狐の嫁入り
「こぉ~んッ」
宙空で一声鳴いた狐は不思議なことに鉄扉をすり抜け、難なく昇降用の階段部分に至る。
それに留まらず、折り返しの階段を四つ肢で軽快に飛び上り、廊下を駆け抜けて借主より早く “透過能力” で部屋にまで転がり込んだ。
薄暗い室内で乱れた呼吸を整えながら、凛とした “霊気” を纏わせた狐の周囲が眩く光り、突如としてケモ耳と尻尾を持つ美しくも可憐な少女が現れる。
晒された白い素肌には一瞬で幾重もの霊糸が纏わり付き、白と緋色の巫女装束を構築した。
やや着崩した装いから、日常的に巫女服を愛用していると思しき少女は “わたわた” と慌てつつも、ぺたんと床に正座して三つ指を突く。
その瞬間にガチャリと鍵の開く音が鳴り、扉がゆっくりと開かれて…… 即座に閉じられてしまう。
「あぁ、きっと疲れが限界まで溜まっているんだね」
何やら美しい少女の幻影を見たと割り切り、僕は再びドアノブを掴んで開いたものの、どうやらそうでは無かったようだ。
長く艶やかな黒髪からケモ耳を覗かせ、もふもふ尻尾をくねらせた不思議な少女は未だ健在で、あまつさえ可愛らしい声で話し掛けてくる。
「お帰りなさいませ、悠さん」
「…… 誰?」
さっきの狐を脳裏に過らせて問い掛ければ、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに狐娘が微笑む。
「子狐の頃に溺れている所を助けて頂きました、霊狐の桜花です」
「……………… あぁ、うちの爺さんに山籠もりさせられていた時の」
田舎で暮らしていた少年時代、夏と冬の閉校期間は筋骨隆々な化物染みた祖父に拉致され、散々な目に遭っていた事を思い出した。
当時の過酷な日々が現代社会に於いて、何の役にも立ってない事実に僕が遠い目をする一方、桜花と名乗った狐娘は嬉しそうに尻尾を左右に揺らす。
「分かって貰えたようですね。この通り、尻尾は一本の未熟者ですが、御師様の許可を得て恩返しに来ました」
「まぁ、玄関で込み入った話もあれだから、上がらせてくれ」
「はい♪ あ、お茶を入れますね」
勝手知ったる我が家のように台所の棚を漁り始める桜花さんだが、茶葉など買った覚えは無く…… 暫時の後、ケモ耳を伏せてしょんぼりとなる姿がそこにあった。
「うぅ、何もありません」
「独り暮らしの若い男なんて、大概はそんなものだと思うけど」
「はッ、まさか……」
何やら呟いた狐娘が冷蔵庫を開けるも、そこに入っているのは冷蔵庫用の脱臭剤のみだ。さらに言えば日頃は外食かコンビニ飯、冷凍食品で済ませているため調理器具も碌に無い。
「はうぅ、これだと夕餉を作ることもできません」
「いや、もう外で食べてきたから大丈夫だよ」
「むぅ、仕方ないのです…… ところで、これは?」
「包丁代わりのサバイバルナイフだね」
今後の為にと台所周りを漁っていた桜花さんが手にしたのは軍用の多目的ナイフで、最近だと玉葱やじゃが芋を切ったりした記憶がある。
「ありえない、悠さんは駄目人間だったんですね」
「いや、独り身の若い男なんて……」
「言い訳は見苦しいですよ、悠さん。良いでしょうッ、私が一緒に暮らして貴方を更生させてあげます!」
四つん這いで項垂れていた狐娘はやおら立ち上がり、近所迷惑な大声で高らかに宣言した。