三
社用車は、白いボディの四ドアの小型車両で、ハッチバックに小さな荷物を載せられる程度の車格である。
三住さんが運転席、私が助手席に乗る。
私は、ダッシュボードに入っている乗車記録簿を取り、今日の日付と、三住さんと私の名前を書きこんだ。
三住さんは、ポケットから取り出した小さな青色のメモリカードを専用スロットに差しこみ、カーナビの画面からオーディオ関係の操作メニューを呼び出して、『ソース選択』の設定をメモリカードに変更した。
そして、すかさず、『ランダム再生』を人差し指で押す。
すると、静かな背景からポロンポロンと悲しげなメロディーが、スピーカーから流れ出す。
三住さんは、曲名とアーティスト名を画面に表示する操作をする。
画面には、
曲名:The Unforgettable Fire
アーティスト名:U2
と、表示された。
私は、スマホを取り出し、『グループウェア』を呼び出す。
三住さんの今日の予定を確認すると、午前中に『労働基準監督署』、午後一時に『第二冷凍センター』、午後三時に『国立病院』と登録されているのを見つける。
その移動に、私も便乗している現状から、私の予定も、それらに便乗させる。
続いて、ネット検索で『U2』を調べてみる。
アイルランド出身のロックバンド
Bonoを始めとする四人組
『The Unforgettable Fire』は、1984年の作品で、『焔』という邦題が付いている。
「この『The Unforgettable Fire』はね」
と、三住さんが解説を始める。
「広島の被爆者たちが描いた絵に、Bonoが啓発されたらしいよ」
「私が生まれるより、ずっと前の音楽ですね」
「うん……ちょっと古い音楽」
悲しげなメロディーで始まり、メジャーコードに展開していくのを聴くと、何となく希望というか、平和というか、明るい印象を感じさせる。
「これが流行った頃、私が十九だったかな」
と、三住さんは、運転中なので、視線を前に向け、言葉も前に向けて飛ばすように、話し始める。
「建築資材の運搬で、トラックを運転してた。運転免許、取ったばかりで、いきなりトラックに乗れって言われてね、震えながらハンドル握りしめて、この曲、聴いてたな」
「三住さん、大学は行ってないんですか?」
訊いて良かったのか、悪かったのか、私は、何も考えずに、そんな質問を投げていた。
後から思えば、やはり、軽率だったかも。
「母子家庭の育ちで、経済事情が良くなかったんで、高卒で働きに出たよ。運転免許を取るのに、会社に借金もしてたし、とにかく働かないといけない雰囲気だったな」
私の父のことと、照らし合わせてみる。
三住さんと同じくらいの年齢で、三住さんが働き始めた頃は、学生だった、と思う。
大学の頃は、いっぱい遊んだ、なんて言ってた。
私も、大学では……似たような感じだった。
「でもね」
と、三住さんは、声の調子を上げて、続きを話す。
「通信教育でね、大学の単位を取ったんだ。五十の内にね、卒業したんだよ。四年制大学の正科生としてね。これでも、一応、学士なんだよ」
一瞬、意識が遠くなりそうになった。
三住さんが、遠い国からやって来たヒトのように感じた。
スゴイ、というよりは、ミョーな感じ。
学歴に対するこだわりを、ずっと持ち続けて、五十になってから達成したというのなら、スゴイ執念の持ち主だ。
でも、三住さんは、何か違うような。
好きでやってる……
そんなふう。
だから、ミョーに思う。
「じゃあ、私と同期ですね」
私も、三年前に四大を卒業してる。
自然に思ったことを伝えたら、三住さんは、アハと言って、喜んだ。
「『労働基準監督署』には、何をしに行くんですか?」
と、私が訊ねると、三住さんからは、
「是正報告」
と、答えが返ってきた。
「是正って……何か、悪いことをしたんですか?」
「うん」
三住さんはうなずき、快活にハハハと笑う。
「六月に、『第二冷凍センター』で臨検があってね。いろいろと法令違反を指摘された」
「大丈夫なんですか?」
「まぁ……大丈夫……かな?」
三住さんは、おどけ気味に答える。
事態の深刻さよりも、三住さんの軽さの方が、私には心配に思えてくる。
「長時間労働に関する違反については、実は、是正できていない。センターは、しばらく繁忙期が続く。是正できるのは、もうしばらく先……かな?」
「本当に、大丈夫なんですか?」
三住さんの頼りない返事で、ますます深刻な状況に思えてくる。
これって……もしかして……私たち、叱られに行く雰囲気じゃ……
自動車は、都市圏に向かうバイパスを快走し、役所やら、合同庁舎やらが建ち並ぶ区画の横を通り過ぎていく。
その中の、とある敷地への出入口に、三住さんは、慣れたハンドル裁きで入場し、スイスイと空いている駐車区画に、自動車を停める。
会社を出てから、四十五分の位置。
赤茶色の外装で、十階建ての合同庁舎。
ガラス張りのエントランスから中に入ると、すぐにエレベーターの乗り場に行き着く。
扉は三つで、三住さんは、どこの扉の前に立つでもなく、最寄りの上向きの矢印ボタンを押す。
すると、真ん中のエレベーターがポーンと音を立てて、反応する。
エレベーターの到着を待っている間に、一人、また一人と、周りにヒトが集まってくる。
再び、ポーンと音を立てて、扉が開いた時には、八……いや、ギリギリ一人増えて九人が集まっていた。
エレベーターには、上階から降りてきたオバさんが一人乗っていて、大勢の待ち人を見て、両目を丸くした。
私たちが先頭の位置にいたので、丸目のオバさんが出るのを待って、最初に乗りこんだ。
三住さんは、乗る際に、すかさず『8』のボタンを押していた。
他の乗客は、『3』のボタンを押したオジさんがいて、それ以外のヒトは、ボタンに触らなかった。
ちなみに、三階は『地方厚生局』と表示があった。
何をするところか、もちろん知らない。
そこで降りたのは、『3』を押したオジさんが一人だけ。
結局、私たちを含め、残った八人の全員が、八階まで上がった。
ドアが開くと、順序よく下車し、八階で待っていた五人が、そそくさと乗りこみ、逃げるように、階下に降りていった。
さて、ステンレス製の看板に『労働基準監督署』と書かれた部屋の前に立っている。
私には、ここも何をするところか、わかっていない。
先の八人は、予めルールが設定されてでもいたかのような機械的な動きで、各々がローパーテーションで仕切られたブースに、キレイに収まっていた。
ブースは、すでに満席となった。
三住さんは、そんな状況を気に留める様子も見せず、受付の女性に、
「監督官の宇田様をお願いします」
と、告げていた。
女性は、奥へ行き、その名前を呼ぶ。
すると、頭の真ん中あたりが禿げ上がった、優しそうな雰囲気の中年男性が奥から現れて、三住さんを見つけると、ニッコリと笑って、近づいてきた。
「お世話になっております」
お互いが挨拶を交わし、奥の方にある個室に案内された。
ドアを潜る時に、入口に掲げてある室名が表示された白いプレートを確認したら、『取調室』と書かれてあった。
室内は、一メートル半くらいの細長いテーブルが二本中央に寄せられ、向き合うように折り畳み可能な椅子が三脚ずつ並べられているだけの質素な部屋だった。
会社の『小会議室』に似ている。
私と三住さんが並んで座り、監督官は、三住さんの正面に座る。
三住さんは、ビジネスバッグから、クリアファイルに収まった書類を取り出し、監督官の方に向けて、テーブルの上に置く。
監督官は、それを手に取り、書類を確認する。
「『第二冷凍センター』の是正の件ですが、定期健康診断受診報告は、完了しました」
と、三住さんは、説明を始める。
「労働基準法三十二条違反の方は、人出不足が解消できていないのに加えて、夏の繁忙期が重なりまして、是正できておりません。経過報告を届出します」
三住さんの頭が四十五度、傾く。
「とりあえずの対策として、業務負担が大きい社員に対して、業務の平準化を図り、求人活動の継続、他事業場からの応援体制を強化するなど、できる限りのことをして、時間外労働時間の削減に努めていきたいと思います」
「繁忙期の中、すぐの改善は難しいと思います」
と、監督官は、三住さんをなだめるように言う。
「夏が過ぎて、是正の目処が立ったところでの、ご報告でも構いませんよ」
「仕事量が減って、時間外労働も減るのは当たり前のことですから」
と、三住さんは返す。
「繁忙期のたびに、違反状態に陥るのは、是正とは言えません。何とか、努力します」
「よろしくお願いします」
今度は、監督官が四十五度に頭を下げる。
「それでは、受け付けいたします」
監督官は、三住さんが用意していた是正報告書と、経過報告書の写しの隅に、今日の日付が入った丸い受付印を押し、渡していたクリアファイルと一緒に、三住さんの方に向きを変えて、返してくれた。
「ありがとうございます」
三住さんは、受付済の控えをクリアファイルに入れ、ビジネスバッグに入れる。
「なるべく早い段階で是正できるよう、頑張ります」
三住さんは、そう言って、立ち上がる。
私も、三住さんの動きに合わせる。
「失礼します」
私と三住さんは、『労働基準監督署』を後にし、社用車に乗りこんだ。