六
車は『国立病院』に向かっていた。
すでに午後三時を過ぎており、外来の対応は終わっている時間だ。
三住さんは、エントランスにある受付カウンターを通り過ぎて、慣れた足取りで、エレベーターホールに向かう。
私も、遅れないように、後ろに続く。
病棟の四階まで上がり、足早にとある病室を目指し、遠慮なしにドアを開けて、中に入る。
室内に一つだけあるベッドには、様々な医療器具が繋げられた四十代くらいの男性が横になっていた。
半透明の吸入器が顔の半分を覆っていて、優しそうなのか、険しそうなのか、表情は、よくわからない。
「こんにちは」
私たちの背後から、声が上がる。
振り向けば、中年女性が、ペコリとお辞儀をした。
見た目の年齢は、だいたい四十代。
茶色に染めた長い髪。
ふっくらとした二重顎。
愛想の良い笑顔をふりまいているが、どこか悲しげな雰囲気をただよわせている。
「田河さん」
と、三住さんは呼ぶ。
「容態に変化はありましたか?」
「ご覧のとおり、相変わらずですわ」
田河さん(おそらく奥さん)は、静かに首を横に振る。
「三日前に、ブドウ球菌っていう感染症にかかりまして、集中治療室に入ったんですが、今は、落ち着きまして、熱も下がりました」
「頭のケガの方は?」
と、三住さんが訊ねると、奥さんは、ほんわかと口元を結んで、
「相変わらずですわ」
と、答えた。
「次女がずっと付きっきりで、手を握りしめながら話しかけると、うなずいてくれるよ、なんてことを言ってますが、きっと錯覚だと思います」
奥さんは、旦那さんに「ねえ」と話しかけるが、旦那さんからは、反応は無かった。
「私には、何も答えてくれないんです」
奥さんは、肩をすくめながら言うと、ヤカンを片手に炊事場の方へ向かった。
「確か、トラックの荷室から落ちたんですよね?」
私は、三住さんに訊ねる。
二ヶ月ほど前に、緊急掲示板にて報告があった労災事故を思い出す。
コンビニエンスストアの駐車場で、飲料水の入ったコンテナをトラック荷室の横扉から降ろす作業中に、手が滑った勢いなのか、それとも暑い日だったので熱中症になって朦朧としたのか、原因はわからないが、七十センチの高さから後ろ向きにアスファルトの上に落下したそうだ。
両手で頭をかばう間もなく、そのまま頭が固いアスファルトに打ちつけられたのだ。
田河さんは、おそらく、その状態で気を失ったのだろう。
作業が遅いと感じた店員さんが様子を見に行った時に、倒れてる田河さんを見つけて、救急車を呼んだ。
時刻は、深夜の十二時過ぎ。
辺りを通りかかった来客も少なく、暗がりだったことも災いし、発見までに数十分程度、放置されていたことになる。
それから、田河さんは、まったく意識が戻っていない。
三住さんは、会社から車で一時間くらいの『国立病院』に、何度も足を運んでいた。
お見舞いを兼ねて、労災保険の手続きを支援するため、いくつも書類を作成して、奥さんに手渡すためだ。
別に田河さんの自宅に郵送しても良いことなのだが、三住さんは、そうしなかった。
「自宅に郵送していただいても良いんですよ。毎回、遠い所から来られるのは大変でしょう」
それに対して、三住さんは、何も答えず、ただ笑顔だけを返した。
その後、十数分間程度、病室に留まって、奥さんと二言三言の会話をパラパラと交わしながら、横になっている田河さんを静かに眺める時間が過ぎた。
十数分間程度というのは、後から確認した経過時間で、実際の感覚は、波紋の起きない静寂な水面を何時間も眺めていたような感じだった。
陽が西に傾いて、オレンジ色の空が広がった頃に、『国立病院』を後にした。
曲名:Someone Somewhere in Summertime
アーティスト名:Simple Minds
発表年:1982年
誰かが……
どこかで……
夏の日に……
家に帰り着いたのは、夜九時を過ぎていた。
夕食は、帰りにディスカウントのうどん屋に寄って、きつねうどんを食べた。
手早くお風呂を済ませたら、全身が疲労感に包まれていた。
三住さんに付いていっただけで、大した仕事はしてないんだけど……
私は、ベッドに横になって、今日一日、見たことを振り返ってみた。
総務の仕事って、何なのだろうか?
決まったルーチンとか、手順とか、マニュアルとか……
たぶん、そんなものは無いのだろう。
明日、私が出社して、何の仕事を始めたら良いのだろうか?
まったく、想像できない。
三住さんに、いろんな事を教えてもらって……それで、私に総務が務まるのだろうか?
まだ、初日……
明日は、いったい何が起きるのか……
私は、いつの間にか、眠りについていた。