二
「あ」
と、私は、言葉を詰まらせた後に、一旦、呼吸を整えて、
「三住係長。よろしくお願いします」
と、挨拶し、四十五度の、模範的な最敬礼をした。
三住係長は、パソコン画面から、私の顔に視線を動かし、
「雨森さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
と、座ったまま、お辞儀をした。
三住係長のフルネームは、三住 明雄さん。
五十三歳。
当社に十二年の勤務歴で、入社時から、ずっと人事総務課に所属している大先輩だ。
今の人事総務課、黒沢課長も、谷口副課長も、三住係長の下から出世していったヒトたちだ。
「えっと……」
三住係長は、またパソコン画面に視線を向け、マウスをちょこちょこと動かし、
「よし。『小会議室』をおさえた。さあ、行こう」
と、言って、席を立ち上がる。
私も、その後に続く。
会社施設利用の際は、『グループウェア』から、事前予約することが、社内ルールとなっている。
『小会議室』は、テーブルと折り畳み椅子が四つ置いてあるだけの、文字通りの小さな会議室である。
係長と私は、向き合って、着席した。
係長とは、あまり会話をしたことがないので、どんな空気を作り出すヒトなのか、予測できない。
確か、新人研修の時に、会社の就業規則とか、コンプライアンスに関する講義を受けた記憶がある。
それと……『アイエスオー』だっけ?
内容は、ほとんど頭に残っていないが、二日くらい時間をかけて、話を聴かせてもらった。
その時に、もらった資料が……探せば、見つかると思うが……かなり分厚いファイルに綴じてあるはずだ。
そういう経験から、私が係長に対して、抱いているイメージといえば、ルール至上主義のカタいヒト、という感じだった。
それに、いつも出張ばかりしていて、あまり事務所にいないヒトである。
そんな係長が、今日から、私の上司になる。
今日の私が緊張気味であることは、さっき挨拶の場面で、いきなり噛んでいたことで、想像できると思う。
心が騒ぎっぱなしの私に対して、係長が最初に訊いてきたのが、
「雨森さん、下の名は、何ですか?」
だった。
私は、即座に
「水咲です」
と、答えた。
「雨森 水咲さん……ね。何だか、紫陽花のようなイメージがありますね」
「はあ……」
私が言葉を失っているところへ、さらに係長は、
「夏に、北海道に行ってね」
と、話をかぶせてきた。
夏、というのは、係長が一週間の有給休暇を取っていた八月上旬、まだ先月の話だ。
私が、内定者たちに承諾を促すのに、躍起になっていた頃。
係長は、北海道に帰省し、のんびり過ごしていたわけだ。
「赤レンガ道庁に、紫陽花が咲いてたんだ。そばに、向日葵も咲いてた。空を見れば、鰯雲が広がっててね」
係長は、スマホを手にし、ちょいちょいと液晶画面に指をこすりあてて、写真を私に向ける。
係長が、話していたとおりの、紫陽花と、向日葵と、鰯雲が、赤レンガ道庁と共に写っていた。
「季節感が、こちらと違うんだよね。北海道で、俳句を読むときは、季語に気を付けなきゃ、いけないね」
「三住係長は、俳句を読んだりするんですか?」
と、私が訊ねてみると、係長は、
「いや。俳句に興味は無いよ」
と、すげなく即答する。
私の肩が落ちる。
私の名前と、全くつながりが無い……
「あの……三住係長……」
「係長は、やめて」
と、係長が言う。
「名前を呼ばれる方が良いね。ずっと係長なんで、出世してないのがまる分かりで、テレくさい」
「じゃあ、三住さん」
と、私は、三住さんの顔を、まっすぐに見る。
三住さんも、私の顔を、まっすぐに見つめている。
「これから、私は、どんな仕事をするんでしょうか?」
「雨森さんは、どんな仕事がしたい?」
私の質問に対して、三住さんも質問で返してきた。
「私は……三住さんがしている仕事を覚えたいです」
と、私が答えると、三住さんは、ニッコリと笑って、
「私がどんな仕事をしてるのか、雨森さんは、どれくらい知ってるのかな?」
と、さらに質問をぶつけてきた。
「えっと……」
私は、いろいろと考えてみて、第一球目として、こんなキーワードを投げてみる。
「総務……」
三住さんの眉がピクリと上がる。
さらに、思案して、第二球目。
「出張が多い……」
「わりと、私のことを見てるんだね」
と、三住さんは、満足そうに、微笑む。
「じゃあ、総務ってなんだと思う? あと、私が、会社を出て、外へ何をしに行ってるのか?」
「それは、えっと……」
私が、第三球目のための思案を始めようとすると、三住さんは、すっと立ち上がる。
「これから、一緒に出掛けよう」
「ええ!」
唐突な展開に、私は、思わず悲鳴に近い声を上げていた。
三住さんは、社用の一号車のキーと、有料道路料金決済用の別納プレート、給油カードを、すでに手元に用意していた。
三住さんの今日の予定を、『グループウェア』で確認していないのだが、おそらく、以前から予定に入っていたのだろう。
社用車の使用は、当然に予約が必要だ。
でも、私は、三住さんに同行することを予定に入れていない。
「少し時間を下さい。私の予定に入れておかないと、課長に怒られます」
「スマホで、『グループウェア』を呼び出せないかな?」
「できます」
「じゃあ、車に乗ってから」
三住さんは、大きめの黒いビジネスバッグを右手に持ち、足早に社用車のある駐車場に向かう。
私は、とにかく貴重品だけが入ったポーチを取って、三住さんの後を追った。