿を見た洸は見つめたまま身動きを止めた。
「なんだ?」
ゴクの問いかけに洸は殺虫剤を床に落とした。落ちた場所はカーペットの上だったので大きな音はしなかったが、洸は膝から崩れ落ちた。
「夢じゃなかった…夢であってほしかった…やっぱり人魂いるし、しゃべるムカデって…」
顔を覆って嘆く洸をゴクはケラケラと笑い飛ばした。
「あの、何というか…いいことだってありますよ!」
ムカデの投げやりな励ましがかえって洸を落ち込ませた。
「んなことより、こいつは毘沙門天の遣いだぞ」
「毘沙門天…て七福神?」
洸はようやく顔をあげ、頭の中でぼんやりと宝船に乗る七人の神様を思い浮かべる。うろ覚えのためどれが毘沙門天か、そもそも七人の神がどんな容姿かをはっきりと思い出すことができない。
「はい、その通りです! あっしは七福神の一柱、毘沙門天様に仕えております。名はカナトと申します。新たなる閂鬼と神々の橋渡し役となれとの命を受け馳せ参じました!」
「…そうですか…お勤めご苦労様です…?」
ムカデと会話しているという事実に洸は困惑しながら、神の遣いということから何となく敬語を使った。
「洸~ムカデは退治できたのかい? 念のためビニール袋できちんと閉じ込めて捨て…」
「だ、大丈夫! 見間違い!」
扉越しに声をかけてきた父親に洸は慌てて返事をした。少々食い気味に返事をした洸に海は引っ掛かりを覚えつつ、朝ごはんができたことを伝えキッチンへ戻った。
「詳しい話はちょっと待ってください」
洸はムカデのカナトに声をかけ、パジャマから部屋着用の黒いジャージに着替えた。
「…にしてもお兄、昨日から変だよね」
寝癖の残ったまま食パンをかじる妹の渚の図星をついた言葉に洸の顔が引きつった。
「な、何が?」
「グミ見つけたって連絡あったのに、帰ってくるのに1時間近くかかって、今朝はムカデの幻覚見て」
「昨日は何か見るからに不良な人たちに追っかけまわされたから逃げ回ってたからで!」
早口で弁明する洸に渚はわずかに眉をひそめ「不良ねぇ…」とまた一口食パンをかじる。
「でも無事に帰ってきてくれてよかったよ。帰りが遅くて心配したよ」
「ご、ごめん」
穏やかな父親の表情が一瞬陰るのに気づき、洸は目を逸らす。家族間での隠し事はほぼないが、妖怪と知り合って訳のわからない役目を押し付けられたという出来事を正直に話せば、頭がおかしくなったと心配されること請け合いだ。
ぼろが出ないようにと食事に集中しようと決めた洸は、自分の小皿にあるベーコンエッグに箸を伸ばすが、すでに皿の上かカラだった。皿のすぐ近くにはゴクが浮いており、口をもぐもぐと動かしている。
(な~~~~!!?)
その場でゴクに文句も言えず、洸はやりようのない怒りを飲み込んだ。
「ゴク、ご飯が食べたいなら後でどうにかするから勝手に僕のご飯を食べるな。父さんたちに見られたらどうするんだ!」
部屋に戻った洸はゴクに早速文句を言った。だが、当のゴクは素知らぬ顔で部屋を無意味にぐるぐる回るだけだ。その様子を見ていたカナトは首をかしげた。
「はて? ゴクは食事の必要ないでしょうに。なぜそんな目立つ行動を?」
「そうなの!?」
ゴクを追いかけていた洸はぴたりと動きを止めた。
「ゴクは断獄に込められた神の力が意思をもった存在。肉体無き者に食事はいりません。まぁ中には趣味で飲み食いする者もいますが」
「なんなんだよ、お前は!」
反省の素振りも見せず天井付近に浮かぶゴクに洸の腕が届くことはなかった。
洸とゴクの追いかけっこが始まった頃、『喫茶・有明』
坂の町・尾道。寺や神社へつながる細道に民家が並ぶ街。住宅から少し離れた場所に隠れるように民宿、喫茶店、パン屋などがポツリと建つ。
『喫茶・有明』早朝3時から朝6時までの営業で飲み屋での余韻に浸っている者、散歩の途中のご老人がふらりと立ち寄る店。
出入り口に取り付けている鈴がチリンチリンと来店を告げる。若い女性の2人組が恐る恐る店を覗く。
2人は近くの貸し切り古民家に泊まった観光客だ。前日にこの喫茶店を見つけ朝ごはんを食べに来た。2人は店の雰囲気にあっと感嘆の声を漏らす。
天井は吹き抜けのように高く、カウンター席が3隻、二人掛けのテーブル席が2卓しかない。カウンター席では長い髪を高い位置でまとめている男が突っ伏して眠っており、それを気にせず空色の着物に割烹着を着た女性がカウンター奥でグラスを磨いている。テーブル席で食事を終えた品のいい老夫婦に長身の男性店員が食後のコーヒーを出している。
「いらっしゃいませ」
カウンターでグラスを磨いていた店主の竹上明日奈の柔らかな笑顔に女性客はホッと緊張を緩めた。明日奈は手ぶりで女性客をテーブル席に通した。カバンを椅子に下に置いていた荷物置きようのかごに入れ、席に座り一息つくタイミングで長身の店員が温かいおしぼりとお冷を持ってきた。
「どうぞ。注文が決まったらお呼びください。メニューはそこに貼ってあります。パンかご飯を選んで、おかず3品、食後の飲み物で1000円モーニングがおすすめです」
女性客は店員に見惚れてしまう。190㎝近い長身は程よい筋肉で引き締まっている。白いTシャツとデニムパンツ、店名入りの茶色のエプロン。猫目に金色の瞳、ツンと鼻筋が通っている。
女性客二人はしばらくメニュー表ではなく、店員の後姿を追った。ゆっくりコーヒーを味わっていた老紳士が店員に声をかける。
「にしても高之君はほんにかっこよーなったねぇ。今、何年じゃったっけ?」
「高1です」
「そうかそうか! もう高校生か!」
「高校はどう? 楽しい?」
「まぁおいおいやってます」
コーヒーを飲みながら、食べ終わった食器を片付けながらの他愛もない会話に女性客は色めき立つ。
(高校生⁉ ヤバ⁉)(高1でこの大人っぽさ…)
老夫婦はカウンターの店主にも声をかける。
「明日奈ちゃんもホントすごいわ」
「女手一つで高之君育てて、お店切り盛りして…料理もコーヒーもおいしい」
「ありがとうございます。でも私一人の力じゃないよ? 六さんと菊さんが毎週来てくれてホント嬉しい」
女性客2人が常連客と店主の遠慮のない会話に和んでいると、片付けを終えた高之が声をかけてきた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「あ、はい! 私は食パンと春野菜サラダとコーンスープとスクランブルエッグ、ブレンドコーヒーで!」
「ベーグルとベーコンサラダ、目玉焼き、果物の盛り合わせと紅茶をお願いします」
居酒屋を思わせるようなメニュー数。和洋の朝ごはんがそろっている。ほどなく温められたパンとベーグル、サラダとスープが運ばれてくる。女性店主は注文と同時にスクランブルエッグと目玉焼きを作り始める。
その音が目覚ましになったのか、カウンター席で突っ伏して眠っていた長髪の男が顔をあげた。伸びをする男に2人組女性観光客はぎょっとした。左頬にメ型の大きな傷、鋭い目。黒いポロシャツとレザー生地のパンツ、金のネックレスとブレスレットがさらに威圧的な雰囲気を作っている。
「おはようございます、悪五郎さん」
店主は息子である店員・高之に出来上がったスクランブルエッグと目玉焼きを渡すと日本茶をカウンター席の男に出した。フルーツの盛り合わせを用意するため、バナナ、リンゴ、オレンジをカウンターに並べながら店主は男に声をかける。
「今日は珍しく酔われたみたいですね。楽しいことでもありましたか?」
「…あぁ、久々に遊んだ。手加減は面倒だったが気分はいい」
神野悪五郎は海苔茶漬けを注文した。せっかく目の前に出されたフルーツの盛り合わせよりも2人組の女性客の意識は男に向けられた。目を合わせてはいけないと直感で思うが、その存在が気になって仕方ない。全身から冷や汗が湧いて流れる。常連の老夫婦は慣れているのか悪五郎の威圧をものともせず、カウンターに近寄る。
「遊んだって、悪五郎さんの遊びに付き合わされた奴は大損だよ」
会計をしながら、老紳士は悪五郎に笑いかけた。明日奈から海苔茶漬けを受け取った悪五郎は湯気の立つそれを一気に掻きこんだ。
「何事も変わり時が一番楽しいもんだ」
「あんたに変わり時なんてあるのかい?」
「俺が変わると思うか?」
質問を質問で返され、老紳士は肩をすくめた。老夫婦は店主と高之に挨拶をして店を後にした。店主は老夫婦を見送るとカウンターから出て、すっかり悪五郎の雰囲気にのまれている2人組の女性客にコーヒーと紅茶、アイスボックスクッキーを出した。
「怖がらせてごめんなさい」
「い、いえ…」「あの、このクッキーは?」
「おまけです」
店主の笑顔と温かいコーヒーと紅茶、そしてサクサクとしたクッキーは2人の心を癒した。2人は今日のパワースポット巡りの計画を話すと店主はその途中にあるお薦めの店を紹介する。2人の中から異常な悪五郎への意識は消えた。
日本茶を飲む悪五郎はふと窓の外に目をやった。遠くを見つめる悪五郎に高之は首をかしげた。
「どうされました」
「面白いのが来た」
「それ、門杜からしたらめんどくさい奴ですよね?」